の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

許曾志社

2011年01月20日 22時41分22秒 | 中国(鳥取、島根)
■隨門■
(12th June 2010)
 


★許曾志社★ 島根県松江市古曽志町字松尾466

・延喜式内社、出雲國秋鹿郡、許曾志社。

・舊社格は縣社。

・祭は猿田毘古命、天宇受賣命。

・創建年代等不詳。

・『出雲國風土記』に記載されている古社。

・貞享以前は、現社地の南「元宮」に鎭座していたが、貞享元年(1684)、松尾山の麓に遷座。


■鳥居■
(12th June 2010)
 


■參道■
(12th June 2010)



■手水舎■
(12th June 2010)

 

■拜殿■
(12th June 2010)
 


■本殿■
(12th June 2010)
 


■末社熊野社■
(12th June 2010)
 


■末社火除社■
(12th June 2010)

 

■末社飯生社■
(12th June 2010)

 

■狛猿■
(12th June 2010)

 

■樂殿■
(12th June 2010)

 

((コメント))

2010年6月12日

 許曾志社は佐太社への道中にあったので、最初から行く予定であったが、すごく長閑な地区にあった。個人的には、なんとなく、美談社周辺に通じるものを感じたのであるが、境内に關してはまったくの別物であった。境内には、狛鶏に狛猿、余り好きな感じではなかった。後はやはり、祭はサルタヒコというのもある。色々と思うところがあるのだが、多太、若干、思うところもないわけではない。昔は、サルタヒコとアメノウズメを単純に國津と天津として考えていたのだが、必ずしもそうではないのではないか、と。この地区に關していうと、紀伊、大和から移った古代イズモ族と別の民族。そう考え始めると、似たような出来事はおそらく、サルタヒコとアメノウズメに當てはめられたのに違いない。そうして、全國各地に同じ名稱のの傳承があるので話が複雑になるんだろう。

石上宮

2011年01月09日 14時29分28秒 | 近畿(奈良)
■拜殿■
(12th February 2003)



★石上宮★ 奈良県天理市布留町384

・延喜式内社、大和國山邊郡、石上坐布都御魂社、名大、月次相嘗新嘗。

・『延喜式』臨時祭、祈雨祭八十五座、竝大の一。

・二十二社、中七社の一。

・舊社格は官幣大社。

・祭は布都御魂大、布留御魂大、布都斯魂大。宇摩志麻治命、五十瓊敷命、白河天皇、市川臣を配祀。本來は一座なので、布都御魂大一座と思われる。

・布都御魂大は體である布都御魂剣に宿る靈。

・主祭三は禁足地に埋祀され、配祀四は『石上布留社略記』によると、中古まで宮の前の山に祀られていたが殿が朽損したので拜殿に遷し祀ったという。

・『日本書紀』に記された二つの宮のうちの一つ(もう一つは伊勢宮)で、日本最古の宮。

・物部氏の總氏とされる。

・布留大明と稱される。

・古くは齋宮が居たというが不明。

・社傳によれば、布都御魂劔は武甕槌、經津主二による葦原中國平定の際に使われた劔で、武東征で熊野において武天皇が危機に陥った時に、倉下命 (夢に天照大、木、建御雷が現れ手に入れた)を通して天皇の元に渡り、その後、物部氏の祖宇摩志麻治命により宮中で祀られていたが、崇天皇七年 (紀元前91)、勅命により物部氏の伊香色雄命が現在地に遷し、「石上大」として祀ったのが當社の創建であるという。

・備前國一之宮石上布都魂社より、崇天皇の御世に、素盞嗚尊が八岐大蛇を斬ったという十握劔が布都斯御魂として吉備部のもとに祀られていたが、仁天皇五十六年(368)、市川臣が勅を奉じて、それを石上振宮(當社)の庭の地に遷し、埋齋されたという。

・丹波國桑田村甕襲というものの飼い犬が食い殺した「牟士那」という山の獣の腹から八尺瓊の勾玉が出てきたので献じられ、當社に傳わる。

・平安京遷都に伴い、延暦二十三年(804)二月五日、造石上宮使石川朝臣吉備人等をして宮の器仗を山城國葛野郡に運ばせたところ、鳴鏑の異がしきりに起こり、村邑が恐れおののいたことにより、布留宿禰庭は寶を遷すことを停止するよう奉聞したが、聞き入れられず、さらに倉が倒れたり、聖體不豫のことなどがあり、春日祭使建部千繼が女巫に託を聞かせて奏上し、よって天皇の御年数に准じて宿僧六十九人に石上宮で讀經させ、の怒りを鎭めて宮の器仗を返納せしめたと『日本後紀』に記される。

・社傳によると、永保元年(1081)、白河天皇が鎭魂祭を行う場として、宮中三殿の一つである嘉殿を拜殿として當社に寄進し、門を改築し、今日の樓門を建て、寛治六年(1092)、上皇として參詣したという。

・中世以降、興寺と度度、抗争を繰り返し布留郷一揆が頻発、戰國時代に入ってからは織田信長の勢力に負け、領も没収されたが、氏子たちの信仰は衰えず、明治十六年(1883)、再び宮號を名乗ることを許された。

・本來、本殿は存在せず、拜殿の奥の聖地(禁足地)を「布留庭」「御本地」などと稱して祀り、またそこには二つの寶が埋齋されていると傳えられていた。

・明治七年(1874)の発掘を機に、出土した劔(布都御魂劔)や曲玉などの寶を奉齋するため本殿を建造。

・兵器類奉納の傳承が多いことから、當社が朝廷の兵器庫的役目を果たしていたという説があり、實際、物部連は朝廷の軍事的役割を負っていたことを考えるとあながち否定は出來ない。

・當社の祭祀には物部氏の他、大伴氏、佐伯氏も關與しているが、すべて、大和朝廷の軍事にかかわる氏族である。


■樓門■
(1st January 2011)


 國重要文化財

・文保二年(1318)建立。


■拜殿■
(1st January 2011)

 

 國寶

・永保元年(1081)、白河天皇が鎭魂祭を行う場として、宮中三殿の一つである嘉殿を拜殿として當社に寄進、門を改築、今日の樓門を建て、寛治六年(1092)、上皇として參詣したと傳えられる。


■攝社出雲建雄社拜殿■
(1st January 2011)




 國寶

・内山永久寺(廃佛毀釈により廃寺)から大正三年(1914)に移築。
・正安二年(1300)頃の建立とされる。
・建物の中央部分を土間の通路とした「割拜殿」と呼ばれる形式をとる。


■攝社出雲建雄社(左)、末社猿田彦社(右)■
(12th February 2003)

(1st January 2011)

 

(出雲建雄社)
・延喜式内社、大和國山邊郡、出雲建雄社、論社。
・祭は出雲建雄。
・朱雀元年(636)、布留川の上日谷に瑞雲が立勝る中、剱が光を放って現れ「今此の地に天降り、諸の人を守らん」と宣言し直ちに鎭座されたという。
・體は靈劔。

(猿田彦社)
・祭は猿田彦。


■攝社天社(左)、攝社七座社(右)■
(1st January 2011)


(天社)
・祭は皇産靈、皇産靈。

(七座社)
・祭は生産靈、足産靈、魂留産靈、大宮能賣、御膳都、辞代主、大直日。


((コメント))

2003年2月12日

 十八歳の正月の初詣以來、約十一年ぶり。日本史の授業でも名を聞くほどの有名な社だ。

2011年1月1日

 正月になった午前二時半、少し遅めの訪問あったが、まだ、まずまずの參拜客の姿が見られた。流石である。

鴨都波社

2011年01月09日 13時01分23秒 | 近畿(奈良)
■拜殿■
(1st January 2011)
 


★鴨都波社★ 奈良県御所市宮前町掖上513

・延喜式内社、大和國葛上郡、鴨都波八重事代主命社二座、竝名大、月次相嘗新嘗。

・舊社格は縣社。

・祭は積羽八重事代主命、下照姫命。建御名方命、倭大物主櫛甕魂命を配祀。ただし、主祭については異説あり確かではない。

・境内、および付近一帶は彌生時代の鴨都波遺跡である。

・南方すぐの字三室には、孝照天皇の掖上博多陵があり、また、この地域は弓月君が百二十七縣の民を率いて移住した掖上の故地とされる。

・四時祭式の相嘗祭の項では「葛木鴨社二座」、臨時祭式の名祭の項では「鴨社二座」と略稱されている。

・鴨社に對して「下鴨社」という別稱もある。

・『異本大三輪三社鎭座次第』、『新撰姓氏録』によると、崇天皇御世、太田田根子命の孫である大賀茂都美命が葛城の鴨に事代主命を奉齋したのが當社の始まりで、大社別宮として、賀茂氏に祭祀されたという。

・『令義解』祇令では、大社、大和社と竝び代表的な地祇とされている。

・新羅の使が入朝した際、酒料の稻三十束を攝津の住道社に送ることが定められていた。


■社號標、狛犬■
(1st January 2011)
 


■參道、狛犬■
(1st January 2011)
 


■拜殿■
(1st January 2011)

 


■末社祓戸社■
(1st January 2011)



((コメント))

2011年1月1日

 當初、熊野の産田社へ行くつもりであったのだが、雪のために斷念。せめて、天彦社と思い、金剛山麓を車で走らせるも、水越峠のところにて全面通行止めのために行くことができず、急遽、鴨都波社への訪問とした次第。

 天候惡く、參拜者も少ないか、と思ってはいたが、この地区の名社である事から、駐車場はほぼ滿車の状態であった。寒い中、ご苦労なことである。三度目の訪問なので、特に、何も新しく発見することはなかったが、まさか、ここに初詣に来ることになるとは思わなかった。