の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

讃岐國一之宮田村神社

2010年03月06日 18時02分37秒 | 四国(徳島、香川、愛媛、高知)
■桃太郎(倭迹迹日百襲姫命と吉備津彦命)銅像■
(21st July 2008)



★讃岐國一之宮田村神社★ 香川県高松市一宮町286

・延喜式内社、讃岐國香川郡、田村神社、名神大。

・旧社格は國幣中社。

・祭神は倭迹迹日百襲姫命、猿田彦大神、天隠山命(高倉下命)、五十狭芹彦命(吉備津彦命)、天五田根命(天村雲命)をもって田村大神とする。

・別称は一宮神社、定水大明神、田村大明神。

・社伝創建前は井戸の上に神が祀られていたことから、元々は当地の水神であったとする説がある。

・社伝では、はじめ現在の奥殿の下にある定水井という井戸にいかだを浮かべて、その上に神を祀っていたが、和銅二年(709)に行基によって社殿が創建されたとされる。

・当初は義淵僧正によって大宝年間に開基された一宮寺と同一視(建物も同じ)されていたが、1679年に高松藩主であった松平頼重により分割され、一宮寺は別の地に移された。


■一の鳥居■
(21st July 2008)



■参道■
(21st July 2008)



■神門■
(21st July 2008)
 


■二の鳥居■
(21st July 2008)



■拜殿■
(21st July 2008)



■本殿、奥殿■
(21st July 2008)



■境内社姫之宮■
(21st July 2008)



■龍神■
(21st July 2008)




■境内社宇都伎社拝殿、本殿■
(21st July 2008)



・祭神は大地主神、倉稻魂神。


■境内社宇都伎社にある蛇神の宿る木■
(21st July 2008)



((コメント))

2008年7月21日

 正直、この神社には何となく、期待をして訪れたのであるが、あまりこの神社の持つ気というものはわたしの好きなタイプではなく、また、わたしに轟くほどの強さもなく、非常に残念であった。

 ところで、境内には、新しくなってはいたが、管領細川頼之、応仁の乱で有名な細川勝元、水戸光圀の長男で高松藩主であった松平頼重らが寄進したことを示す石標が建っていたのが気になった。

備中國一之宮吉備津神社

2010年03月06日 17時29分52秒 | 中国(岡山、広島、山口)
■境内入口■
(10th November 2008)



★備中國一之宮吉備津神社★ 岡山県岡山市吉備津931

・延喜式内社、備中國賀夜郡、吉備津彦神社、名神大。

・旧社格は官幣中社。

・主祭神は大吉備津彦命。相殿に御友別命、仲彦命、千々速比売命、倭迹迹日百襲姫命、日子刺肩別命、倭迹迹日稚屋媛命、彦寤間命、若日子建吉備津日子命を祀る。

・備中国と備前国の境にある吉備中山の麓に鎮座し、備前國一之宮の吉備津彦神社は同じ吉備中山の麓にある。

・元々、吉備國一之宮であったが、吉備国が三国に分割されたとき、備中國一之宮となり、備前、備後に分霊が勧請され、それぞれの国の一之宮となっている。

・社伝では、吉備津彦は吉備中山の麓に茅葺宮を建てて住し、二百八十一歳で亡くなって中山山頂に葬られた。吉備津彦の五代の子孫加夜臣奈留美命が茅葺宮に社殿を造営し、吉備津彦を祀ったのが当社の始まりとされる。

・中世には武家の崇敬を受け、たびたび社殿の修復や社領の寄進があった。

・現在ある比翼入母屋造の社殿は足利義満が造営。


■矢置岩■
(10th November 2008)



 社伝によれば、当社西北八キロの新山に温羅という鬼神がいて、凶暴で庶民が苦しんでいたために大吉備津彦命が「吉備中山」に陣取り鬼神と互いに弓矢を射ると双方の矢が空中で当り、落ち、そこに矢喰宮ができた。また、中山主神が鬼神の矢を空中で取り、それが、吉備津神社本殿内に祀られる矢取明神となった。この、戦さのとき、大吉備津彦命は、その矢を岩上に置いたために矢置岩と申すようになった。


■参道■
(10th November 2008)



■北隨神門■
(10th November 2008)


 国重要文化財

 天文十二年(1543)の建築。


■拝殿、本殿■
(10th November 2008)




 国宝

 室町時代應永三十二年(1425)の建築。全国唯一の様式なので「吉備津造」と言われている。


■南隨神門から廻廊■
(10th November 2008)


 国重要文化財(南隨神門)

 延文二年(1357)の建築。
 

■廻廊■
(10th November 2008)


廻廊は天正七年(1579)の再建で延長四百米に及び、自然の地形のまま一直線に建てられている。


■宇賀神社■
(10th November 2008)


 岡山県最古の神社。


((コメント))

2008年11月10日

 吉備津神社に着いたときは、太陽は沈みかけ、オレンジ色になっている状態であった。そのせいか、眺めはいい感じであった。分祀の吉備津彦神社よりはいい感じがするが、同じ神体山を拝むのに不思議な感じではある。

越中國一之宮雄山神社前立社壇

2010年03月06日 17時27分32秒 | 中部(富山、石川、福井)
■神門■
(22nd June 2008)



★越中國一之宮雄山神社前立社壇★ 富山県中新川郡立山町岩峅寺1番地

・延喜式内社、越中國新川郡、雄山神社。

・旧社格は國幣小社。

・霊峰立山を神体とし、立山の神として伊邪那岐神(立山権現雄山神、本地阿弥陀如来)と天手力雄神(太刀尾天神剱岳神、本地不動明王)の二神を祀る。

・平安初期に建てられた立山寺(岩峅寺)を前身とする神仏習合の施設。岩峅寺における立山信仰の拠点であった。

・開祖佐伯有頼が、立山権現の化身である白鷹の泊まった白鷹の断崖の正面に位置し、この地より立山開山の伝説が始まったという。

・武将や公家からの信仰も篤く古来より「立山権現」への献上品はこちらに奉納された。

・脇を日本一の暴れ川と称される常願寺川が流れ、たびたび水害をもたらした事から、現存の規模になっているが、この施設から流されたものが、御神体になって作られた神社が、下流地域にいくつもある。

・現在残ってる本殿は源頼朝が修復・再建を行なったものが受け継がれている。その為か神社の建物に菊の紋章が入っていない珍しい神社である。


■鳥居■
(22nd June 2008)



■参道■
(22nd June 2008)



■拝殿■
(22nd June 2008)




■本殿■
(22nd June 2008)



■岩峅寺湯立の釜■
(22nd June 2008)



((コメント))

2008年6月22日

四つある越中一之宮の一つである雄山神社へと行くことにした。

 峰本社、中宮祈願殿、前立社壇の三つがあるそうだが、私がいったのは、前立社壇である。ちなみに、三つのうち、どちらにいってもご利益は同じだそうだ。ならば、本殿が文化財になっている前立社壇がいいかな、と。

 ということで、ガソリン入れてから南東に車を走らせ、立山橋を渡り富山市から館山町に入ったすぐのところに鎮座する雄山神社前立社壇に到着。雨天というのもあるが川面からは霧が立ち上り、非常に幻想的であった。

 さすが、神仏混淆の歴史を感じさせる雰囲気が境内一面に立ち込めている。興味深い。境内の雰囲気はいささか重い気がたちこめて入るようだ。それは、御神気ではなく、亡者の魂といったほうが近いかもしれない。

相模國一之宮寒川神社

2010年03月06日 16時53分48秒 | 関東(埼玉、東京、神奈川)
■拝殿■
(11th June 2008)



★相模國一之宮寒川神社★ 神奈川県高座郡寒川町宮山3916

・延喜式内社、相模國高座郡、寒川神社、名神大。

・旧社格は國幣中社。

・祭神は寒川大明神(寒川比古命、寒川比女命)。『新編相模國風土記稿』によると「社殿に祭神は應神天皇なり」という記載があり、『延喜式神名帳比保古』もその説をとる。『一宮記』『諸國一宮神名帳』などは八幡大神、八幡大菩薩とし、『舊神祀紀』は素盞嗚尊、稲田媛命説、など、諸説ある。應神天皇の可能性が強いように思う。

・例祭日 九月二十日、前日祭 九月十九日 流鏑馬神事

・創建年代不詳。

・日本総国風土記によれば、約千五百年前雄略天皇の御代にて記録が残り、崇敬篤く著名の大社であった事が知られる。

・桓武天皇の延暦七年(788)を始めとして、歴代奉幣のことがあり、また仁明天皇の承和十三年(846)以来、数次に亘り神階を奉授せられた。

・源頼朝、後北条氏、武田信玄の信仰も厚く、寄進等を受けた。

・室町末期ごろのものと推定される当社の所蔵文書「相州一宮引着事」に「社領東石川、南荒海、西相模河、北間澤橋切也」とあり、その頃まで当社南方に相模湾が入り込んでいたことが想像され、地名にも柳島、中島などが残っている。

・鎮座地は、古くは相模川河口を扼する位置に当たっていたと思われ、当社は氾濫を繰り返す相模川を鎮めるとともに、相模國中心部へ通う舟人たちの守護をする神であったと考えられる。

・社殿裏手の森の中にかつては豊かな湧水があったといい、「サムカワ」の「サム」を「神聖な」の意として、その湧水を社名の由来とする説がある。

・社地南東一キロの位置に應神塚古墳という前方後円墳が現存するのだが、盗掘の跡はないにも関わらず、築造年代および原規模が詳らかでない。発掘調査の折、漢鏡その他わずかな遺物が出土したのみで、人を埋葬したと思しき主体部は検出されなかったというが、近くの陪塚を発掘したところ、石棺が存在し、頭蓋骨と数本の歯とともに長刀、玉類など豊富な遺物が発見されたというが、寒川神社には應神塚古墳は祭神の奥津城とする伝承が残る。


■神橋と鳥居■
(11th June 2008)



■参道■
(11th June 2008)



■手水舎■
(11th June 2008)



■楼門■
(11th June 2008)



((コメント))

2008年6月11日

 地図では、割と街の中かなと思ったが、割と田舎で古い町であった。神社の気は、なんとなく擦り切れて磨耗した感じでイマイチの一言に尽きる。

比々多神社

2010年03月06日 16時50分14秒 | 関東(埼玉、東京、神奈川)
■拝殿■
(12th May 2009)



★比々多神社★ 神奈川県伊勢原市三ノ宮1472

・延喜式内社、相模國大住郡、比比多神社の論社。

・旧社格は郷社。

・相模國三之宮。

・祭神は豊國主尊(豊斟野尊)、天明玉命、稚日女尊、日本武尊。相殿に大酒解神(大山祇神)、小酒解神(木花咲耶姫)を祀る。

・但し、祭神には諸説ある。

 一、大山開山の良弁の父とされる染屋太郎太夫時忠(本地仏不動明王)。これは、比々多神社の梵鐘の銘文によるものとされるが、戦時中に供出されて現存しない。
 ニ、豊國主尊、天明玉命。相殿に大酒解神、小酒解神、稚日孁女命。
 三、豊斟野尊、稚日孁女命、天櫛明玉命。相殿に倭武尊、大山祇命、木花佐久夜姫命。比々多神社伝記の扉裏に黒筆で書かれているもの。
 四、豊國主尊、天明玉命、稚日孁命。相殿に大酒解神、小酒解神、日本武命。これは『神社明細書』による。

・元々、大住郡三之宮、栗原、神戸、白根四村の鎮守。明治六年(1873)、社格を二大区六小区の郷社と定められ、十六ヶ村の総鎮守となる。

・『新編相模国風土記稿』では、相模國三之宮で、延喜式内小社比比多神社を称し、鳥居に比々多神社と扁し、拝殿に三宮大明神の額を掲げ。上糟屋の子易明神社も式内社比々多神社を称するも、両社とも考証なく、明白にしがたい。比々多神社神主の話によると、「比々多神社と書せる古額があったのを子易明神神主某に貸与えたところ、終に返さずして、後に比々多神社の額を掲げ式内社であることを自称している」ということであるが、この話も明確な証がなく、肯定はできない、という旨のことが記されている。これに対し、両社には徳川家康よりの同日付の朱印状を残しているが、上糟屋が「子易大明神」と記されているのに対し、当社のものには「三宮」と明記されていることや、鎮座地が「冠大明神」にふさわしい地であることから、当社が式内社である可能性が非常に高いとされる。

・天保五年(1834)の『社伝記』によると、神武天皇六年(紀元前655)、相模國の霊峰大山を神体山とし、豊國主尊を日本國霊として祀ったことに始まるという。

・大化元年(645)、現在相殿に祀られている大酒解神と小酒解神の二神が合祀されるに伴い、「うずら瓶」と称される須恵器が奉納されたという。さらに朱鳥六年(692)、相模國國司布施朝臣色布知により社殿の改修が行われ、一対の木彫り狛犬が奉納され、各々、現在は神奈川県および伊勢原市の文化財に指定されている。

・天平十五年(743)、竹内宿禰の末裔紀朝臣益麿を比々多神社初代宮司に迎え、同時に第四十五代聖武天皇より荘園を賜る。

・天長九年(832)、國司橘朝臣峯嗣を勅使として当國総社「冠大明神」の神号を天皇より賜ったという。

・南北朝、室町時代になると戦禍によって神領(当時は約四倍の一万七千坪)の大部分を失い、また、明応年間(1492-1501)に、社殿を兵火によって焼失、天正のはじめ、社地を埒面から現在の地(舊神主屋敷)に移転遷座した。

・一般に相模國の國府は三度移転したと考えられており、國府が大住郡にあった時代の相模の惣社であったという社伝が残る。

・神社境内地、近隣より発掘出土した遺跡遺物などから縄文時代中期の環状配石中の 「立石」こそ祭祀遺跡がみつかったという。


■鳥居■
(12th May 2009)



■拝殿■
(12th May 2009)



■奉納目録■
(12th May 2009)



■本殿■
(12th May 2009)



■本殿真後ろにある末社五社殿■
(12th May 2009)


 向かって、左より

 白山神社、弁天社、神明神社、東照宮権現社、稲荷神社。


■末社秋葉神社■
(12th May 2009)



■末社金比羅神社■
(12th May 2009)



((コメント))

2009年5月12日

 相模國三之宮という比々多神社へといってみた。軽い印象の雰囲気のところであったが、それは清清しいというのか、気が薄いというのかどちらなのであろうか。

 あまり、感じ入るところがなかったというのが事実。ただ、社殿は立派である。

 ところで、本殿の真後ろに末社の石祠五殿が鎮座していたのが位置的に非常に気になるところである。