の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

八重垣社

2010年10月31日 22時46分59秒 | 中国(鳥取、島根)
■奥の院天鏡社■
(12th June 2010)
 


■八重垣社■ 島根県松江市佐草町字八雲床227

・延喜式内社、出雲國意宇郡、佐久佐社、論社。

・舊社格は縣社。

・祭は素盞嗚尊、櫛稻田姫命。大己貴命、青幡佐久佐日古命を配祀。

・意宇六社の一社。他の五社は魂、熊野、揖夜、眞名井、六所。

・かつての大草郡西端、近世の佐草村に鎭座。

・建速須佐之男命の詠とされる「八雲立つ、出雲八重垣、夫婦籠みに、八重垣作る、その八重垣を」にちなんだ社名により、出雲大社に次いで縁結びのとして全國的に知られるが、この社名は『出雲國風土記』にも『延喜式』にもみられず、永禄八年(1565)の毛利元就の判物(『出雲國造家文書』)に「八重垣樂田」と見えるのが記録上の初見である。

・中世中期の康暦、文安、康正年間(1379-1457)の古文書には安國寺領として「佐草社」の名が見られるが、八重垣社および社家佐草氏に傳わる古文書にはすべて「八重垣社」と記されている。

・『出雲風土記鈔』(天保三年(1683))によると、「須佐之男命が大蛇退治のあと、ここに宮を作り、稻田姫を娶って須我湯山主命(大己貴命の異名)が生まれた。そこでこの三をこの里に合せ祭った。のちに東北四里ばかり離れた意宇郡佐草村に遷したのが今の八重垣社である」と記され、『雲陽誌』(享保二年(1717))の須我社の條にも同様の意味の記述があるといい、八重垣社は大原郡海潮須我の地から遷座した社である、とされる。

・『八重垣文書』に尼子時代以前の記録がまったく存在していないことから、當地への毛利氏の進入と關係していると考える説もある。

・『出雲社順拜記』(天保四年(1833))には、佐草大明と八重垣大明を別に記し、前者については『當社ハ小社と成て此処八重垣社の脇にあり。』とあり、巡拜の人には小社であることを記載し注意を促しており、この場合、延喜式内社佐久佐社は近世を通じ、八重垣社境内社として細細と繼續したと考えられる。

・明治時代、延喜式内社ではない社名で位の社格を得られないために佐久佐社と改めたが、のちに八重垣の社名に復した。

・奥の院の鏡の池周辺では祭祀に使われたと思われる須惠器などが発掘されている。


■鳥居■
(12th June 2010)

 

■隨門■
(12th June 2010)



■手水舎■
(12th June 2010)
 


■拜殿■
(12th June 2010)
 


■本殿■
(12th June 2010)
 


■末社貴布禰社■
(12th June 2010)
 

・祭神は靇命、倉稻魂命。


■末社手摩乳社■
(12th June 2010)


・祭は手摩乳命。


■末社山社■
(12th June 2010)


・祭は大山祇命、石長姫命。


■末社伊勢内宮■
(12th June 2010)
 


■鏡之池■
(12th June 2010)
 


■夫婦椿■
(12th June 2010)
 


((コメント))

2010年6月12日

 八重垣社は前から名を知っていたので、最初から行く心積もりであったのだが、着くや、觀光バス数臺を見て、縁結びの様、ということで大量の若い女性やカップルが來ていたことに、げんなり・・・ そういうのは嫌いなのである。なんか、すごく、そういうのをみるといらいらするのである。もちろん、東京大宮でも同じ思いだったのだが。

 八重垣社、一応、佐久佐社の非常に有力な論社であるが、個人的には、何か違うような氣がする。境内は佐久佐社の鎭座地であったのかもしれない。ただ、八重垣は別の社であり、あとから入ってきたように思えて仕方がない。佐久佐のはそのときに、舊社地に小祠を殘し、出雲國廰跡に移転したような気がしないでもない。もしくは、それがかなり早い段階でされており、總社とされたのかもしれない。この地が佐草、六所社の位置が大草であり、國廰跡であるということが氣にかかって仕方がないのである。

勝日守社

2010年10月31日 15時06分57秒 | 中国(鳥取、島根)
■月山(月山富田城跡)■
(30th December 2007)



★勝日守社★ 島根県安来市広瀬町大字富田782 

・延喜式内社、出雲國意宇郡、勝日守社。
 
・祭は大國主命。

・月山富田城本丸跡に鎭座。

・城の鎭守であったという。

・保元平治の頃平家の武將惡七兵衛平景清が出雲に入り、月山に築城するに當たって、社があっては畏れ多いと里宮として遷したのが富田八幡宮であるといい、その奥宮にあたるのが當社という。


■鳥居■
(30th December 2007)


 三の丸跡から二の丸跡に行く通路に立つ。


■二の丸跡から本丸跡にかけて■
(30th December 2007)



■燈籠■
(30th December 2007)



■社殿■
(30th Deceber 2007)



((コメント))

2007年12月30日

 築城以前からの鎭座ということである。100円、少ないですが、おいてきました。冬の雪が打ちつける中、日没後に山道を登ってきた私を守護いただいたお禮である。

 ちなみにお祓いなど言うことは好きではないのであるが、死んでいった兵士や武將たちの魂を天に導くために少しこの地で祈らせていただいた。

 我が産田の、軻遇突智命、彷徨える魂たち、天に帰ることを望むものたちを導きたまえ

濱宮神社(濱宮)

2010年10月31日 14時49分55秒 | 近畿(三重、和歌山)
■境内■
(28th April 2009)



★濱宮(濱宮社)★ 和歌山県和歌山市毛見1303

・祭は天照皇大(第一殿)。天懸大(日前大)、國懸大を配祀(第二殿)。

・日前宮及び國懸宮の元宮とされる。

・武東征時、紀伊國造家の肇祖に當たる天道根命は鏡と日矛の寶を奉じて、加太、木本、琴の浦の岩上へと遷ったといい、さらに崇天皇五十一年(紀元前47)、豐鍬入姫命が天照皇大の御靈代を奉じて名草濱宮に遷した際、琴の浦から天懸大、國懸大も遷し、宮殿を竝べたといい、それを日前宮の起源とする。

・垂仁天皇十六年(紀元前14)、天懸大、國懸大が名草萬代宮(現在の日前宮)に遷されたと傳わる。 この時、名草萬代宮に鎭座していた伊太祁曽社は山東へ遷座したとされるが、これをもって、出雲話のいう「國讓り」に當たると考える説もある。

・元伊勢の一つとされる。

・足の様でもある。


■鳥居■
(28th April 2009)



■第一殿■
(28th April 2009)

 


■第二殿■
(28th April 2009)



■攝社豐鋤入媛社■
(28th April 2009)


・豐鋤入媛命を祀る。


■攝社皇社■
(28th April 2009)


・皇産靈、天照皇大、日前大、國懸大、市杵島姫、刺田彦命を祀る。


■皇社社殿背後の巨木■
(28th April 2009)



■丸石■
(28th April 2009)



■白永大、初龍姫大■
(28th April 2009)

 

((コメント))

2009年4月28日

 ここは、特に有名というわけではないが、紀伊國一の宮のひとつである日前、國懸両宮の舊鎭座地とされるので行く必要があると思って來たのだ。どうもそれだけではなく、元伊勢の一つでもあるらしい。まあ、元伊勢自體、笠縫邑傳承地のうち五ヶ所、吉佐宮傳承地一ヶ所、伊豆加志本宮傳承地八ヶ所、弥和乃御室嶺上宮傳承地二ヶ所、その他諸諸(重複地多数)。共通して感じるのは、元伊勢とは言えど、アマツカミの臭いがないことなのである。そのすべての地が現在、何を祀っていようかは別として先住民族の臭いがするということ。

 この濱宮に關しても、その例に漏れることはなく、やはり、先住民の魂が殘っている。三輪の社の元伊勢傳承も多いが、これらはおそらく古代出雲族を中心とする先住民の住していた地に違いない。多分、これは大和王権と先住民との戰いの足跡に違いない。そう思うと、吉備の名方濱宮は岡山や広島にも傳承地があるが、これは現有田川町になっている有田郡吉備町の名前を見てもわかるように名草戸畔のいた地域には「吉備」という名稱が殘っているのである。濱宮のある地区も吉備であったかも知れぬし、そもそも、比定地が別にあるべきかは知らぬけれども。ここが、足のとも言われているのだが、何か、名草戸畔に關係もあるような氣がしてならない。それゆえに、第一殿の主祭天照皇大というのは非常に悲しきことである。

出雲手斧社

2010年10月24日 21時02分21秒 | 中国(鳥取、島根)
■出雲手斧社■
(12th June 2010)



■出雲手斧社■ 島根県出雲市大社町杵築北 奉納山頂上

・祭は手置帆負命、彦狹知命。

・創建由緒等不詳。


■出雲阿國の塔■
(12th June 2010)



■國引き話の眺め■
(12th June 2010)
 


((コメント))

2010年6月12日

 手斧社があるので奉納山へ登った。暑かった。登ったが、これといったものは見つけられず。時間の無駄であった。ま、これも旅の醍醐味ということだろう。

久具都比賣社

2010年10月24日 20時28分30秒 | 近畿(三重、和歌山)
■社號標■
(13th October 2008)



★久具都比賣社★ 三重県度会郡度会町上久具211

・延喜式内社、伊勢國度會郡、久久都比賣社。

・皇大宮境外攝社。

・祭は大水上、久具都比賣、久具都比古。

・はるか昔、天照大の鎭座場所を探して旅をしていた倭姫命が定めた社といわれるが、おそらくはそれ以前より、上久具で祭られていた考えられている。『倭姫命世紀』自體、史書として認められていない。

・川の畔に鎭座し、その地方の水のとして祀られていたと考えるのが妥當。

・元は三殿あったという。


■境内■
(13th October 2008)



■本殿■
(13th October 2008)




■杜■
(13th october 2008)



((コメント))

2008年10月13日

 志摩からは、皇大宮別宮瀧原宮を経て、奈良の東吉野村へ入るルートを考え、車を走らせると、度會にて久具都比賣社と書かれた看板があったので、そちらから、手招きされるのを感じたので立ち寄ってみた。

 伊勢宮内宮の攝社に當たるが、確かに、伊勢に通じる雰囲氣は持ちながらも、むしろ水としての位置を感じ、すがすがしい森の中にひっそりと鎭座している姿が印象深い。

 伊勢宮は、特に嫌いではあるが、この社は、惡くない。多分、その土地の氣がいいのであろう。