の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

鑃社 / 諸スキ神社

2013年10月26日 20時29分22秒 | 中部(静岡、愛知、岐阜)
■境内■
(13th January 2010)



★諸鑃社★ 愛知県犬山市裏之門

・延喜式内社、尾張國丹郡、鑃社。

・舊社格は社。

・祭は建御名方命。

・仁壽元年(851)としているが不詳。

・桓武天皇の御代、尾張、伊勢の先住民退治に官兵を派遣。狂暴で征伐できず征夷大將軍坂上田村麻呂を遣わした。田村麻呂は日頃崇拜していた建御名方(諏訪大明)の分靈をこの地に祀り、無事征伐したという。

・中世は諏訪社と稱した。

・天正八年(1580)八月、織田信長寄進。


■一の鳥居、參道■
(13th January 2010)



■參道■
(13th January 2010)
 


■社號標■
(13th January 2010)
 


■參道、社叢、蕃塀■
(13th January 2010)
  


■拜殿■ 
(13th January 2010)




■本殿■
(13th January 2010)



■脇殿■
(13th January 2010)
 


■末社羣■
(13th January 2010)



■山之■ 
(13th January 2010)



■丸石■
(13th January 2010)



■社叢の木木■
(13th January 2010)



((コメント))

2010年1月13日

 この社は坂上田村麻呂關連。ここに社を創建して、討伐に挑んだということは、討伐對象はおそらく、尾張國弐之宮大縣社を祀っていた先住民であろうと思う。おそらくは土蜘蛛の一族。この社の空では特にそれほどのものを感じなかったが、個人的にあまり好きではない伊勢、尾張ラインの黃土系の臭いを感じさせる氣も出ていないので、嫌惡感を感じることはない。社殿は、新しく建てられたようで、この社に以前、參られた人の記錄をみても、違うものになっている。何故かは知らないが、安っぽくなっているのは氣のせいだろうか。木木に關しては、杜が若干殘されているので、いい感じであった。境内の一角に丸い石をおいて圍うているところがあったが、祭祀に使用されるものなのであろうか。

 參拜時、雪が降っていたのだが、境内にいてるときに一陣の風を吹かせて挨拶してくれたのか、木木に積もっていた雪が綺麗に散り落ちる樣を見ることになった。

遠江國一之宮小國社

2010年11月27日 19時42分19秒 | 中部(静岡、愛知、岐阜)
■社殿■
(9th June 2008)



★遠江國一之宮小國神社★ 静岡県周智郡森町一宮字澤3956-1

・延喜式内社、遠江國周智郡、小國社。

・舊社格は國幣小社。

・祭は、大己貴命。

・「小國」という社名は、出雲の「大國」に対する遠江の美稱であるとされる。

・創建時期は不明だが、社傳によれば、欽明天皇十六年(555)二月十八日、現在地より六キロほど離れた本宮山に靈が示現したので、勅命によりそこに社殿が造営されたのに始まるという。このときに正一位の階が授けられたと社傳にはあるが、國史での當社の初見である『續日本後紀』承和七年(840)六月十四日條では、遠江國周智郡の無位の小國天に從五位下を授け奉るという記録があり、六國史終了時の階は從四位上。

・當社を一之宮として記載する史料の最初は、文暦二年(1235)の「当國鎭守小國一宮」という記述であり、江戸時代には「一宮社」と稱した。

・本宮山山頂には奥宮として奥磐戸社が祀られているが、その社域には杉の古木が立ち、眼下には遠江國が一望される。

・事待池のことより、許當麻知社、事任社とも呼ばれた。

・中世以降、朝廷の衰退により勅使が廃れたが、室町時代、戰國時代を通じて祭祀が途断えなかった。

・元龜三年(1572)、甲斐の武田信玄が遠江に侵攻した際、當社職は徳川家康に味方したという。


■一の大鳥居■
(9th June 2008)



■末社飯王子社■
(9th June 2008)


・祭は保食。
・社傳や古老によれば、昔、遠州横須賀地方に毎年、早天長雨のために五穀實らず住民がこぞって一之宮に詣で祈り、豆を捧げたところ村長の靈夢に「瑞殿を横須賀の方に向け保食を飯王子社と稱へ奉らば五穀みのらむ」という託があったらしい。


■參道、橋■
(9th June 2008)

 

■手水舎■
(9th June 2008)
 


■鉾執社■
(9th June 2008)


・社に奉仕された先祖代代の社家人の魂を仰ぎ本社の愈愈の御の御発揚を祈念し、人和樂主家を始めとする社家四十一家の祖先に感謝し社頭の隆昌人後裔の繁榮と加護をを祈念しと人との嚴鉾の中執持の功績を稱へ鉾執社として鎭祭されている。


■參道■
(9th June 2008)



■勅使參道杉竝木■
(9th June 2008)
 

 森町指定文化財

・人皇第二十九代欽明天皇の御代に奇瑞ありて天聴に達し正一位の階を授けられた。
・大寶元年(701)春十八日勅使が參向し十二段の舞樂を奉奏、以來毎年勅使奉幣し舞樂と奉奏せられた當時の勅使參道跡。
・一般參拜者は通行しない。


■事待池と八王子社■
(9th June 2008)
 
 

・祈願に來て、心願が成就すれば鯉を放つということから「事を待つ」ということで事待池となったらしい。
・池の水をいぼに塗るといぼが取れるということで「いぼとり池」ともいうらしい。
・八王子社祭は市杵島媛命、正勝吾勝勝速日天忍穗耳命、天之菩卑能命、天津彦根命、活津彦根命、熊野久須毘命、多紀理毘賣命、多岐津比賣命。


■全國一宮等合殿社■
(9th June 2008)


・延寶八年(1680)の社記、諸古文書の社頭配置図によると全國一宮等御祭七三柱が境内社として各所に祀られていた。
・明治の初めに本社燒失時または腐朽等により明治十五年(1882)より境内末社八王子社に仮に合祀されたものを平成元年(1989)十二月氏子崇敬者の守護として復興、鎭祭された。


■木「駒止の杉」■
(9th June 2008)



■舞殿■
(9th June 2008)
 


■拜殿■
(9th June 2008)

 


■本殿■
(9th June 2008)
 


((コメント))

2008年6月9日

 午前七時ごろに遠江國一之宮小國社に到着した。土砂降りのせいもあり、まだ薄暗い状態であった。雨にたたきつけられて、足は出だしからびしょびしょ・・・ 傘を差しながら雨に打たれ、參道を本社のほうへと進む。霧が立ち籠もり、幻想的で好きな感じではある。事待池と八王子社周辺はなかなか美しい景色。ただ、雰囲氣は不氣味な感じで晴れ晴れしい氣などは存在しない。實際、雨天ということもあるが、全體に暗い系の氣ではあるも重みがあり、幻想的でいい雰囲氣を社が出しているのがわかる。

 朝早く、激しい雨天のため人は誰もいないと思っていたら、障害を持っているらしき老女が熱心にお祈りをされている最中であった。私が帰るときも、まだ祈り續けられていたが、彼女にのご加護があるように願う。

駿河國一之宮富士山本宮淺間大社

2010年11月27日 19時33分57秒 | 中部(静岡、愛知、岐阜)
■樓門■
(10th June 2008)
 


★駿河國一之宮富士山本宮淺間大社★ 静岡県富士宮市宮町1-1

・延喜式内社、駿河國富士郡、淺間社、名大。

・舊社格は官幣大社。

・祭は木花之佐久夜毘賣命。天津日日子番能邇邇藝命と大山津見命を配祀。本來の祭は富士山の靈「淺間大」で、いつごろからか木花之佐久夜毘賣命と同一視され、定着したという。

・日本國内に千三百余にのぼる淺間社の總本宮で、大宮淺間とも言われる。

・本宮の名稱は、静岡淺間社の舊通稱淺間新宮を踏まえたものであるという。

・富士山の八合目より上の部分は、登山道、富士山測候所を除き、淺間大社の境内とされ、國との裁判の末、最裁判所が認めた。

・現社地は、式内富知社舊社地と傳えられる。

・第七代孝靈天皇の時に富士山が噴火し國中が荒れ果て、その後、十一代垂仁天皇が富士山の靈「淺間大」を鎭めるために、山宮の地に祀ったのが當社の始まりと伝わり、大同元年(806)、征夷大將軍坂上田村麻呂が勅を奉じ、山宮より、現社地である富知社舊社地へと遷したという。山宮の位置は、富士山表參道を現社地より、五キロメートルほど登った位置にあり、社殿のない磐境であったという。

・中世以降、武家の尊崇篤く、源朝をはじめとして源實朝、北條義時、足利尊氏、武田勝、中村一氏、豐臣秀吉らによる社領寄進、社殿造営と修復などが相次ぎ、川家康も朱印地を安堵、關が原の勝利を謝して慶長四年(1604)に社殿を再建した。


■二の鳥居■
(10th June 2008)



■流鏑馬銅像■
(10th June 2008)



■樓門■
(10th June 2008)



■鉾立石■
(10th June 2008)


・明治以前の春秋の大祭時に、靈を宿した鉾が本宮と山宮のを移動するときの休息時に鉾を安置した石。
・現在は、この石と山宮淺間社參道の二基しか殘っていないという。


■拜殿■
(10th June 2008)



■拜殿、本殿■
(10th June 2008)



■本殿■
(10th June 2008)


 國重要文化財

・川家康が關が原の戦いの勝利の御礼により寄進し造営されたものという。
・豪華なものであったのだが、寛永安政などの大地震のため倒壊し、現存するのは本殿と幣殿、拜殿、樓門のみという。
・『淺間造(二重樓閣造り)』という二階建ての獨特な造りをしている。


■攝社七之宮淺間社■
(10th June 2008)



■攝社三之宮淺間社■
(10th June 2008)



■末社水屋社■
(10th June 2008)



■湧玉池■
(10th June 2008)




 國特別天然記念物

・靈峰富士の雪解け水が溶岩のから川湧き出ている。
・水温は年間を通し、大体、約攝氏十三度。湧水量は一秒間に約3.6キロリットルで、年間ほぼ増減はない。
・昔から富士道者はこの池で身を清めて六根清淨を唱えながら登山する慣わしだという。


■富士山■
(19th May 2009)
 


((コメント))

2008年6月10日

 實際、社そのものには何も感じないというか、御氣のかけらもないのであるが、富士山自体が偉大なのでその靈力が滿ち溢れる感じである。拜殿の中は多少派手な感じではあるが、少し「錢がありますねん」という意思表示に見える。個人的には、卑しさしか感じない。

 現在は立派な鳥居が再建されているのだが、他の宗教はすべて罵倒する権力だけの團体創価學会のクレームにより一度撤去されているのは嘆かわしい限りだ。


2009年5月19日

 本栖湖の畔からしき富士を望む。流石である。

飛騨國一之宮水無社

2010年11月05日 02時50分36秒 | 中部(静岡、愛知、岐阜)
■鳥居と社號標■
(22nd June 2008)



★飛騨國一之宮水無神社★ 岐阜県高山市一之宮町一之宮5323

・延喜式内社、飛騨國大野郡、水無社。

・舊社格は國幣小社。

・祭は御歳大。大己貴命、武天皇、應天皇、天火明命、三穗津姫命、照光姫命、降姫命、須沼比女命、大歳大、天照皇大、豐受姫大、少彦命、天熊大人命、大八椅命を配祀。大八椅命は尾張連斐陀國造祖。

・創立年代不詳。

・遠く古代に飛騨地方を統一した國造の始祖が、國土經営の支柱として祀ってきた國魂と考えられる。

・飛騨國式内八社の首座となり、總社も兼帶した。

・古代には祭を何と確定的意識もなくただ「水無の」とされていたと思われる。延喜式名帳にも祭は記されていない。(諸社で祀るの名を決めたのは後世のことであろうと思われる。)

・仁天皇六十五年(377)、飛騨國両面宿儺追討の勅命を受けた難波根子武振熊(和珥臣の先祖)が先帝應天皇の尊靈を籬をたてて祈ったという祭祀跡の八社のうちの一つとしての傳承がある。水無八幡と称され、飛騨八幡八社の首座とされた。

・平安時代には、主は祇官より任命され、祇伯家の支配下にあったという。

・戰國期、十二家ある祝の一つであった山下國綱、松倉城主三木自綱と婚を通じ武威を誇ったが、豐臣秀吉の先鋒として入ってきた金森長近に破れ、討死し、水無社も大打撃を受けた。

・後に大庄屋市右衛門は國綱の嫡子を自らの子として金森家に申し立て、一宮職山下家を再興した。家臣の職森家と二家が以降社家となり、千光寺が別當職を勤めた。

・山藩主となった金森長近は、慶長十二年(1607)、社殿造営を計り、再興に勤めた。その後、歴代山藩主の尊崇篤かった。

・安永二年(1773)、飛騨一円を巻き込む農民一揆大原騒動が起き、當社がその大集会場になった廉で、職山下和泉、森伊勢が磔刑となり、退転を余儀なくされた。

・山下、森家に代わり信州より梶原伊豆守家熊が招かれ、両部道を改め、阿彌陀堂、鐘堂、仁王門を撤去し社殿の大改修を行った。また、從來の祝、社人、社司などと稱した職名を宮司(大宮司)制に改めた。

・王政復古の下の廃藩置縣により初代山縣知事となった梅村速水は、富田稻太を司総督として國中の社の調査を命じ、明治政府発布の佛判然令(明治元年)に基づき、佛分離を進め社内にある佛像を撤去させ、佛教關係の古文書等多くを燒却し、史籍を失う。

・明治五年(1872)、太政官布告をもち世襲主、社家(毛利、藤枝、藤江)を廃し、山崎弓雄を權宮司、市村成章を禰宜に任じ、以降、戰後の社制度改正まで官選の宮司が任命された。

・島崎藤村の父島崎正樹宮司が明治七年(1874)から三年間在職している。

・戰時中、熱田宮の疎開があり、名古屋より水無社へ御動座となっていた。

・現在、宮司は社家であった三家の一つ藤枝家の當主藤枝和泉氏がされている。


■大杉■
(22nd June 2008)


 岐阜縣天然記念物


■絵馬殿(舊拜殿)■
(22nd June 2008)

 

 高山市指定文化財

・慶長十二年(1607)、山城主金森長近造営。
・安永七年(1778)、大原騒動の後、信州より迎えた主梶原家熊、両部道を唯一道に改め、從來の佛像、佛具はもとより社殿の多くを取り壊したが、この社殿のみ取り壊しを免れた。
・明治三年(1870)、山縣知事宮原積は入母屋造りの從來の社殿を神明造りに改め、この建物を建替用として取り壊したのを氏子が自分たちの大切な拜殿として保管した。
・明治十二年(1879)、氏子は保管中の拜殿再興を願い出、元の位置に復元した。
・戰後、大造営により、この場所に移った。


■ネジの木■
(22nd June 2008)
 

・この大檜を橋の木材として差し出すように時の代官が命じ、伐ることが決まったその夜に、意で一夜にしてねじまがったと復命し、以後、當社の檜を伐る事はなくなったという。


■馬■
(22nd June 2008)


 高山市指定美術工芸品(文化財)

・目が刳り貫かれたようになっているが、鞍掛馬と記されているらしい。
・史實はともあれ、傳説の左甚五郎の作と傳えられている。


■境内■
(22nd June 2008)
 


■手水舎■
(22nd June 2008)



■門■
(22nd June 2008)



■拜殿■
(22nd June 2008)
 


■本殿■
(22nd June 2008)

 


((コメント))

2008年6月22日

 島村藤村の父が宮司をしていた飛騨一宮水無社。小雨が降り續いていた。社名は、一般に「みなし」社と續むそうだが、「みずなし」という説もあるという。もっと、人里離れた鬱蒼とした山の麓の森の中に、寂しく鎭座していることを想像して行ったのであるが、國道の近くで駅もすぐのところにあり、やや拍子抜けではある。小雨の中、舊拜殿であった絵馬殿、境内の古い木木、馬、その他を色色見ながら門の元へ行った。そこからは先に入れない。境内は 静寂に包まれ、ひんやりとした氣が傳わってくるようであった。だが、ものすごく強い氣ということはない。ただ、昔、人人がこの社を深く信仰していた事は傳わるものではある。

 しばらく、ぶらぶらとしてから社務所にお守りなどを買いに行った。宮司さんだけがおられたようだが、この宮司さん、顔をじっと見てから、話しかけてこられた。何か感じたのかね。しばらく、話をした後、奥の部屋からペットボトルを持ってきて、「せっかくだから、そこの水を汲んでいきなさい。これ、洗ってるから大丈夫。遠くからも水を汲みに來る人がいるくらいだから。あなたも飲んでみるといい。」 と。禮を言って、水を汲んで帰らせてもらうことにした。

遠江國一之宮事任八幡宮

2010年07月13日 23時01分25秒 | 中部(静岡、愛知、岐阜)
■境内■
(9th June 2008)



★遠江國一之宮事任八幡宮★ 静岡県掛川市八坂642

・延喜式内社、遠江國佐野郡、己等乃麻知社。

・舊社格は縣社。

・本來の祭は己等乃麻知媛命。言靈のである興台臺産命の后。息長帶姫命、譽田別命、玉依比賣命を配祀。

・創建時期は不明だが、社傳によれば成務天皇の御代(84-190)とされている。

・大同二年(807)、坂上田村麻呂の東征に際し、桓武天皇の勅命で、それまで鎭座していたすぐ北側の本宮山から現在地へ遷座となったと傳わるが、彼の蝦夷の阿弖流爲の事といい、坂上田村麻呂の熊野の鬼ヶ城に傳わる鬼退治の名の下の先住民の討伐といい、それらから推測してこの地の先住民討伐後の抑えとしての遷座と思われる。

・平安時代後期の八幡信仰ブームに、康平五年(1062)、源義が石清水八幡宮から八幡を勧請し、日坂八幡宮や八幡社とも稱されるようになったという。

・東海道沿いにあり、難所でされる小夜の中山の西側の麓にあたることや、「ことのまま」の名が「願い事が意のままに叶う」の意味を持つことから、多くの人が旅の安全や願い事成就を祈るため立ち寄り、また江戸幕府も朱印百石余りを献上するなど崇敬を集めた。

・明治時代、八幡社を稱したが、第二次大戰後、「ことのまま」の名に戻し、事任八幡宮となり、現在に到る。


■鳥居と石橋■
(9th June 2008)



■大クスノキ■
(9th June 2008)
 

 掛川市天然記念物

■二の鳥居■
(9th June 2008)



■拜殿■
(9th June 2008)

 


■本殿■
(9th June 2008)



■大スギ■
(9th June 2008)

 
 掛川市天然記念物


((コメント))

2008年6月9日

 正直なところ、直感としてまったく御氣は感じなく、様はいないという感じである。ただ、なんとなく重苦しい雰囲氣だけが漂っており、少し丘陵氣味の上のほうに稻荷があり、不氣味さを増す。地形的に、古墳ではないかと思うが、境内の由緒にはその記載は見られない。一の鳥居をくぐってすぐ左を見るとなんやら階段が續き、木の下に立て札が立つ。行っていないので何かはわからぬが、正直、重苦しい氣が立ち篭もる。ここに、元元、この地に住んでいた先住民族が大和朝廷によって虐げられ、眠るのではないか、と勘繰ってしまう。この社の移転もそのことに起因するのではないのだろうか?

 境内にはは存在していない。ただ、死者の魂だけが彷徨えるようである。元元は、八幡を祀る社で無く、源義により八幡が勧請されたらしいがどうも、八幡系は好きになれぬものだ。八幡系は武門のというよりも、その性格から侵略民族によって虐げられたた民族に対する封印にしか感じられない。