■鳥居■
(3rd April 2010)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/e0/d27057f821cd40f90e42c6141563fd6a.jpg)
★勝手社★ 奈良県吉野郡吉野町吉野山
・祭は正哉吾勝勝速日天忍穗耳命。大山祇命、久久能智命、木花佐久夜比命、苔蟲命、菅野比命を配祀。
・以前は、山口社と稱されたという。
・創建年代は不詳。
・『日雄寺繼統記』によると、孝安天皇六年(紀元前386)の創建という。
・源義經と別れた靜御前が荒法師に捕えられた時、當社境内で雅な法樂の舞を舞ったという傳承がある。
・本殿は、平成十三年(2001)九月二十七日、不審火により燒失。以後、吉水社に仮遷宮。
■奧之院多聞院■(住所:奈良県吉野郡下市町大字才谷)
(25th January 2010)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/a2/71d8da6369a89e364f871edbc378a89d.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/cc/1465e23ab13daa18fa043d8c58fff9b6.jpg)
・本尊は本尊は毘沙門天像。室町時代の作とされる。
・吉野勝手社奧之院にあたり、毘沙門天は勝手社祭愛鬘命の本地佛である。
・今の本堂は棟札によれば、享保十七年(1732)仲冬の建立。
((コメント))
2010年1月25日
下市町を走っているときに、勝手社奧之院という石標が建っていたのが氣になっていたので歸りに立ち寄ってきた。距離や位置的なことを考えると、おそらく、源義經やその家來たちが朝に追われているときに參詣に來たに違いないだろう。もしかしたら、護良親王たち一行が村上義光、義父子の死と引き換えに落ち延びるときにも通っていたのかもしれない。そう思うと、切ない思いになるところである。
2010年4月3日
長らく社殿がないままになっている勝手社。危ないということで、境内に入ることはできない。早く、寄付金が集まり、社殿が復興して欲しいと思うのみである。
(3rd April 2010)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/e0/d27057f821cd40f90e42c6141563fd6a.jpg)
★勝手社★ 奈良県吉野郡吉野町吉野山
・祭は正哉吾勝勝速日天忍穗耳命。大山祇命、久久能智命、木花佐久夜比命、苔蟲命、菅野比命を配祀。
・以前は、山口社と稱されたという。
・創建年代は不詳。
・『日雄寺繼統記』によると、孝安天皇六年(紀元前386)の創建という。
・源義經と別れた靜御前が荒法師に捕えられた時、當社境内で雅な法樂の舞を舞ったという傳承がある。
・本殿は、平成十三年(2001)九月二十七日、不審火により燒失。以後、吉水社に仮遷宮。
■奧之院多聞院■(住所:奈良県吉野郡下市町大字才谷)
(25th January 2010)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/a2/71d8da6369a89e364f871edbc378a89d.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/cc/1465e23ab13daa18fa043d8c58fff9b6.jpg)
・本尊は本尊は毘沙門天像。室町時代の作とされる。
・吉野勝手社奧之院にあたり、毘沙門天は勝手社祭愛鬘命の本地佛である。
・今の本堂は棟札によれば、享保十七年(1732)仲冬の建立。
((コメント))
2010年1月25日
下市町を走っているときに、勝手社奧之院という石標が建っていたのが氣になっていたので歸りに立ち寄ってきた。距離や位置的なことを考えると、おそらく、源義經やその家來たちが朝に追われているときに參詣に來たに違いないだろう。もしかしたら、護良親王たち一行が村上義光、義父子の死と引き換えに落ち延びるときにも通っていたのかもしれない。そう思うと、切ない思いになるところである。
2010年4月3日
長らく社殿がないままになっている勝手社。危ないということで、境内に入ることはできない。早く、寄付金が集まり、社殿が復興して欲しいと思うのみである。