の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

雑記15 『本住吉』

2011年07月03日 10時26分05秒 | 雑記
 以前、戸の本住吉社の宮司さんと話をした時、彼は博多の住吉社→下關の住吉社→本住吉社→住吉大社と住吉のが遷ってきたことを主張されていた。これは、本住吉社側の見解のようである。しかし、これは文献的な裏づけはなく、また、戸の本住吉社の周邊には住吉を「すみのえ」と呼んだという事實もなく、その根拠はないと考えらる。

 實際、日本書紀に見える住吉大が最初に示現し、祭祀を受けたところというのは地形的な考證からも大阪市の難波津住吉が妥當と思われる。攝津國にはもう一社、一之宮とされる坐摩社があるが、山根太郎という方は「住吉の大と坐摩のは同體」とみて、上代から中世を通じて坐摩のの鎭まる社のあった地域、今の坐摩社行宮を、最初に住吉の示現し、祭祀を受けた地と想定している。實際、『住吉大社代記』には坐摩のが「住吉の大の御魂」と記されている。

 そういったことを考えると、住吉大社の元宮が本住吉社という關係がなくなる。そうすると、本住吉社の祭がどこから勸請されたものかわからないので、両社の關係性は非常に薄いと考えざるを得ない。

雑記14 『百濟』

2011年07月03日 09時09分49秒 | 雑記
現在、百濟は韓國では「ペクチェ」と呼ばれており、海外のアジア史の本もその名前を使用している(ちなみに句麗が「こぐりょ」、新羅が「シイラ」)。句麗の讀み方は「こぐりょ」であり、「こうくり」は似ているので理解可能。新羅も少し変わっているが、敵對していたこともあり、「新羅野郎め」という意味合いを持つ言葉がそのまま新羅に當てはめられ「しんら」となるところが「しらぎ」となったという。これに比べ、百濟は「くだら」と「ぺくちぇ」は大きく異なる。滋賀県の百濟寺が「ヒャクサイジ」であることは、この「ペクチェ」の日本語讀みとされていると思われる。個人的には、「ヒャクサイ」よりも「ヒャクセイ」のほうが近いのではないのか、と思うが。

枚方の百濟王社や奈良県の百濟寺では「くだら」と讀む。これらの地域は、渡來民族の住んでいた地域であることは誰もが知っているところで、朝鮮半島所縁の名前なども殘っているのが事實である。

ところで、百濟の讀み方であるが、百濟文化研究の文献によると、實際、百濟と言う國が存在していた頃、日本語の仮名や朝鮮のハングルがなかったために中國が使っていた國名を日韓の歴史書では使用しており、「ペクチェ」という讀み方はそれをハングルの音讀しただけのものであるという。百濟という中國名は、國名の音を参考に書かれたものではないと言うことであり、それは念頭においておくべきであろう。

日本書紀では、中國で使われた「百濟」という文字に註をつけて漢字で「久太良(くたら)」と讀み方を書いて殘している。日本書紀には藤原氏が大きく關わっている。中臣鎌足は、實際、系圖上の父親と祖父の存在も疑われている状態であり、彼の登場時期、活躍時期を考えた上で、人質に來ていた百濟王の王子豐章という説もあり、また「藤原」というのは韓國語であり、また、桓武天皇は父親が死んだときに「アイゴーアイゴー」と韓國で泣いた事も續日本紀に記載があり、彼の御代の國司や中央官僚の大半は百濟からの民であったことも考えると、國の名稱についても精通しているのが實際のところであろう。それを、正史において一切、訂正されていないことが、正しい國名の讀み方であることを證明しているといってもよい。廣陵の百濟の地名も百濟から移住してきた民が名乗り續けた名稱である。世界的に、他國へ移住していった民たちは、故國の地名をそのまま名乗る傾向が強く見られるものである。しかも、百濟と日本は親交深く、その名を隠す必要もない。

百濟王社や廣陵の百濟寺は、國名の「くだら」をそのまま殘した名稱で、滋賀の百濟寺が「ヒャクサイ」としているのは、通例として、社の名前が基本的に訓讀みであるのに對し、寺の名稱は音讀みにしているもので、それと同樣であろうと考える。百濟寺側は公にそのようには書いておられないが、社傳や寺傳とは、作られた面も多く、そのまま鵜呑みには出來ぬものである。