■磐座■
(19th January 2009)
★大倭宮★ 奈良県奈良市中町2147
・祭は奇稻田姬、素盞嗚尊。
・創建由緒等不詳。
・『大倭宮傳承の紀』『倭傳承 長曾根日子命』による矢追日聖が幽界より得たという傳承によると、熊野を迂回して大和に攻め込んだ狹野命の軍は連戰連敗だった。登美の軍が勝ち鬨を擧げようとした時、一天にわかにかき曇り氷雨の襲來とともに、金鵄の瑞光があって、兩軍矛を納めて大地に平伏した。この天啓によって兩軍和議が成立、長曾根日子命が差し出した條件を狭野命が無條件に受諾、長曾根日子命はヤマト國を狭野命に讓り、媛蹈鞴五十鈴媛命を正妃としてヤマトの婿養子となった。それでもヤマトの人人の中には不滿が殘り、再び戰亂の樣相が見えたので、長曾根日子命は自ら命を絶って、國が鎭まることを願った、ということである。根拠はない。
■社號標■
(19th January 2009)
■金鵄靈時鳥見山中聖蹟之碑■
(19th January 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/84/762dc72d6c496a29a78b9857e1fd979c.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/bd/5417e1c488037db1b9611557a12fe6c4.jpg)
■磐座■
(19th January 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/e3/68d438de78438878fbcb6e9ca9eb1dd4.jpg)
・磐座の側に「推古天皇御創建」とよめる刻印。
■紋章のある石碑■
(19th January 2009)
■小祠■
(19th January 2009)
・祭は鵄嶽大加美と武隈大明。
・鵄嶽大加美は、山城鞍馬山の鞍馬大魔王で、文治三年(1185)、大國主命からこのに「將來大倭の靈地を汚し侵す者がある。その者に對して嚴罰に處してもいい。行って守護せよ。」とあり、それで、當地に遷座したという。
■石■
(19th January 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/b8/d3b1fbf5a6a4384ad207c8f19fb7c21e.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/f0/2be3373149e408a6c1a8f7dd69903c87.jpg)
・境内に奇稻田姬の墓があるというがこれであろう、と思われる。
((コメント))
2009年1月19日
奇稻田姬の墓所があるといううわさの大倭宮へ行った。社廰所屬の社ではなく、宗法人となっているが、道系であろう。長曾根日子命(長髓彥といいたいのであろう)にまつわる話を殘す矢追日聖という人が興した宗法人大倭である。故人の寫眞を見させてもらうと、見るだけで靈能者であることはわかる姿をしている。そして、この宮の鎭座地も「何かを感じる」地である事は事實である。だが、長曾根日子命と狹野命のの話を傳承とし、書物にしていることは由由しきことである。幽界から得た傳承という時點で、それを「この地に傳わる傳承」とする根拠も存在しないわけで、どうして得られた話かを知らぬ者たちがこの話をこの地に傳わる「傳承」として、他のところで引用していることが非常に危うくも思うのである。そういうことからも、宗法人としては到底受け入れられるものではない。そして、その傳承は、到底、起こり得ない話であることは、出雲族と關連させて考えると想像に難くない。
體の磐座の側には、推古天皇御創建とよめる刻印がある。これが、もとよりある眞の磐座であれば、おそらくこのような刻印を殘すことは出來ないであろう。この地が、あえて、古いものであるように見せかける加えられたものであろう。おそらくは、この地のエネルギーもこの石から出るものではなく、その石の下の地下より出ずるものであろう。
磐座に向かって左側にもう一つ祀られている小さな石があったのであるが、これがこの宮の云うところの奇稻田姬の墓所に當たるのであろうか。『大倭宮傳承の紀』の經緯からも考え、信性に缺けるといえる。そして、重要なことに奇稻田姬の墓が境内にあるというのに、そこに關連性がないのがおかしいことである。
(19th January 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/95/15d618c005aebfb6e4211e1a6906ee8c.jpg)
★大倭宮★ 奈良県奈良市中町2147
・祭は奇稻田姬、素盞嗚尊。
・創建由緒等不詳。
・『大倭宮傳承の紀』『倭傳承 長曾根日子命』による矢追日聖が幽界より得たという傳承によると、熊野を迂回して大和に攻め込んだ狹野命の軍は連戰連敗だった。登美の軍が勝ち鬨を擧げようとした時、一天にわかにかき曇り氷雨の襲來とともに、金鵄の瑞光があって、兩軍矛を納めて大地に平伏した。この天啓によって兩軍和議が成立、長曾根日子命が差し出した條件を狭野命が無條件に受諾、長曾根日子命はヤマト國を狭野命に讓り、媛蹈鞴五十鈴媛命を正妃としてヤマトの婿養子となった。それでもヤマトの人人の中には不滿が殘り、再び戰亂の樣相が見えたので、長曾根日子命は自ら命を絶って、國が鎭まることを願った、ということである。根拠はない。
■社號標■
(19th January 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/9e/7bb6c6a8a45750aaf726bf132248228d.jpg)
■金鵄靈時鳥見山中聖蹟之碑■
(19th January 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/84/762dc72d6c496a29a78b9857e1fd979c.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/bd/5417e1c488037db1b9611557a12fe6c4.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/3b/d13b0eba70d96a4455240ef90760bdc5.jpg)
■磐座■
(19th January 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/e3/68d438de78438878fbcb6e9ca9eb1dd4.jpg)
・磐座の側に「推古天皇御創建」とよめる刻印。
■紋章のある石碑■
(19th January 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/05/879b1c6e9fe74110a174d74baec3c925.jpg)
■小祠■
(19th January 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/9d/dcbc46c4d17242b5f06272c78fdc1201.jpg)
・祭は鵄嶽大加美と武隈大明。
・鵄嶽大加美は、山城鞍馬山の鞍馬大魔王で、文治三年(1185)、大國主命からこのに「將來大倭の靈地を汚し侵す者がある。その者に對して嚴罰に處してもいい。行って守護せよ。」とあり、それで、當地に遷座したという。
■石■
(19th January 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/b8/d3b1fbf5a6a4384ad207c8f19fb7c21e.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/f0/2be3373149e408a6c1a8f7dd69903c87.jpg)
・境内に奇稻田姬の墓があるというがこれであろう、と思われる。
((コメント))
2009年1月19日
奇稻田姬の墓所があるといううわさの大倭宮へ行った。社廰所屬の社ではなく、宗法人となっているが、道系であろう。長曾根日子命(長髓彥といいたいのであろう)にまつわる話を殘す矢追日聖という人が興した宗法人大倭である。故人の寫眞を見させてもらうと、見るだけで靈能者であることはわかる姿をしている。そして、この宮の鎭座地も「何かを感じる」地である事は事實である。だが、長曾根日子命と狹野命のの話を傳承とし、書物にしていることは由由しきことである。幽界から得た傳承という時點で、それを「この地に傳わる傳承」とする根拠も存在しないわけで、どうして得られた話かを知らぬ者たちがこの話をこの地に傳わる「傳承」として、他のところで引用していることが非常に危うくも思うのである。そういうことからも、宗法人としては到底受け入れられるものではない。そして、その傳承は、到底、起こり得ない話であることは、出雲族と關連させて考えると想像に難くない。
體の磐座の側には、推古天皇御創建とよめる刻印がある。これが、もとよりある眞の磐座であれば、おそらくこのような刻印を殘すことは出來ないであろう。この地が、あえて、古いものであるように見せかける加えられたものであろう。おそらくは、この地のエネルギーもこの石から出るものではなく、その石の下の地下より出ずるものであろう。
磐座に向かって左側にもう一つ祀られている小さな石があったのであるが、これがこの宮の云うところの奇稻田姬の墓所に當たるのであろうか。『大倭宮傳承の紀』の經緯からも考え、信性に缺けるといえる。そして、重要なことに奇稻田姬の墓が境内にあるというのに、そこに關連性がないのがおかしいことである。