の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

Basilique-cathedrale Notre-Dame de Quebec

2010年12月14日 03時51分49秒 | 海外の聖地
■大聖堂外觀■
(24th October 2009)



★Basilique-cathédrale Notre-Dame de Quebéc★ 20 Rue De Buade, Québec, Québec, Canada

 世界遺産

・カトリックの大聖堂。
・350年の歴史を持つ教会であるが、何度かの火災で燒失し、再建されている。
・現在のものは1925年の再建。
・世界遺産「ケベック歴史地区」に含まれている。


((コメント))

2009年10月24日

 ケベック・シティに到着したのが夜であり、散策するだけにとどまったのだが、夕食後に、久しぶりの舊市街を思い出すために散策し、大聖堂の周辺も歩いたために夜の姿を撮影。やはり、カナダで最も美しい街のひとつである。

出雲井社

2010年12月04日 17時14分33秒 | 中国(鳥取、島根)
■境内■
(12th June 2010)



★出雲井社★ 島根県出雲市大社町修理免

・祭は岐。

・出雲大社境外攝社。

・出雲路社ともいう。

・大國主大神が國土奉献するとき、大の命により天照大御の使者の案内役として諸國を巡り、國内の平定に力を尽くしたを祀る。


■本殿■
(12th June 2010)

 


■磐座■
(12th June 2010)
 


■體山彌山■
(12th June 2010)



((コメント))

2010年6月12日

 出雲大社より少し東方面、彌山登山口近くに鎭座する境外攝社出雲井社。存在すら余り知られていない境外社であるのに、その敷地は大きく、何か特別扱いをされているような社のように思われる。余り人は氣づいておらぬようであるが、實は磐座がある。 

出雲日御碕大宮教

2010年12月04日 16時34分24秒 | 他の神道系宗教
■社殿■
(12th June 2010)



★出雲日御碕大宮教★ 島根県出雲市大社町日御碕

・由緒等不明。

・二の教会と四の布教所を包括。

・信者数は二千百十人。


((コメント))

2010年6月12日

 日御碕社の脇にあった出雲日御碕大宮教。出雲大社と出雲大社教のようなものなのだろう。無人であったし、詳しくはわからなかった。

洞川八幡社

2010年12月04日 16時09分43秒 | 近畿(奈良)
■鳥居■
(18th February 2003)



★洞川八幡社★ 奈良県吉野郡天川村洞川

・祭は天照大、八幡大、熊野大。

・天智天皇六年(667)、役小角が大峯山入峰にあたり守護と祈誓成就のため祭祀したと傳えられる。

・洞川の氏様として宮參りや厄年參りなど長く人人に親しまれてきている。


■社殿■
(18th February 2003)



((コメント))

2003年2月18日

 小学生のときにここも來た記憶がかすかに殘る社であった。天川の山の匂いが強く殘る社。

立社

2010年12月04日 16時07分58秒 | 近畿(三重、和歌山)
■鳥居、社號標■
(28th April 2009)
 
 

★立社★  和歌山県有田市野字御殿山700

・舊社格は社。

・祭は大屋彦。

・創建年代不詳も、古來より祀られていたといい、『紀伊國名帳』の在田郡官知部に見える「正五位下水主明」に比定される。

・本殿の後背に岩石が屹立しているが、『紀伊名所図会』や『紀伊續風土記』によると、かつてはその岩盤に有田川の奔流が激突して流路を北に変じ、岩下に深い淵をなしていたとの傳えを記し、その淵によって「水主明」と稱され、また「立」の名はその岩盤に起因すると推測される。

・當地は平安時代に置かれた宮崎庄に属し、應三年(1086)、本家と見られる藤原氏から庄内十三町五段が那智山へ寄進されている。『紀伊續風土記』は同庄が熊野那智山の領とされたとし、後にこの地を領して野に築城した實方中將の苗裔を將する宮崎氏が、城の坤に熊野三所權現と熊野新宮の攝社であった飛鳥社の分靈を勧請したのが創祀であるとし、また、社傳においては野に築城した宮崎定範が當社境内へ熊野十二所權現を勧請したと傳えている。

・宮崎氏の領有に關しては室町時代と考えられ、當地を領有した同氏が領有後に從來から存した當社を整備、飛鳥社を勧請したともいわれる。

・中世以降宮崎氏を中心に崇敬されて來たが、天正年間(十六世紀末)に豐臣秀吉の紀州征伐で同氏が滅亡すると同時に當社も兵火に罹って燒亡。その後庄内七村の民が協力して天正十八年(1590)に再興。ところで天正の兵乱に際しては、宮崎城内に侵攻して來た敵兵を異を現して退散させたという。

・當社の焼亡は天正十三年(1585)に豐臣秀長によって齎されたもので、その折には當時禰宜であった直という者が體と寶類を櫃に納めて避難し、新堂村に一時仮宮を建てて潜伏したとも傳わる。

・江戸時代には代代の紀伊藩藩主から厚く信仰された。

・明治四十年(1907)、一帶の無格社を合祀。

・現在は有田市野、山地、古江見、新堂と宮崎町の小豆島、辰ヶ浜、男浦、逢井、矢櫃地区の氏とされている。

・當社を上之宮、境外社の飛瀧社を下之宮とし、例祭には、飛瀧社から輿渡御が行われる。


■手水舎■
(28th April 2009)

 

■木■
(28th April 2009)



■拜殿■
(28th April 2009)
 


■幣殿■
(28th April 2009)



■本殿■
(28th April 2009)
 


■末社飛鳥社■
(28th April 2009)
 

・國常立命、伊奘諾尊、伊弉册尊を祀る。


■末社熊野社■
(28th April 2009)
 

・熊野十二所權現中の若宮(天照皇太)以下の九所を祀る。


((コメント))

2009年4月28日

  須佐社、國津社に向かって運転している途中に見かけた社であったが、あまり目にしない名稱の社で氣になったので、戻る途中に立ち寄ることにした。特筆すべきものはないけれど、まあまあ、いい感じであった。水のというところが波長の合う理由なのかもしれない。