■奥の院天鏡社■
(12th June 2010)
■八重垣社■ 島根県松江市佐草町字八雲床227
・延喜式内社、出雲國意宇郡、佐久佐社、論社。
・舊社格は縣社。
・祭は素盞嗚尊、櫛稻田姫命。大己貴命、青幡佐久佐日古命を配祀。
・意宇六社の一社。他の五社は魂、熊野、揖夜、眞名井、六所。
・かつての大草郡西端、近世の佐草村に鎭座。
・建速須佐之男命の詠とされる「八雲立つ、出雲八重垣、夫婦籠みに、八重垣作る、その八重垣を」にちなんだ社名により、出雲大社に次いで縁結びのとして全國的に知られるが、この社名は『出雲國風土記』にも『延喜式』にもみられず、永禄八年(1565)の毛利元就の判物(『出雲國造家文書』)に「八重垣樂田」と見えるのが記録上の初見である。
・中世中期の康暦、文安、康正年間(1379-1457)の古文書には安國寺領として「佐草社」の名が見られるが、八重垣社および社家佐草氏に傳わる古文書にはすべて「八重垣社」と記されている。
・『出雲風土記鈔』(天保三年(1683))によると、「須佐之男命が大蛇退治のあと、ここに宮を作り、稻田姫を娶って須我湯山主命(大己貴命の異名)が生まれた。そこでこの三をこの里に合せ祭った。のちに東北四里ばかり離れた意宇郡佐草村に遷したのが今の八重垣社である」と記され、『雲陽誌』(享保二年(1717))の須我社の條にも同様の意味の記述があるといい、八重垣社は大原郡海潮須我の地から遷座した社である、とされる。
・『八重垣文書』に尼子時代以前の記録がまったく存在していないことから、當地への毛利氏の進入と關係していると考える説もある。
・『出雲社順拜記』(天保四年(1833))には、佐草大明と八重垣大明を別に記し、前者については『當社ハ小社と成て此処八重垣社の脇にあり。』とあり、巡拜の人には小社であることを記載し注意を促しており、この場合、延喜式内社佐久佐社は近世を通じ、八重垣社境内社として細細と繼續したと考えられる。
・明治時代、延喜式内社ではない社名で位の社格を得られないために佐久佐社と改めたが、のちに八重垣の社名に復した。
・奥の院の鏡の池周辺では祭祀に使われたと思われる須惠器などが発掘されている。
■鳥居■
(12th June 2010)
■隨門■
(12th June 2010)
■手水舎■
(12th June 2010)
■拜殿■
(12th June 2010)
■本殿■
(12th June 2010)
■末社貴布禰社■
(12th June 2010)
・祭神は靇命、倉稻魂命。
■末社手摩乳社■
(12th June 2010)
・祭は手摩乳命。
■末社山社■
(12th June 2010)
・祭は大山祇命、石長姫命。
■末社伊勢内宮■
(12th June 2010)
■鏡之池■
(12th June 2010)
■夫婦椿■
(12th June 2010)
((コメント))
2010年6月12日
八重垣社は前から名を知っていたので、最初から行く心積もりであったのだが、着くや、觀光バス数臺を見て、縁結びの様、ということで大量の若い女性やカップルが來ていたことに、げんなり・・・ そういうのは嫌いなのである。なんか、すごく、そういうのをみるといらいらするのである。もちろん、東京大宮でも同じ思いだったのだが。
八重垣社、一応、佐久佐社の非常に有力な論社であるが、個人的には、何か違うような氣がする。境内は佐久佐社の鎭座地であったのかもしれない。ただ、八重垣は別の社であり、あとから入ってきたように思えて仕方がない。佐久佐のはそのときに、舊社地に小祠を殘し、出雲國廰跡に移転したような気がしないでもない。もしくは、それがかなり早い段階でされており、總社とされたのかもしれない。この地が佐草、六所社の位置が大草であり、國廰跡であるということが氣にかかって仕方がないのである。
(12th June 2010)
■八重垣社■ 島根県松江市佐草町字八雲床227
・延喜式内社、出雲國意宇郡、佐久佐社、論社。
・舊社格は縣社。
・祭は素盞嗚尊、櫛稻田姫命。大己貴命、青幡佐久佐日古命を配祀。
・意宇六社の一社。他の五社は魂、熊野、揖夜、眞名井、六所。
・かつての大草郡西端、近世の佐草村に鎭座。
・建速須佐之男命の詠とされる「八雲立つ、出雲八重垣、夫婦籠みに、八重垣作る、その八重垣を」にちなんだ社名により、出雲大社に次いで縁結びのとして全國的に知られるが、この社名は『出雲國風土記』にも『延喜式』にもみられず、永禄八年(1565)の毛利元就の判物(『出雲國造家文書』)に「八重垣樂田」と見えるのが記録上の初見である。
・中世中期の康暦、文安、康正年間(1379-1457)の古文書には安國寺領として「佐草社」の名が見られるが、八重垣社および社家佐草氏に傳わる古文書にはすべて「八重垣社」と記されている。
・『出雲風土記鈔』(天保三年(1683))によると、「須佐之男命が大蛇退治のあと、ここに宮を作り、稻田姫を娶って須我湯山主命(大己貴命の異名)が生まれた。そこでこの三をこの里に合せ祭った。のちに東北四里ばかり離れた意宇郡佐草村に遷したのが今の八重垣社である」と記され、『雲陽誌』(享保二年(1717))の須我社の條にも同様の意味の記述があるといい、八重垣社は大原郡海潮須我の地から遷座した社である、とされる。
・『八重垣文書』に尼子時代以前の記録がまったく存在していないことから、當地への毛利氏の進入と關係していると考える説もある。
・『出雲社順拜記』(天保四年(1833))には、佐草大明と八重垣大明を別に記し、前者については『當社ハ小社と成て此処八重垣社の脇にあり。』とあり、巡拜の人には小社であることを記載し注意を促しており、この場合、延喜式内社佐久佐社は近世を通じ、八重垣社境内社として細細と繼續したと考えられる。
・明治時代、延喜式内社ではない社名で位の社格を得られないために佐久佐社と改めたが、のちに八重垣の社名に復した。
・奥の院の鏡の池周辺では祭祀に使われたと思われる須惠器などが発掘されている。
■鳥居■
(12th June 2010)
■隨門■
(12th June 2010)
■手水舎■
(12th June 2010)
■拜殿■
(12th June 2010)
■本殿■
(12th June 2010)
■末社貴布禰社■
(12th June 2010)
・祭神は靇命、倉稻魂命。
■末社手摩乳社■
(12th June 2010)
・祭は手摩乳命。
■末社山社■
(12th June 2010)
・祭は大山祇命、石長姫命。
■末社伊勢内宮■
(12th June 2010)
■鏡之池■
(12th June 2010)
■夫婦椿■
(12th June 2010)
((コメント))
2010年6月12日
八重垣社は前から名を知っていたので、最初から行く心積もりであったのだが、着くや、觀光バス数臺を見て、縁結びの様、ということで大量の若い女性やカップルが來ていたことに、げんなり・・・ そういうのは嫌いなのである。なんか、すごく、そういうのをみるといらいらするのである。もちろん、東京大宮でも同じ思いだったのだが。
八重垣社、一応、佐久佐社の非常に有力な論社であるが、個人的には、何か違うような氣がする。境内は佐久佐社の鎭座地であったのかもしれない。ただ、八重垣は別の社であり、あとから入ってきたように思えて仕方がない。佐久佐のはそのときに、舊社地に小祠を殘し、出雲國廰跡に移転したような気がしないでもない。もしくは、それがかなり早い段階でされており、總社とされたのかもしれない。この地が佐草、六所社の位置が大草であり、國廰跡であるということが氣にかかって仕方がないのである。