の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

眞名井社 / 真名井神社

2014年08月17日 00時51分27秒 | 中国(鳥取、島根)
■拜殿、本殿■
(12th June 2010)
 


★眞名井社★ 島根県松江市山代町字伊弉諾84

・延喜式内社、出雲國意宇郡、眞名井社。

・舊社格は村社。

・祭は伊弉諾尊、天津彥根命。

・意宇六社の一社。他の五社は、魂、熊野、揖夜、八重垣、六所社。

・明治までは「伊弉諾社」を稱した。

・背後の茶臼山は名樋山で出雲國内四名樋山の一つで東南麓に眞名井の瀧を存す。


■社號標■
(12th June 2010)
 


■手水■
(12th June 2010)



■狛犬■
(12th June 2010)
 


■鳥居■
(12th June 2010)
 


■參道■
(12th June 2010)
 


■拜殿■
(12th June 2010)



■賽錢箱■
(12th June 2010)



■本殿■
(12th June 2010)
 


■末社兒守社■
(12th June 2010)
 

・宍道若宮社、山代社、荒社を合祀。


■末社末那爲社■
(12th June 2010)
 

・『出雲國風土記』所載の不在祇官社。


■出雲國廰蹟からの茶臼山の眺め■
(12th June 2010)
 


((コメント))

2010年6月12日

 瀧の元ではないが、なかなか、いい氣を感じさせる社であった。太陽が照り、カラッとして暑い境内に水の香りと氣が漂う。この地と東五百メートルのところにあるという眞名井の瀧、どちらが本來の眞名井社の鎭座地であり、不在祇官社末那爲社の鎭座地であったのかはわからないが同じを祭り、現在は同じ地にて祀られているという事なのであろう。美しいところであった。

宇留布社 / 宇留布神社

2014年07月23日 13時57分06秒 | 中国(鳥取、島根)
■鳥居■
(12th June 2010)

 

★宇留布社★ 島根県松江市八雲町平原2038

・延喜式内社、出雲國意宇郡、宇留布社。

・舊社格は村社。

・祭は大山祇命、木花咲耶姬命。須佐之男命、稻田比賣命、天照大御、伊邪那美命、稻背脛命、菅原道眞を配祀。

・『出雲國風土記』記載宇流布社に比定。

・明治三十九年(1903)、平原村内にあった三島大明、國原社、金多大明を合祀して、現在は國原社の社地に鎭座という。一說に、國原社と金多大明は同一とされ、三島大明の境内地が現境内地ともいう。この、三島大明が延喜式内小社宇留布社に比定、社號を宇留布社と改稱。

・もとは、宇留山(標百二十メートル)の中腹にあったと傳えられる。


■手水鉢■
(12th June 2010)
 


■拜殿■
(12th June 2010)
 


■本殿■
(12th June 2010)
 


((コメント))

2010年6月12日

 見つけるのに少し迷ってしまったが、何とか、たどり着いた。ウルフ=狼か、と勝手に想像してしまい、行った。もちろん、式内社というのは知った上であるが。正直、境内では特別なものは何も感じなかった。宇留山というところに、元は鎭座していたというので、本來の姿はわかるべくもないが、現社地はさほど特別なところではないように思う。

惠曇社 / 恵曇神社

2014年07月22日 02時18分24秒 | 中国(鳥取、島根)
■拜殿■
(12th June 2010)



★惠曇社★ 島根県松江市鹿島町佐陀本郷655

・延喜式内社、出雲國秋鹿郡、惠曇社、論社。

・舊社格は村社。

・祭は磐坂日子命。

・『出雲國風土記』に記載されている「惠杼毛社」の論社。

・創建由等不詳。


■鳥居■
(12th June 2010)



■參道■
(12th June 2010)



■隨門■
(12th June 2010)



■本殿■
(12th June 2010)



■磐座■
(12th June 2010)


・座王さんと呼ばれている。
・當社祭の磐坂日子命が國土開拓のため、その昔、國巡りの際の腰掛岩と傳えられている。


((コメント))

2010年6月12日

 佐太社から、車で數分に行ったところに鎭座する惠曇社へ行った。江戶時代に、式内社の裁定は當社ではなく、江角鎭座の惠曇社とされたそうであるが、實際の所、當社のほうが有力な式内社論社であり、江角の方は、不在祇社惠曇海邊社であろうと思われる。

 社自體は小さなところであるが、磐座もあり、まあ、何かを感じる地ではあるので、祀られた理由はおぼろげながら傳わってくる。大和の社とは大きく異なり、あまり、心地のいいものではないが、出雲の社としては通じる種の氣である。

美談社 / 美談神社

2014年06月03日 18時08分46秒 | 中国(鳥取、島根)
■拜殿■
(12th June 2010)
 


★美談社★ 島根県出雲市美談町182

・延喜式内社、出雲國出雲郡、美談社。

・延喜式内社、出雲國出雲郡、同社比賣遲社、合祀。

・舊社格は村社。

・祭は經津主命、武甕槌命、息長足姬命。比賣遲命を配祀。風土記の記述より、本來、祭は和加布努志命と思われる。

・『出雲國風土記』出雲郡の在祇官社五十八所中第十四社彌太彌社に比定。

・近世には八幡宮を稱した。

・風土記によると、所造天下大の御子和加布都努志命が、天と地が初めて分かれた後、天つの御領田の長として奉仕された。この中にそのが住まわれている。だから、〔御田を見るということにちなんで〕三太三という。龜三年(726)に字を美談に改めた、とある。

・建長年中、佐佐木次左衞門泰七男廣田が八幡宮を勸請合祀、以後、正八幡宮を稱す。

・享保二年(1717)の『雲陽誌』美談村の條には正八幡宮の社名はあるが、美談社の名は見えず、天保四年(1833)の『出雲社巡拜記』美談村條にて、美談社は八幡宮の合殿になっている、ということ、祭は經津主命なるべし、と記されている。

・明治時代にはいっての式内社復活思想により、八幡宮から美談社と名を改めているが、書が當社を式内美談社とする根拠は不明とされている。


■社號標■
(12th June 2010)
 


■鳥居■
(12th June 2010)
 


■木■
(12th June 2010)



■本殿■
(12th June 2010)
 


■末社印波社■
(12th June 2010)


・延喜式内社、出雲國出雲郡、印波社。


■末社縣社、和加布都努志社■
(12th June 2010)


・延喜式内社、出雲國出雲郡、縣社。
・延喜式内社、出雲國出雲郡、同社和加布都努志社。


((コメント))

2010年6月12日

 社號標を見ると、式内社であることが判明、參道石段を驅け上がった。社殿を見たとき、拜殿のガラス戶が衝擊的で、かなりがっかりすることに。まあ、本殿は惡くなかったが。個人的には參道石段途中にあった木の周邊が一番何かを感じたように思う。ただ、實際の所、當社が本當の式内社であるのかな、という氣が强い。別の風土記記載の彌太彌社のような氣がしないでもない。 

魂社 / 神魂神社

2014年02月06日 14時56分25秒 | 中国(鳥取、島根)
■社殿■
(30th December 2007)



★魂社★ 島根県松江市大庭町563

・舊社格は縣社。

・祭は伊弉册大。伊弉諾大を配祀。文年頃の新嘗会祝詞には、熊野大、大己貴命などの名が見え、一定していない。

・意宇六社の一社。

・出雲國造の大祖天穗日命がこの地に天降り出雲の守護として創建、以來、天穗日命の子孫が出雲國造として二十五代まで奉仕し、大社移住後も「火相續式」「古傳新嘗祭」奉仕のため參向しているという。

・『延喜式名帳』や國史、『出雲國風土記』には當社は記載されておらず、文献における初見は承元二年(1208)の鎌倉將軍下文であり、實際の創建は平安時代中期以降と考えられ、その社傳の信憑性は低い。


■鳥居■
(30th December 2007)



■社殿(拜殿、本殿)■
(30th December 2007)


 國寶(本殿)

・本殿は室町時代初期、正平元年(1346)建立の大社造。
・大きさは三四方さ四丈あり出雲大社本殿とは規模を異にするが、牀がく、木太く、特に宇豆柱が壁から著しく張り出していることは大社造の古式に則っているとされ、最古の大社造とされる。
・本殿内は狩野山樂土佐光起の筆と傳えられる壁畫九面にて圍まれ、天井は九つの瑞雲が五色に彩られている。


■末社貴布禰稻荷兩社本殿■
(30th December 2007)


 國重要文化財

・天正十一年(1583)の建立。
・社殿は珍しい二社流造である。


((コメント))

2007年12月30日

 十二月三十日であり雪も降り、太陽は覗かない。時は十五時十五分から十五分程度の滯在。暗く、うねる樣な氣の流れを肌で感じる。あまり好きではない雰圍氣だ。あまり名前も好きではない。しかし、とりあえず文化遺產ということで突入。

 ちなみにこの魂社は、巫女も最低でに仕えているということを言う資格はないようなやつらであった。

「お正月の用意をしていてお守りなどは置き換えたので出せません」

 參詣者に言う言葉ではない。失禮極まりなく、また自分たちの仕事がえるのが嫌で面倒くさいといった感じなのでカスといっても良いだろう。宮司はどう思うだろうか? だいたい、遠隔地から來ている參詣者になんと失禮なことであり、奢っていることであろうか?