の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

雑記15 『本住吉』

2011年07月03日 10時26分05秒 | 雑記
 以前、戸の本住吉社の宮司さんと話をした時、彼は博多の住吉社→下關の住吉社→本住吉社→住吉大社と住吉のが遷ってきたことを主張されていた。これは、本住吉社側の見解のようである。しかし、これは文献的な裏づけはなく、また、戸の本住吉社の周邊には住吉を「すみのえ」と呼んだという事實もなく、その根拠はないと考えらる。

 實際、日本書紀に見える住吉大が最初に示現し、祭祀を受けたところというのは地形的な考證からも大阪市の難波津住吉が妥當と思われる。攝津國にはもう一社、一之宮とされる坐摩社があるが、山根太郎という方は「住吉の大と坐摩のは同體」とみて、上代から中世を通じて坐摩のの鎭まる社のあった地域、今の坐摩社行宮を、最初に住吉の示現し、祭祀を受けた地と想定している。實際、『住吉大社代記』には坐摩のが「住吉の大の御魂」と記されている。

 そういったことを考えると、住吉大社の元宮が本住吉社という關係がなくなる。そうすると、本住吉社の祭がどこから勸請されたものかわからないので、両社の關係性は非常に薄いと考えざるを得ない。

雑記14 『百濟』

2011年07月03日 09時09分49秒 | 雑記
現在、百濟は韓國では「ペクチェ」と呼ばれており、海外のアジア史の本もその名前を使用している(ちなみに句麗が「こぐりょ」、新羅が「シイラ」)。句麗の讀み方は「こぐりょ」であり、「こうくり」は似ているので理解可能。新羅も少し変わっているが、敵對していたこともあり、「新羅野郎め」という意味合いを持つ言葉がそのまま新羅に當てはめられ「しんら」となるところが「しらぎ」となったという。これに比べ、百濟は「くだら」と「ぺくちぇ」は大きく異なる。滋賀県の百濟寺が「ヒャクサイジ」であることは、この「ペクチェ」の日本語讀みとされていると思われる。個人的には、「ヒャクサイ」よりも「ヒャクセイ」のほうが近いのではないのか、と思うが。

枚方の百濟王社や奈良県の百濟寺では「くだら」と讀む。これらの地域は、渡來民族の住んでいた地域であることは誰もが知っているところで、朝鮮半島所縁の名前なども殘っているのが事實である。

ところで、百濟の讀み方であるが、百濟文化研究の文献によると、實際、百濟と言う國が存在していた頃、日本語の仮名や朝鮮のハングルがなかったために中國が使っていた國名を日韓の歴史書では使用しており、「ペクチェ」という讀み方はそれをハングルの音讀しただけのものであるという。百濟という中國名は、國名の音を参考に書かれたものではないと言うことであり、それは念頭においておくべきであろう。

日本書紀では、中國で使われた「百濟」という文字に註をつけて漢字で「久太良(くたら)」と讀み方を書いて殘している。日本書紀には藤原氏が大きく關わっている。中臣鎌足は、實際、系圖上の父親と祖父の存在も疑われている状態であり、彼の登場時期、活躍時期を考えた上で、人質に來ていた百濟王の王子豐章という説もあり、また「藤原」というのは韓國語であり、また、桓武天皇は父親が死んだときに「アイゴーアイゴー」と韓國で泣いた事も續日本紀に記載があり、彼の御代の國司や中央官僚の大半は百濟からの民であったことも考えると、國の名稱についても精通しているのが實際のところであろう。それを、正史において一切、訂正されていないことが、正しい國名の讀み方であることを證明しているといってもよい。廣陵の百濟の地名も百濟から移住してきた民が名乗り續けた名稱である。世界的に、他國へ移住していった民たちは、故國の地名をそのまま名乗る傾向が強く見られるものである。しかも、百濟と日本は親交深く、その名を隠す必要もない。

百濟王社や廣陵の百濟寺は、國名の「くだら」をそのまま殘した名稱で、滋賀の百濟寺が「ヒャクサイ」としているのは、通例として、社の名前が基本的に訓讀みであるのに對し、寺の名稱は音讀みにしているもので、それと同樣であろうと考える。百濟寺側は公にそのようには書いておられないが、社傳や寺傳とは、作られた面も多く、そのまま鵜呑みには出來ぬものである。

雑記13 『赤城社』

2011年04月09日 16時59分12秒 | 雑記

・群馬縣内に多く赤城社の分社が存在するが、赤城山を通る南中線の東半分は大己貴命、西半分は豐城入彦命を祭とする傾向がある。これは明治初年まで赤城社には東宮と西宮が存在し、職、社家も二派あったためと推測されている。

・『道集』によると、まず赤城山頂の大沼、小沼を格化し、次いで大沼を千手觀音、小沼を虚空藏菩薩として古代からの二所明とし、これに赤城山の中央火口丘である地蔵岳を地藏菩薩として加え、あわせて三所明としたという。

・勢多郡粕川村月田字近戸、同村深津字近戸に近戸社が鎭座するが、近戸は赤城社の近戸(里宮)であり、両社とも赤城社と同じ祭を祀り、虚空藏菩薩を本地佛とする。この近戸社が赤城社の西宮につながり、東宮は年を經て加わったと見られる地藏菩薩に關わる。

・赤城社の本源については、赤城山頂の富士見村大洞の舊社の赤城社とする説、三夜沢の舊縣社の赤城社とする説、前橋市二之宮町鎭座の舊社の二宮赤城社とする説があり、確定されていない。

・『上野國交替實録帳』などの記録より、かなり大きな社域を有し、七年に一度の修築制度があり、寺院を見習った大建築の社であったことが推定される。

・前橋市二之宮町鎭座の舊社二宮赤城社は現在も豐かな社叢を持ち、付近には肥沃な農地が広がり、かつて、ここが本社とされていたこともあるという。

・赤城信仰に關わる事のひとつに幸があるが、三月および十二月の初辰の日、粕川村月田の近戸社を經由して三夜沢と二之宮の間を輿が往復をするのであるが、民俗學的見地より、山のが里に下り、田のとなり、収穫が終わった後、山に帰ることを意味すると考えられている。

・三夜沢の赤城社(現本社)の背後にある荒山の尾根に「櫃石」という巨石があり、磐座の形態を取る古代祭祀遺跡で天津籬とは異なる社成立以前の自然崇拜遺跡という。ところで、この櫃石は、三夜沢の赤城社からは北方よりやや西より1.2キロの位置にあり、二宮赤城社からは眞北に位置している。古代の社の位置關係などは、非常に意味があり、かつ、非常に正確であったことを考えると、二宮赤城社の位置づけは非常に重要で、本源である可能性は非常にいと思われる。

・赤城と日光の山のの傳説に次のようなものがある。
「昔、二荒山と赤城山のが中禅寺湖を下野國のものが、上野國のものだと言い合い、ついに戰いとなってしまった。はじめは赤城の側が優勢であったが、二荒のは鹿島のの助言によって小野猿麻呂という弓の名人の加勢を得、反撃に転じた。二荒のは蛇の姿になり、赤城のは百足に姿を変えて戰ったが、赤城のは猿麻呂に左眼を射抜かれて、ほうほうのていで逃げ帰った。この戰場が今の日光中禪寺湖畔の戰場ヶ原であり、赤城のが負った手傷を癒した湯が老温泉であるという。」
 この傳説にちなみ、日光二荒山社では、年に一度、赤城山に向かって矢をいる事を續けている。

雑記12 『天龍津地妃子社宮司を名乗る方』

2011年03月04日 17時28分35秒 | 雑記
 私、このブログは、他のブログにある社の記事だけを移して更新するようにしている。コメントを見てもおわかりのように、結構きついことを書くこともあるが、言論の自由もあり、批評する權利もあるのでそれは、ある種自由である。さて、とある神社の宮司を名乗る方との一部始終をこちらに移転させたいと思う。なぜならば、こちらのブログが社等、宗教關係を主にするものだからである。

元の記事の文章はこちらである。

 長谷山口坐社から出雲の十二柱社へと歩いていく途中に天龍津地妃子社なるところを発見し、覗いてみたがいわゆるわれわれの知っているタイプの社ではなく、別の宗教のようであったので行かなかった。

 この金光教風の建物がそうである。

 明治政府が作った大教院解散後、それが母体となって生まれた道大教に所属する教会のようである。社關係の伊勢の皇學館大學と竝び知られる國學院大學の設立に關係があるらしい。歴史的には、皇族の方も關係があるようであるが、宗教団体というよりは、元々、管理団体、教育団体、学術団体という色のほうが濃く見える。まあ、名前が大げさであり、個人的に、信じるには値しないと判斷する。


 以後、こういうやり取り。

こんにちは (天龍津地妃子神社)
2010-06-05 12:51:43
近くまで来られたんですね。折角だから、中に入って下さったらよかったのに。胡散臭いは、ちょっと酷いですね。「金光教」の建物に似てますか?そうなんですか…。最近、変な宗教が多いからそんな風に思われるんですね。でも、胡散臭くないですよ。ちゃんとした由来もあるんです。諸事情で、建物はあんな風になりましたが…。機会がありましたら、せめて中にお入り下さい。誰も取って食うなんてしませんから(笑)胡散臭いというのは、何か勧誘でもされると思われたのかな??まあ、なにはともあれ、綺麗な写真を撮って頂いて有難うございました。


天龍津地妃子神社殿 (地風水龍火荒魂<私>)
2010-06-05 16:48:18
由来は由緒ではありませんね。祭がどういうものか、という簡単な説明だけのようでしてね。

あなたの言葉からいうと、金光教は変な宗教のような言い回しですね。私は、建物が似ているといっただけで、へんな宗教とは一切言っておらないけどね。

中に入らなかったのは、何も感じるものがないところだからですよ。行くべきところはね、がお呼びになられるものです。


失礼ですね! (天龍津地妃子神社宮司)
2010-06-05 22:05:16
貴方のブログ私共の神社が『胡散臭い!」と書かれていましたね。今日、一日不愉快でした。何の根拠で「胡散くさい」のですか?名誉毀損ですね!御祭神を守るために私共神社関係者がどんな敬けんな心で神様(天種子命)の御魂を御守りしてきたのか貴方はご存知なのですか?私共のご祭神の御魂を鎮めてある御山も行かれましたか?貴方が何様のつもりで、私共の神社を「胡散臭い」と言われたのか知りませんが、失礼極まりないです!私共にも多くの信者氏子がおられます。この事実を知られたらなんと思われますでしょうか!!少しは、良識というものをお持ちではないのですか?法律的にいえば、「名誉毀損、風評被害」で訴えることも可能な内容です。よろしいですか?私共はご祭神の御魂を御守りする事で、代々、神様にお仕えしてまいりました。建物の外観は、諸事情のことが重なっていたし方なく現状を留めております。いずれにしましても、真剣に、信者を守り、神に仕えるために、日々、精進努力している宮司、教師一同が、なんと嘆きますでしょう!本当に、怒りは、収まりません。貴方に何が分かるのですか?神様を守る辛さ、厳しさ。
お行をされたことでもあるのですか?
ただの神社オタクが、興味本位で神社めぐりをして、知識だけで批評をするなんて、最低です!神社をお参りする資格なんかありませんね!奈良の人らしいですので、いつでもお会いする準備はあります。なんなら法廷がよろしいか?


>私<

ちなみに、ここの宮司さんにお怒りのコメントをされておりますが、日本には言論の自由というものもございます。思想の自由、信教の自由というものがございます。この場合、むしろ、脅迫よりは、わかっていないと思うものに対して、こういうところでも通して、そういう誤解、曲解を理解してもらおうと説くほうが宗教家として正しい道と思いますけれどね。一言で、マニアですか。侮辱されているかなあ。どんなことに対しても、支持するもの、反対側に立つものがいるわけでね、発言することはできるのです。胡散臭い、といわれたら、そこに携わるものは、あまり快く感じないのは當然でしょう。そりゃあ、どこの世界、誰でもそうだ。かといって、すべての人間を自分と同じ意見を支持させることもこれまた不可能。人はいろいろな考え、思想があるのだから。他の宗教に対して好意的に考える方々もいれば、他の宗教は間違っているといって、敵対しているものもある。他の宗教の寺院や社、境界の聖地に入ることを許さない宗教団体さえいくつか存在しているものだ。だが、それは、思想の自由というものである。あることないことをいい、攻撃すれば、それは名誉毀損でしょう。影響力のある人間が、多くの人に発信して、痛手を負わせるのは行き過ぎだからね。

 名誉毀損とは、「人が、品性、徳行、名声、信用その他の人格的価値について社会から受ける客観的評価(社会的評価)を低下させる行為」をいう。「名誉感情を害されただけでは、名誉毀損とはならない」。

 風評被害とは、災害、事故及び不適切又は虚偽の報道等の結果、生産物の品質やサービスの低下を懸念して消費が減退し、本来は直接関係の無い他の業者、従事者までが損害を受ける事。このブログのこの記事を毎日、百人も千人も購読され、その上で、このブログの記事がきっかけで、明らかな損害でもあれば、話は別でございますが、現実問題、アクセス解析にても、この記事を書いた日以外、読んでいる人はほとんどいないと思われる次第。少なくとも、三人以上が読んだという日も、アクセス解析を毎日見ているけれども、存在しないくらい。ゆえに、そこにいたるほどの影響力ももちろんない。

 今回の場合、私の発言によって、気分を害しただけであり、品性、徳行、名声、信用その他の人格的価値に關する社会的評価を低下することにはなっておりません。「ああ、この変わった人が、あんなこといってるわ」と読む人が思うだけで、それ以上でも以下でもない。もちろん、社会的に大きな影響力のある思想家や芸能人、教育者などであれば、また話は別ですがね。

 まあ、當人のコメントをいただき、まあ、言いすぎたかなとは思いますけどね、脅迫は如何なものでしょう。道大教はとくに、教育もされているようですからね、コメントなり、説明のあるHPのアドレスでも貼って、そこに、説明とかを加えるなりすれば、よろしいかと思うんですけどね。胡散臭い、という言葉が気に食わねば、「宮司です。申し訳ないですが、気分が悪いので、その言葉を削除/変更していただきたい。」で、済む話です。まあ、言葉は変えておきましたが。

 ちなみに、あなたの社の祭を祀る御山になぜ行かねばならないのでしょうか。修行している人が優れているのだろうか。今、自分やあなたの団体の価値觀で物事を話されているでしょう。同じことです。あなたのコメントによって、彌生時代以前よりこの國に移住してきて、先祖が祀ってきたを侮辱された気持ちです。わたしの信仰は先住民ののみでしてね。ちなみに、修行などはしないが、普通にそのが祀られている人里離れたところにも山道歩いて行き、と會ってきております。生まれもって以来、太古の人々が祭祀を創めたところの元となった地の匂い、風、氣などは感じれるので。残念ながら靈感は精神科医のいうところの統合失調症ですが。マニアと人を呼ぶときは、たいてい侮辱ですが、まあ、あなたのコメントを読んだほとんどの人はそう感じるでしょう。だが、あまり社などに興味を持たないものが見ると、それはマニアか、フリークと呼ばれても仕方がないことでもある。ある人は、ある宗教にすべてをささげ、ある人はまったく信じない。ある人は、ある寺院、社、教会で清められて、晴れやかな気持ちになるが、別の人は何も感じない、もしくは、気分が悪くなる。それは、人それぞれの感じ方。われわれは、そういうことを言論統制されて口に出していけないということにはなっていない。太平洋戦争で敗れた後、憲法は変わっているのです。

「胡散臭い」の意味は、「どことなく怪しい。疑わしい。油断ができない。」同じものを見ても、その人の知識、考え方、その他いろいろな因子によって、その感想は異なるのは誰でも知っていることです。聞いたことのない宗教の名前を聞いて、その言葉を発して、名誉毀損とは考えられない。偶然、金光教を挙げましたが、どうですか?別に変な宗教とは思っておりませんけどね。建物が似ていると言っただけ。この宗教に対しては若干知識があるので胡散臭いとは思わないだけのことで、ほかの人々は、新興宗教だから胡散臭いといわれる人もいるでしょう。でも、それは、名誉毀損ではないし、教会長たちは、おそらく、理解してもらおうと説くに違いない。

 それと、由来と由緒は違う。どの様にでも、由来はあるものです。信じるか信じないかは、受け取る側の勝手ですがね。由緒は歴史です。だから、祭の由来がしっかりしているということと、その祭を祀る社がすばらしいというのは別の話です。その村の人にとって、鎭守さんは大切であろうし、氏も然り。でも、それを他の地区の人や氏族に押し付けることはできない。人の価値観、視点により、求めているものの重要度も変わるわけで、私にとっては、天龍津地妃子社というところが、その重要度においては低いだけのこと。こいつはわかっていない、と思うも思わぬもまた、あなた次第ということです。


ぼちぼち (ボブおっさん)
2010-06-15 08:50:29
外野席から、物申す。天龍津地妃子神社を、知るものです。
 あなたが、どれだけの知識人かは、知らないが、外見で 物事を 判断しては いないですか? あまり、賢くないですね・・・。
 御祭神は、すごい力の有る神様です。身を持って経験したものが、言っているのですから、間違いは、無いですよ!一言では、語れない・・・
 又、成るべくしてなられた神社長は、超美人、頭が良い、それよりも生まれ持った透視する能力は、身を持って経験しなければ、分らないですよ!
 何か、困った事が、出来たら、真剣に 訪れては いかが!(一言では、語れないものを、体験するはず・・・!)失礼!


Unknown (地風水龍火荒魂)
2010-06-16 00:17:19
いつ、外見で物事を判断したのでしょうね。外見に関しては、金光教の教会に似ているという表現だけであり、別に、外見が理由で判断しているわけではないですけどね。賢くないですか・・・ まあ、IQ的にいうと、私は、世界で上の3~5%に入るらしいので、その場合、ほとんどの方はあなたの中でいう賢くない人に当てはまるのでしょう。

どこの、どのような祭であっても、同じことを崇拜される方はいうと思いますがね。熊野の元のよりも、守屋山のよりも力のあるであればいいですね。そう願いますわ。いや、そうあってもらわないと、困りますがね。その党の末裔でござりますれば。

外見で物事を判断していないでしょうか、という割りに、一つ目の表現が超美人というのはなかなか面白きことでございまする。普通、この流れですと、どうしてもそれを書きたい場合は、最後に付加的に書き添えるのが望ましいのですけれどね。頭が良い、というのも、私としては当人と会って話したわけではないのでなんともいえませんが、もし、以前にコメントを残した人が社長であるのなら、少なくとも、そうは思えませんね。そういう方の書く文章では明らかにないわけで、むしろ、ヒステリックさだけが表に出て、正常な判断力を失っているようにしか見えない。もし宗教家というのならば、むしろ、宗教を馬鹿にしているかのような態度にしか思えないくらいであった。どんな時代でも、新しい宗教ができたときなどの布教は、胡散臭い、怪しいと思われたり、他のいろいろな理由で、心身ともに叩かれ、石を投げられて、それでも、理解してもらおうと一生懸命戦い、説教をし、少しずつ、少しずつ広めてきたものだ。それを、名誉毀損に風評被害ですか。呆れた話だ。正直、あれを書いた人が、宮司本人ではなく、それを語っている人であることを祈るのみである。そうでないと、貴社としても困るでしょう。

透視ですか。どのような意味でこの言葉を選択したのかは知りませんが、これは、そんなに珍しい能力ですか? 普通に、周りにできる人が居りますので困りませんことです。まあ、私も、そういう系統の力は、血統の問題もあって、自然と備わっておるものです。古代シャーマン系司祭者の血を濃く受け継いでおるのですから。まあ、本当に透視できるのであれば、それくらいのことはすでに見通されているはずでしょうから、今度うかがってみるとよろしいかと思いますわ。


恐れ入りました。 (つちひこ神社)
2010-06-16 03:18:32
大変興味深いコメントで、恐れ入りました。正直、少々、笑ってしまいました。すみません。なんとも、ここまで話が発展していたとは、全く知らなかったです。
そうなんですか、世界でも有数の優秀な方なんですか…。お見逸れいたしました。そんな頭の良い方なら、そして、霊力(?)をお持ちなら、何も言う必要はなさそうです。

私のコメントをヒステリックに取られたのですね。まあ、よろしいです。怒りの感情は、そういう表現になってもおかしくないと思いますが…。後になって、多少、『大人気ない、ばかげた事を言ったものだ。』とあまり良い気分ではなかったですね。確かに。で、ブログから消去しました。

それから、貴方の文章を読んで、以前、友人だった人を思い出しました。
確かに、頭の切れる人でしたね。でも、その頭の良さを鼻にかけるところがあって、悪い人ではないのですが、自信過剰だった様に記憶しています。

ひとつひとつ上げ足を取るような大人気ないことをしたくないので、反論は致しません。
私共が持っているのは、『由来』です。『由緒』ではありません。

私は、そんなに偉くもないですし、貴方のように自信を持って、トップレベルの知能を持っているなんて思いません。
というより、この神社の責任者になって、自分の未熟さ、愚かさ、修行の足りなさを実感しています。多分、死ぬまで、貴方のような自信を持てないと思っています。

ですから、日々、人のために自分の出来ることを精一杯やるだけです。あとは、何もないです。逆に、貴方が羨ましいですね。どこからそんな自信が沸いてくるのか。どうして、そんな自信がもてるのか。

そんなに優秀で、何らかの霊力をお持ちなら、是非、苦しんでいる人のために、その能力を使ってあげて欲しいです。

話は、少しずれますが、どんな名医でも、救いきれない命がある。名医であればあるほど、その無力さに悩むと言います。

貴方には、そんな悩みなんか微塵もないのでしょうね。凄いですね。

私は、毎日が、悩みと自分との葛藤に辛い思いをしています。救ってあげたいのに、どうにもならない問題が山積です。

きっと、貴方なら、スマートな答えを出されるのでしょうね。例の頭の切れる私の旧友のように。

ちょっとしゃべりすぎました。こんなに長いコメントを書くつもりではなかったんですが、生来、おしゃべりが好きなもので。それと、貴方と喧嘩するつもりは毛頭ありません。勝ち負けとか、言った、言われたを繰り返すのは、楽しくないですし、何も生みませんから。

まあ、貴方からすると私のコメントが原因だと言われるでしょうけどね。でも、少しは、相手の感情を考えてもいいのではないですか?
私からすれば、貴方が誤解を招く表現をしたのが、事の始まりだと思っています。

『胡散臭い』と言われて、喜ぶ人は誰もいないでしょう。『詐欺師』という意味に近いのですよ。世界でも有数の頭の良い貴方ならそんな簡単な事は、お分かりでしょう。
友達をたくさん、作って下さいね。お幸せに!!


ツチヒコ神社さん (地風水龍火荒魂)
2010-06-16 22:13:56
まあ、話すほどのことでもないので。まあ、なんといいますか、本当に透視力のある方ならわかるでしょうが、すでに、大体あなたがどういう程度の人なのかは認識しております。まあ、一定のレベル以上の霊能力がある方は大体そうですから、まあ、あなたも、そこにはいたっているはずですが。

ただ、書かれているコメントには、あまり深い洞察力が感じられないのが残念なことです。無論、自分に自信がないということはないけれど、まったく、自信たっぷりに書いていると受け取られたところには驚いてますがね。

ちゃんとした知能テストで導き出された知能指数で大体、150以上であれば、140以上、130、120...とその数値ごとに統計学的に世界人口からどの辺りのグループにあるのかは導き出されており、ただ、その自分の数値が全人口の何パーセントのところにいるのか、ということから書いているだけで、非常に客観的な答えであったので,個人の主観は交えておらんのですね。

胡散臭い = 詐欺師に近いというのは、正しい日本語とはいえませんね。それは、あなたの日本語の能力の問題です。

由緒と由来については反論をいただくまでもなく、すでにあなたの返答で私がしておるので、いまさら話題にすることでもなく、その違いについてのことも軽くは書いておりますね。

相手の感情ですか?あまり、宗教家らしからぬ言葉なので驚きました。大体、自分たちに、否定的な発言であっても、それを受け入れた上で、自分の信じる道を広めていくのが、信仰なんではないのですかね。あまり、感情的に興奮している宗教家の話は聞いたことがありませんね。卵とかを投げつけられても、黙って、黙々と道の教えを説いていって、その教えを広めていかれた方は、身近なところでも幾人かは知っておりますけれど。

まあ、感情を逆なでされたことを責めておられるのでしょうけれど、それってどういうことなのでしょう。相手の感情を考えていないわけではないですね。ある言葉を発して、どういう反応をするのか、というのは、文字の上で、どういう人かを見る一つの情報になりますのでね。それに、怒りを感じようが、むかつこうが、人というのはね、そういう感情を感じた原因になったことにこそ、見直し、学ぶことがあるものと思うのでね、私は、そういう時は、見直す余裕を持ち、なぜ怒るに至ったのか、それに対して、どのようにしていれば、怒ることに至らなかったのか、は考えるようにしておりますがね。大体、怒るときというのは、何か、そこには自分サイドの落ち度や、弱点、などがあるものですので。

ちなみに、私は、人助けをする気はございませんので。私にとっては、守るべきは地球であり、人は今のままいくと、害虫ですから。

訂正 (地風水龍火荒魂)
2010-06-19 07:43:19
知能指数の話は、
分類別けですと、上の0.6%のところに入っているようです・・・


 
 個人的に、この一連の流れを通して感じることは、團体の上に立つものは、學力的にはどうとはいいませんが、やはり、それなりにふさわしい人格を伴って、周りを見通せる視野がなければ、泥沼に落ちるということです。

 まあ、これで、また一つ、知ることが増えたといえそうです。

雑記11 『隠された熊野の歴史を紐解く』

2011年02月18日 01時37分16秒 | 雑記
 『古事記』と『日本書紀』という、異なる記述も持つ書物が殘っているうえ、『出雲風土記』も殘存していることから、日本古代史の謎は、かなり複雑化した状態で、解き明かされているとは言えない。

 まず、出雲話。いかにも、ここが話の発祥地であったように思われているが、これは、非常に怪しい。私の推論から導く考えでは、紀伊から大和にかけて分布していた「古代イズモ族」が謎の鍵を握っている。この古代イズモ族が出雲王朝と呼ばれているものを築いたものと推測している。私の考えからすると、出雲を主體とした古代史のほとんどはこの一つの事項によりほぼ解決し、統一感を増すのである。出雲話で素盞嗚命は非常に重要だったりするが、實は出雲にはほとんど縁がなかったりする。實際、素盞嗚信仰をいうときに、人人は津島社であったり、八坂社であったり、廣峯社を擧げる人が多く、出雲の式内小社須佐社もあるじゃないか、という人もいるが、これに關しては「日本の々」という本でも述べられているが、實際は和歌山の延喜式内名大社須佐社がかなりい確率で素盞嗚信仰の発祥と考えられている。明らかに、出雲の須佐社とは格が違うものである。さらに、實は、紀ノ川流域には、須佐社系が点在していることも否定できない。さらに、國津系の伊太祁曾社がその社地を追われ、そこに、太古に濱宮から天津系の日前宮と國懸宮が遷座してきたという事實は、無視できない。これこそ、大國主の國譲りのモデルと考えても不思議はない。そして、出雲王朝、彼らの知識や技術力が卓越していたことは有名であるが、古代イズモ族がoriginであれば、別になんら不思議はなく、容易にあり得る話である。そして、彼らが紀伊、大和で起こった物語を子子孫孫に語り繼ぎ、それが出雲の傳説として殘ったとしてもなんら不思議はなく、そこに彼らが住していたがために出雲で起こった事柄として記録されたということも推測できることである。佛をかけた戰さで物部守屋が敗れたときに、物部の一党が石見國へ落ち延びたといい、石見國一之宮物部社は彼らが奉祭したものという。實は、石見に落ちた物部と出雲は非常に仲が惡かったというが、それも、もし古代イズモ族の末裔であるとすれば、大王家に属して戰ってきた物部氏は、先祖傳来の敵であるのだから当然のことであるのだ。

 ま、これは全部前置き。

 ここで名乗っている丹敷戸畔の御子、これにも關係のあるお話をしようかと思う。もし、輪廻転生、前世というものの存在を信ずるのであらば、という前提で話を進める。I am the reincantation of Kagutsuchi、つまり、私は軻遇突智命の生まれ変わりである。そして、最愛の亡き父方の祖母は伊弉册尊の生まれ変わりである。ま、これは少少、複雑な話である。そもそも、伊弉册と軻遇突智の傳説は各地にある。明治政府は伊弉册の墓所に山隂の比婆山を指定している。これは、古事記に從ったものであろう。他にも、考古学的見地から博多灣岸地区を唱えるものもいる。全體的に、その傳承は全國の灣岸地区に殘っている。日本の公式な最初の歴史書である日本書紀は、熊野の有馬村と記している。山隂とは遠く離れた地区である。これに關しては、出雲に落ちたと思われる古代イズモ族が傳承したものがその基盤にあるのではないか、と思っている。日本書紀は、藤原不比等が蘇我氏の榮華を消し去り、中臣鎌足に始まる藤原氏の榮華を偽装するために編した部分が多く、天武天皇の意志のように思われるが、實は、そうではなく、天智天皇、鎌足系の持統天皇が大きく關與しているわけで、完全に信じ込むことは危険である。實際、大王家の正統を偽装するために、邪馬壹國(邪馬臺國)や他の國國の知識もあったのに、それを黙殺したとされている。實際、邪馬壹國には、古代イズモ族を當てる考えもある。それは、横においておき、本題に戻る。なぜ、熊野の有馬村を伊弉册が軻遇突智を生み、そして、隂部の火傷が原因で死んだ地としたのか。私は、二つの考えを持っている。一つは、武東征傳承において、丹敷戸畔の一党を討ったにも關わらず、服属させることができなかったための懐柔ということを考える。三重県熊野市は奈良県吉野郡川上村の南方に位置している。川上村の井光には武の傳承が殘っている。それを考えると、熊野から北山に出るルートを取って北上しているべきであったのだが、實際は異なっている。そのことと、さらに、日本書紀に記される伊弉册が軻遇突智を生み、そして、葬られたという有馬村、すなわち、産田社が平安期まで、大和王朝に服属していなかった可能性が非常にいということから、武東征を行ったとされるモデルの者は丹敷戸畔を討つには討ったがそれ以上先に進撃することが叶わなかったのではないだろうか、と考えている。服属していれば、産田社は確實に延喜式名帳にその名が刻まれているべき格の社だからである。この、武東征傳承に關連した物語が伊弉册と軻遇突智の傳承に置き換えられたのではなかろうか、と考えている。出てくる三人の登場人物、伊弉册、軻遇突智、そして伊奘諾。ここに推測を入れていくわけである。もちろん、話では伊奘諾と伊弉册は夫婦だが、ここではそうなのであろうか。同じときに命を落とした伊弉册と軻遇突智は仲間であったと考えて問題はないであろう。私は、ここに熊野三党筆頭の榎本連、そして、熊野本宮大社の創祀傳承を絡めて推測している。武東征というものがあったのは二千六百年前であったという。河内から畿内に入れなかった武は最終的に熊野から北上することになったのだが、この当時、宇井、鈴木とは異なり、榎本連はすでに紀伊半島に広く分布していたと言われている。つまり、大豪族であったわけである。おそらくは、丹敷戸畔とも關係のある一族であったことが推測される。私は、このとき、この榎本一族が二つに分裂したことを推測している。ひとつが産田社の官であった有馬榎本、そして、もうひとつが熊野三党筆頭榎本連となった家ではなかったか、と考えている。これを伊弉册、軻遇突智にまつわる傳承に結びつけるのである。邪馬壹國の話で有名なように當時はシャーマンというべき、呪術的司祭者である女王を持つことが多く、名草戸畔、丹敷戸畔もそういう類の民族の長であったといわれている。卑彌呼には、それを支える弟がいたというが、名草、丹敷戸畔にもそれに相當する人物がいたのは想像に難くない。このときに、この有馬村の伊弉册、軻遇突智傳承に結びつけるのである。この地で命を落とした伊弉册が丹敷戸畔、軻遇突智がその近しい位置にいた指導者に相當するのではないかということである。では、伊奘諾は誰なのか。丹敷戸畔とそれを支えた人物を死に追いやることになった人物ではないだろうか、と考えている。すなわち、熊野三党榎本連の祖となった人物で、武東征傳承の中で倉下命に連なることになっている人物であろうと考えている。つまり、侵略者に抗す仲間を殺し、その配下となるべく裏切った一族のもの、しかも、かなり宗家に近い位置にあったものであろうと思っている。ここに關係してくるのが三重県熊野市に口傳で傳わってきた傳承である。熊野本宮大社の宮司九鬼某はどうも、いくつかの理由で事實を曲げようとしているようではあるが、色色な角度から見てもこの口傳には眞實性のさが伺われる。「崇天皇の夢見により、ここにお祭りされていた様を熊野川、音無川、岩田川の合流点にある中洲に遷したのが、熊野本宮大社の始まり」といい、實際に、江戸時代までは、産田社と熊野本宮大社では、同じ巫女舞が傳承されていた。現在も熊野本宮大社の例大祭の巫女舞において「有馬の」の下りがあるという。しかし、大和朝廷に服属していないものたちのをそんなに平和裏に大王である崇の夢見で移すことができるのであろうか、という疑問が生ずる。それこそ、伊奘諾のモデルというべき熊野三党榎本連の祖となった一族を裏切ったものが持っていったものではないのであろうか、と推測するのである。ゆえに、同じを祀り、そして、同じ舞を持つのである。そのoriginは、出雲國一之宮熊野大社ではなく、熊野は有馬村というべきなのである。しかし、歴史はさまざまな思惑により隠されてしまったということ。ちなみに、出雲の熊野大社には、有馬というものが三重の熊野に移住した云云、という話が殘っているが、おそらくはこれも、出雲に落ちた古代イズモ族が傳えた傳承が途中で誤って傳えられることになったのではないか、と考えている次第。理由を示すのは骨が折れるので、放置いたしますが。
 
 かなり横道にそれたのだが、ま、こういったことより、前世、武東征軍に対峙し、一軍を率いて激戰、討死した私を軻遇突智の生まれ変わりといった次第なのでござる。


I am the reincantation of Kagutsuchi no mikoto. This God is the last son of Izanami no mikoto and the God of Flame. My grandmother at father's side was the reincantation of Izanami no mikoto. Then who are they? They are in the Japanese Myth. But it is really complicating, because two of our historical books tell us different stories. Kojiki says that this story belongs to Izumo(Shimane), but Nihonshoki says it happened in Kumano. Kumano is a part of Kii. About 2600 years ago, the tribe of Izumo lived in Kii and Yamato, but they were beaten by the invasion of one person who became the first Emperor of Japan. Izumo Myth did not happen in Izumo, but in Kii and Yamato. The tribe of Izumo moved to Izumo(Shimane) from Yamato finally and they left the tales to their offsprings, I think. But for some reason. people considers Izumo Myth is the tales of Izumo.

Nihonshoki says Izanami delivered Jagutsuchi in the Village of Arima, Kumano, However, since Kagutsuchi was The god of flame, Izamami had her womb burnt and dies due to it. Then Izanami's half Izanagi no mikoto got furious and killed his son, Kagutsuchi. In this region, people say Ubuta Jinja shrine is where Izanami delivered Kagutsuchi and died, and Hana-no-iwaya is the tomb of Izanami. Ouji-no-kutsu next to Hana-no-iwaya is called as the tomb of Kagutsuchi. Ubuta Jinja shrine and Hana-no-iwaya are a pair. Ubuta Jinja shrine is what my ancesters kept with fighting against Yamato Dynasty for more than 1000 years. Yamato Dynasty is the previous name of Japan.

The tale of Izanami and Kagutsuchi are probably not true, but this must indicate something occured in Kumano. The first emperor Jinmu came to Kumano and some of tribes supported him. This is the Jinmu invasion. At that time, Enomoto clan, Ui clan and Suzuki clan supported and these three were later called Kumano-santou( The biggest 3 clans of Kumano) and served present Kumano sanzan(the sacred mountains and shrines). Enomoto clan was the biggest at that time and had a big power. In the Myth, this is not written, but as far as I reserch, things have inconsistencies.

When I did not know about my ancesters clearly, I decided to visit Kumano sanzan, Kumano Hayatama Taisha shrine, Kumano Honguu Taisha shrine and Kumano Natchi Taisha shrine. Then something came into my head, or I should say someone called me. It was Ubuta Jinja shrine. When I met this name, I immidiately understood this shrine is related to me directly. I also visited where my great grandfather was born, although nobody else in my family know this place. My spiritual abilities which were sleeping for a long time started to wake up gradually and a lot of things come into my brain directly. I finally have started to untie the book of 'Mystery of Kumano', or I should say ' Eternally Hidden History of Kumano.' What is this? It is still vague, but getting clear.

Now I realise one thing from the indication by the tale of the birth of Kagutsuchi. Who is Izanami? Who is Kagutsuchi? Who is Izanagi? Probaly Enomoto clan was split when Jinmy came to Kumano to invade. The model of Izanami is probably Nishiki no Tobe, the sharman queen of this Kumano. The model of Kagutsuchi must be the son of Nishiki no Tobe or someone close to her who commanded the tribe and faught against the invasion of Jinmu. Both of them died, but Jinmu did not enter the east part of Kumano. What does it mean? Probably he could not enter, because Nishiki no Tobe showed the determination by the death in the battlle. The model of Izanami... I think this is the other half of Enomoto clan which was split and followed Jinmu's invasion. The real history of Kumano Honguu Taisha shrine as been hidden, but we can still know something and it tells us something strange. It indicates that the people who betrayed Enomoto clan killed the Nishiki no Tobe and her son, and moved the God of Ubuta to Kumano Honguu Taisha shrine, although the God did not move actually. This is quite complicating story to unveil. Many emotions and souls keep coming into my brain to tell how they felt or still feel to me.