の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

御嶽社 / 御嶽神社

2014年08月11日 21時57分47秒 | 関東(栃木、茨城、千葉、群馬)
■參道■
(13th June 2008)



★御嶽社★ 千葉県いすみ市大原町

・祭は少彥名命と素盞鳴命。

・創建由等不詳。

・大原はだか祭りの十八社のうちの一つである。


■鳥居■
(13th June 2008)



■社殿■
(13th Jun 2008)



((コメント))

2008年6月13日

 氣も弱く、普通のちっちゃな社という感じ。

舟社 / 神舟神社

2014年07月12日 23時04分19秒 | 関東(栃木、茨城、千葉、群馬)
■二之鳥居■
(14th May 2009)



★舟社★ 栃木県鹿沼市上大久保338

・祭は磐裂、根裂。

・倉天皇御世治承元年(1177)、勸請にして明星天子(虛空藏菩薩)の信仰を齋りて星宮大明と稱す。

・維新に際し、鎭座地地名舟であったが爲、舟社と改稱。


■一之鳥居■
(14th May 2009)
 


■二之鳥居、拜殿■
(14th May 2009)
 


■本殿■
(14th May 2009)
 


■石祠羣■
(14th May 2009)
 


((コメント))

2009年5月14日

 大葦社から古峯社のほうへ走ってすぐのところに鎭座する。古峯社への道中にあるので、その關係社かと思っていたのだがどうも、違う獨立した信仰の中で生まれた社のようらしい。

 の舟という名を持つゆえに、物部との關係か、と思っていたのだが、社名は明治維新に、地名から取られたとか。この地に、物部一党が住したのかどうか知らないので、地名の由來はわからない。

 ま、田舍の山の村の鎭守さんのもつ特有の氣を釀し出す。

舩越鉈切社 / 舩越鉈切神社

2014年07月11日 12時07分37秒 | 関東(栃木、茨城、千葉、群馬)
■木■
(13th June 2008)



★舩越鉈切社★ 千葉県館山市浜田376

・舊社格は村社。

・祭は海である豐玉姬命。

・縣道の北側海岸寄りにあるのが海南刀切社、南側山中にあるのが舩越鉈切社で、かってはひとつの社として信仰され、濱田の舩越鉈切社を上ノ宮、見物の海南刀切社を下ノ宮と呼んでいた。

・『房總志料』によれば、海南刀切社の祭手斧鑿明が勝地を求めるために使を遣わしたところ、刀切の靈地を愛したこの使は岩窟に隱れて復命せず、舩越鉈切社の祭になったという。また『安房志』は「古昔この、上國より船に乘じてこの海濱に來たり、手斧を以て巨岩を鑿開して道を通ず。ゆえに一にして舩越、海南の二名ありといふ」と記す。實のところ、二社の祭を別とする說、同一とする說があり、その關係は必ずしも判然としていない。

・本殿のある鉈切洞穴からは繩文式土器、原始漁勞具等が出土している。その後、古墳時代には墓として使われた形蹟があり、後に海を祀る社になったとのこと。


■社號標■
(13th June 2008)



■一の鳥居■
(13th June 2008)



■二の鳥居■
(13th June 2008)



■參道■
(13th June 2008)



■拜殿■
(13th June 2008)




■本殿(鉈切洞穴)■
(13th June 2008)


 千葉縣指定文化財

・自然の營みでつくられた海食洞穴。
・地殻運動によって起し、現在は、館山灣に面した標約二十五メートルの海岸段丘上にある。
・昭和三十一年(1956)の發掘調査では、繩文時代後期初頭の稱名寺II式土器とともに、魚を捕るための鹿角製釣針や銛などのほか、マダイやマグロなど魚骨四十七種、アワビやサザエなどの貝類六十八種が出土。これらの出土遺物は、當時の漁民が海岸部での魚介類の採集にとどまらず、かなり遠方まで積極的に漁をしにいったことを物語る。
・海鳥や、シカ、イノシシ、タヌキ、サルなどの骨も出土しており、同時に山の猟も行ったことがわかる。
・出土した繩文式土器には、對岸の奈川縣の土器の影響が強くみられ、繩文時代後期、東京灣岸地域には、海と山からのめぐみにより、數多くの集落が存在していたと想像される。


■磐上の末社■
(13th June 2008)



((コメント))

2008年6月13日

 實は、この社の存在は知らなかった。洲崎社に行く途中に通りすがったのがきっかけで、偶然、その十字路で赤信號に遭遇したときに發見。いい意味でとれば、この社に呼ばれた、ということ。

 流石に、繩文より人が住んでいただけあり、繩文遺蹟特有のドンヨリさが傳わってくる。まあ、文化の違いなどもあるのだが血なまぐささが腦を直擊してくる。いい感じではあるが、夜中に步け、といわれたらイモをひきそうなところではある。つまり、不氣味というか、おどろおどろしい氣が漂うのである。御社宮司關係もそうであるが、繩文時代物には共通している感じがする。

 本殿のある洞穴の中はひんやりして、さらに、一瞬、ぞわっとするような繩文獨特のうねる氣が充滿していた。

大葦社 / 大葦神社

2014年07月03日 12時22分00秒 | 関東(栃木、茨城、千葉、群馬)
■鳥居■
(14th May 2009)



★大葦社★ 栃木県鹿沼市下大久保44

・祭は天御中主命、磐裂命、根裂命。

・創建由等不詳。


■一之鳥居■
(14th May 2009)
 


■二之鳥居■
(14th May 2009)
 


■門■
(14th May 2009)
 


■本殿■
(14th May 2009)




■川■
(14th May 2009)
 


((コメント))

2009年5月14日

 天狗の古峯社に行く道中にいくつかの社が地圖に載っていたので行くことに。まずは、大葦社から。まあ、川沿いのいいロケーション。ささやかな村の鎭守という香りがしてよい。

洲崎社 / 洲崎神社

2014年06月25日 03時53分17秒 | 関東(栃木、茨城、千葉、群馬)
■體山■
(13th June 2008)



★安房國一之宮洲崎神社★ 千葉県館山市洲崎1697

・延喜式内社、安房國安房郡、后天比理刀命社、大、元名洲、論社。

・舊社格は縣社。

・祭は天比理刀命で、安房社祭天太玉命の后。

・江戶時代に、安房國一之宮となったとされ、全國一の宮會に參加するものの、實際に江戶時代に一之宮とされたことを示す文書はなく、單に自稱であると考えられる。

・根拠は、文化九年(1812)、筆頭老中松平定信が「安房一宮洲崎大明」の扁額を奉納しているが、安房「國」ではなく實際に一之宮と呼ばれるべきか、という面では疑問である。

・寶曆三年(1753)に書かれた當社の社傳『洲崎大明由舊記』では、武天皇の御代、安房國の開拓者である天富命が、祖母の天比理乃命の持っていた鏡を體として、美多良洲山に祀ったのが當社の始まり、という。

・治承四年(1180)九月五日、石橋山の合戰に敗れ、海路安房國に上陸した源朝は當社に參拜し、上總介及び千葉介へ送った使者の無事と交渉の成功を祈願して、田を寄進している。

・江戶時代までは別當寺の養老寺が當社を支配した。

・東京品川區の品川社は、源朝が海上安全のために當社から勸請したもの。

・社近くの波左海中公園内の海中に、水難事故、水難事件防止を祈願する爲に作られた當社の分社、日本唯一の「水中社」がある。


■隨身門■
(13th June 2008)



■參道の石段■
(13th June 2008)



■拜殿■
(13th June 2008)



■本殿■
(13th June 2008)



 館山市指定文化財

・三社流れ造で、三方に木口緣をめぐらし、銅板葺、千木勝男木を置き、唐樣三手先組で外部は丹塗仕上げ、木鼻欄等に彫刻が施されている。
・裝飾が多く、江戸中期の社建築の特徴が强い。
・昭和六十一年(1986)に臺風で土砂が流出し、倒壊、修復された。


■境内末社■
(13th June 2008)



((コメント))

2008年6月13日

 一應、安房國一之宮を稱しており、江戶時代より一之宮となったといわれるが、實は、どの書物にもそのことは書かれておらず、實際には、安房國一之宮の格式を持つのは安房社が正當であろう。ただ、現實問題、洲崎信仰というのが特異な廣がりを見せたのは事實であり、有力な社であったことは否定できない。

2014年6月24日

 カナダで知り合った人に天然石のブレスレット、石は私が使っていたもの、をあげたのだが、その前に、氣の遠隔操作というのであろうか、腕輪に氣を入れたらば、洲崎明に祭られるものが入ったようであった。三體現れたが、最終的には女性の木造觀音像のようなものが腕輪に封じられることになった。なるほど、と思うのである。