の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

大倭宮

2013年01月18日 01時32分17秒 | 近畿(奈良)
■磐座■
(19th January 2009)
 


★大倭宮★ 奈良県奈良市中町2147

・祭は奇稻田姬、素盞嗚尊。

・創建由緒等不詳。

・『大倭宮傳承の紀』『倭傳承 長曾根日子命』による矢追日聖が幽界より得たという傳承によると、熊野を迂回して大和に攻め込んだ狹野命の軍は連戰連敗だった。登美の軍が勝ち鬨を擧げようとした時、一天にわかにかき曇り氷雨の襲來とともに、金鵄の瑞光があって、兩軍矛を納めて大地に平伏した。この天啓によって兩軍和議が成立、長曾根日子命が差し出した條件を狭野命が無條件に受諾、長曾根日子命はヤマト國を狭野命に讓り、媛蹈鞴五十鈴媛命を正妃としてヤマトの婿養子となった。それでもヤマトの人人の中には不滿が殘り、再び戰亂の樣相が見えたので、長曾根日子命は自ら命を絶って、國が鎭まることを願った、ということである。根拠はない。


■社號標■
(19th January 2009)
 


■金鵄靈時鳥見山中聖蹟之碑■
(19th January 2009)


 


■磐座■
(19th January 2009)


・磐座の側に「推古天皇御創建」とよめる刻印。


■紋章のある石碑■
(19th January 2009)
 


■小祠■
(19th January 2009)
 

・祭は鵄嶽大加美と武隈大明。
・鵄嶽大加美は、山城鞍馬山の鞍馬大魔王で、文治三年(1185)、大國主命からこのに「將來大倭の靈地を汚し侵す者がある。その者に對して嚴罰に處してもいい。行って守護せよ。」とあり、それで、當地に遷座したという。


■石■
(19th January 2009)



・境内に奇稻田姬の墓があるというがこれであろう、と思われる。


((コメント))

2009年1月19日

 奇稻田姬の墓所があるといううわさの大倭宮へ行った。社廰所屬の社ではなく、宗法人となっているが、道系であろう。長曾根日子命(長髓彥といいたいのであろう)にまつわる話を殘す矢追日聖という人が興した宗法人大倭である。故人の寫眞を見させてもらうと、見るだけで靈能者であることはわかる姿をしている。そして、この宮の鎭座地も「何かを感じる」地である事は事實である。だが、長曾根日子命と狹野命のの話を傳承とし、書物にしていることは由由しきことである。幽界から得た傳承という時點で、それを「この地に傳わる傳承」とする根拠も存在しないわけで、どうして得られた話かを知らぬ者たちがこの話をこの地に傳わる「傳承」として、他のところで引用していることが非常に危うくも思うのである。そういうことからも、宗法人としては到底受け入れられるものではない。そして、その傳承は、到底、起こり得ない話であることは、出雲族と關連させて考えると想像に難くない。

 體の磐座の側には、推古天皇御創建とよめる刻印がある。これが、もとよりある眞の磐座であれば、おそらくこのような刻印を殘すことは出來ないであろう。この地が、あえて、古いものであるように見せかける加えられたものであろう。おそらくは、この地のエネルギーもこの石から出るものではなく、その石の下の地下より出ずるものであろう。

 磐座に向かって左側にもう一つ祀られている小さな石があったのであるが、これがこの宮の云うところの奇稻田姬の墓所に當たるのであろうか。『大倭宮傳承の紀』の經緯からも考え、信性に缺けるといえる。そして、重要なことに奇稻田姬の墓が境内にあるというのに、そこに關連性がないのがおかしいことである。

池社

2013年01月14日 23時21分53秒 | 近畿(奈良)
■明池■
(9th April 2009)
 


★池神社★ 奈良県吉野郡下北山村大字池峯

・舊社格は社。

・祭は市杵島姬命。天兒屋根命、少彥名命を配祀。
・社頭の明池は、古くは北山川の河底であったと考えられる河蹟湖で、琵琶池とも云うが、古來、白蛇(龍)が住む地と傳えられ、當社の御體として崇められてきた。

・明池はいかなる日照りや大雨のあとも水位に変化のない祕な池であるといわれる。

・社記によると、古くは現在地から池をはさんだ北東約百五十メートルの字辻堂に鎭座していたが、元和年(1615-24)に現在地へ遷宮、舊社地にも小祠を建てて、奧宮として崇敬を續けたという。

・明治十二年(1879)の境内整備以前は池の南端が現在の鳥居前まで入り込んでおり、眞曲橋という反り橋が架けられていたという。

・傳承では、明池は里人にヌシのいる池と恐れられていたが、天武天皇の白鳳年(650-654)、役行者が大峯山から下山した際、舊社地にそのヌシを祀ったという。

・この池にまつわる民族傳承も殘り、池底の腐木が浮かんで動きまわるとき、「浮木さま」といって目出度いことのある前兆とし、天災や凶事のあるときは池が地震のように鳴動し水面に異變が起こり、社殿も搖れ動くと傳えられる。また、池中に石や不淨物を投げ込むと雷が鳴り、天變が起こるともいう。

・死人を運んで社前を通ると威を汚すということで現在も遠く池尻を迂回して通るという。

・氏子區域は、池峯、上、下池原に、元和年(1615-1623)から寺垣内、浦向、佐田、上下桑原、が加わり、明治初年(1868)には上北山村も氏子であったという。崇敬者は広く、上市、天川より遠く新宮付近まで及んでいたことが奉納石燈籠や扁額よりわかる。


■鳥居■
(9th April 2009)



■拜殿■
(9th April 2009)
 
 
 


■本殿■
(9th April 2009)

 


■拜殿、本殿■
(9th April 2009)
 


■明池と小祠■
(9th April 2009)




((コメント))

2009年4月9日

 長い、下北山村にこれといった社を見つけることができず、不思議に思っていたのだが、いわゆる、下北山村の總氏とされる池社を發見したので、行くことにした。

 大きな池がありすがすがしいが、山の樣の社ではないのでなんか、自分にはわかりにくい感じであった。龍というような氣ではなかった樣に思うのだが不在であったのかね。

室生龍穴社

2013年01月14日 22時55分28秒 | 近畿(奈良)
■拜殿の前の空■
(1st January 2013)
 


★室生龍穴社★ 奈良県宇陀市室生区室生1297

・延喜式内社、大和國宇陀郡、室生龍穴社。

・舊社格は村社。

・祭は靇。天兒屋根命、大山祇命、水波能賣命、須佐之男命、埴山姫命を配祀。本來の祭は善女龍王という。

・『日本紀略』弘仁九年(818)七月十四日條に「遣使山城國貴布禰社、大和國室生龍穴等処、祈雨也」とあり、古くから朝廷により祈雨のとして崇敬を受けていたことがわかる。ただし、貴布禰が社とあるのに對し、當社がただ室生龍穴とある理由は單に社殿がなかったためなのかは明らかではない。

・『三代實錄』貞觀九年(867)八月十六日條に、「大和國從五位下檉生龍穴正五位下」と記される。

・『室生山年分度者奏狀』に「寔是仙遊処。衆聖遺蹟也。即以件龍王。爲伽藍護法也。毎有旱災。臨龍王之穴池。而祈甘雨。祝言末訖。雲雨彌降。五穀忽茂。万姓感悦。」と祈雨の効驗すみやかなることが記されている。

・『室生山年分度者奏状』によると、山部王、のちの桓武天皇が病に伏した時、淨行僧五人に室生山中で延壽の法を修せしめたところ、山部王は平癒したので、賢憬が仰せを受けて山寺を創建したが、龍王の効驗がますます著しかったため、國家鎭護のとしたとある。

・『室生山年分度者奏狀』は、天應元年(781)から承平七年(937)までに二十九度、勅使や國司が龍穴に派遣されて請雨、止雨の祈禱がなされたが、その都度、効驗があったと記している。

・豐臣秀長が郡山城に入り、室生寺が興寺から離れるまで、當社も興寺の支配を受けていた。

・松山藩の領主織田氏が新しい館を建てるため當社の木を伐採したところ、一夜告の靈夢を見たので驚き、ただちに人を遣わせて伐採を中止し、「木而二不二」と刻んだ標石を境内に建てたと傳えられる。

・口碑によると、室生の賢憬が龍王の生身を拜むため龍穴に深く入ったところ、その奧に龍宮があり、机の上に法華經一巻が置かれて光を發していたのだが、そこに一人の男が現れ、賢憬に用を聞くと、龍王の生身を拜みたいと答えたため、ここでは狹いから外で会おうというので、龍穴の外で待っていると三百メートルほど離れた水面上に龍王が衣冠を着して腰から上を現したという。賢憬は地にひれ伏して拜んだがまもなく姿が消えたので、そこに龍王の姿を刻んで祈ったといい、その場所が今の龍穴社であるという。


■鳥居■
(1st January 2013)



■境内■
(1st January 2013)



■拜殿■
(1st January 2013)

 


((コメント))

2013年1月1日

 吉野から津風呂湖の北を抜け、菟田野の古市場から榛原の内牧へ抜け、國道三六九號へ入り、室生の弁財天から北へ縣道二八號を走るルートをとったのであるが上内牧から雪が積もっており、路面もかなり凍結した狀態。スタッドレスでよかった。

 寒い風が吹く中、ようやく、室生龍穴社の鳥居前へ到着。車が一臺停まっているだけでほとんど燈りも見られない。寒い、ただひたすら寒いだけである。龍が奧にいるのはわかるがあまり「怒」の狀態ではなく、ただ靜かに鎭まっている感じであった。寫眞を境内で撮っているうちに、拜殿の前の空にも龍が出てきたようであり、寫眞にエネルギー體が入ったのであるが、見える人はいかほどいるのだろうか。

 しかし、初めてである。普通、正月三箇日は參拜の爲に拜殿は戸を開けているべきものなのであるが、ここは燈りのみで拜殿は閉ざされていたのである。少し、苦言を呈したいものである。

覩上社

2013年01月09日 07時47分06秒 | 九州(福岡、佐賀、長崎、大分)
■祓い場、もしくは、末社蹟■
(16th June 2011)



★覩上社★ 長崎県壱岐市芦辺町湯岳本村触271

・舊社格は村社。

・祭は素盞嗚尊、奇稻田姫命、大己貴命。

・舊平戸藩崇敬十七社の一社。

・舊稱は妙見宮。

・延寶四年(1676)の調査により式外と定められるも、それ以前は、式内角上社と考えられていたという。

・鎭座については諸説ある。當初、山上に出現した神であるが、祭祀の便利のため、麓に社殿を造営、奉遷したという説、覩城築城の時、城域鎭護のため鎭まったと言う説、悪魔除伏、疫癘防禦のため此地に祭鎭という説などがある。


■鳥居■
(16th June 2011)
 


■拜殿■
(16th June 2011)



■拜殿、本殿■
(16th June 2011)
 


■水■
(16th June 2011)
 


((コメント))

2011年6月16日

 一説には、覩城の鎭守としての鎭祭ということであるが、覩城の築城は、長田忠致によるとのこと。平治の亂の恩賞ということになると、平治元年(1159)以降のことになるので、今より八百數十年遡った時代の話となる。その鎭守として。新しく創建されたものであれば、延喜式内社でないことは確かであるが、おそらくは、當時から存在していた古社を鎭守にしたのではないか、と思わざるを得ない。長田忠致は尾張にて、自分の主でもある頭殿こと、源義朝と、自らの女婿でもあり、源氏の總大將である義朝の乳母兄弟でもある鎌田政家を騙し討ちにして、平盛にその首を持っていき、壹岐の國司になった人物である。その恩賞に不服であったために、一度は壹岐に行くも、すぐに、尾張に歸ったくらいの人物であり、新たに社を建てるような人物には思われないのである。長田忠致の城の名にもある「ト」であり、實際、當社も「ト」のと呼ばれていたようであり、そう考えると、深江社、角上社とセットのような氣もする。

 社自體、橘三喜の査定以前は式内社と考えられていたことからも、古社であることに疑いはなく、境内にもそれなりの氣の格が感じられることは事實である。ただし、式内角上社であるかどうかは疑問である。

 しかし、橘三喜だけの責任にはすべきではないが、よくもまあ、ここまで物事を混迷させるような調査をしてくれたものである。だから、江戸時代の國學者は嫌いなのである。

河俣社

2013年01月06日 15時19分07秒 | 近畿(奈良)
■境内入口■
(1st January 201)
 


★河俣社★ 奈良県橿原市雲梯町689

・延喜式内社、大和國市郡、市御縣坐鴨事代主社、大、月次新嘗。

・舊社格は村社。

・祭は鴨八重事代主。

・『大和志』では、式内市御縣坐鴨事代主社として、藤原京の大極殿蹟の鴨公社を比定しているが、宇奈提と呼ばれた地は雲梯町しかないとされる。

・『出雲國造賀詞』は、大穴持命が國土を天孫に讓って出雲の杵築へ去るに當たって、自らの和魂と子女の御魂を大和に留めて皇室の守護とすべき事を誓うが、 その中に「事代主の命の御魂を宇奈提に坐せ・・」とあり、宇奈提は現在の雲梯町であるとされる。

・『日本書紀』に、壬申の乱の時、市郡大領市縣主許梅に懸りし、「われは市社にいる。名は事代主」とし、顯わした豫言は的中、天武天皇から勝利に功ありとされたとある。この靈驗により、市御坐鴨事代主に、史上初となる位が授けられている。

・攝津國一の宮住吉大社には畝傍山口社境内における埴取の事があるが、その祭祀を行う者は當社で裝束を整えることが恒例となっており、そのことから「裝束の宮」と俗稱される。


■鳥居■
(1st January 201)



■拜殿■
(1st January 201)

 


■本殿■
(1st January 201)



■繪馬■
(1st January 201)
 


((コメント))

2013年1月1日

 私の里の宮、河俣社である。何年か前にいった時と同じく拜殿は開け放たれ、無人の狀態である。寂しいものであるが仕方がない。さんが本殿の前に立っていたので久しぶりに挨拶してきた。