の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

日日社

2010年05月28日 02時45分10秒 | 関東(埼玉、東京、神奈川)
■二の鳥居■
(12th May 2009)



★日日社★ 神奈川県相模原市大島2248

・舊社格は村社。

・祭は伊邪那岐命、天照皇大御。

・創建年代不詳。

・舊稱日之宮。

・保元二年(1157)、寛文五年(1665)、元禄元年(1688)に社殿再建の記録あり。

・明治二年(1869)七月、東京祇官に「日日社」と名を與えられ、現在地に再建となる。

・保元二年(1157)、流刑先の伊豆に行く途中の源朝が植えたといわれる松の跡がある。


■拜殿■
(12th May 2009)



■本殿■
(12th May 2009)


・昭和五十八年(1183)建造の社殿。


■淤能基呂(おのころ)の松■
(12th May 2009)


・源朝が平家に追われ伊豆に流された保元二年(1157)、十歳の時に植えたとも言われている。
・昭和四十一年(1966)九月二十六日、臺風で倒木したが、その跡が保存されている。


■木■
(12th May 2009)



((コメント))

2009年5月12日

 特に、有名な社ではないと思うが、日日社前というバス停を地図帳の中に見つけたので、少しチェックすると、源朝の名前が出てきたため、また、社名がユニークであったために立ち寄ることに決めた。

 相模原には、鎌倉幕府二代目将軍源家の手植え傳承のある社も國道沿いにあったがこちらは車が停めれそうではないので最初から予定に入れなかった。

 社は木木が多くなかなかいい雰囲氣を持つ地ではあったと思うが、若干重い感じもしないでもなかった。ただ、社らしい社ではないであろうか。

雑記3 『瑞垣とは何か』

2010年05月28日 02時42分22秒 | 雑記
 昔、熊野本宮大社の社地は熊野川と音無川に囲まれた中州である大齋原と現在は呼ばれているところにありました。この中洲には橋などは架けておられず、上皇や貴族をはじめ武士、庶民にいたるまで參詣者はすべてこの清流を歩いて社地に入らねばならず、「ぬれわらしの入堂」と言われたそうです。こういう川中島というべき地形の聖地性を思うとき、ある考えが生じます。

 瑞垣とはほんらい聖地を廻る水の垣、すなわち、水垣であったということです。

 その本質は、水に触れ、水を潜らなければ絶対に聖地、聖域には參入できないということです。つまり、これが聖地に入るに際しての、自然な形での「禊」ということになるのです。

 熊野本宮大社だけではなく、大和國一之宮である三輪山の大神(おおみわ)神社がありますが、この三輪の語源は「水輪」「水曲」とされ、三輪川と巻向川に囲まれた地は「水垣」にふさわしいものであったといわれています。

 有名な下賀茂社(賀茂御祖社)なども、そのような自然の水垣を持っていたとされます。この自然の水垣が、御手洗川、池、蹲、内裏の御溝水と姿を変え、また、古墳の周濠になったと思われます。

 禊の時、川や海などの水で穢れを落とすというのは、こういった自然の水垣から生じたものであると思われます。

村上義隆墓所

2010年05月28日 02時34分36秒 | 歴史上人物の墓所
■村上義隆公募所■
(10th October 2007)



 奈良県吉野郡吉野町吉野山

・村上義隆公は、元弘三年(1333)閏二月一日、吉野城(現金峯山寺藏王堂)にて後醍醐天皇の皇子護良親王を逃がすために親王の鎧を着、鎌倉幕府軍の前に仁王立ちし、腹を切り絶命した勇士信濃源氏村上彦四郎義光公の嫡男に当たる。
 
・義隆公も共に死することを望むも、親王を守り逃がすように命じられ親王を守り戦い、ただ一人にて殿を務めそこで力尽きている。


((コメント))

2007年10月10日

 曲がりくねった細道を利用したとはいえ、ただ一人にて五百騎あまりを相手に半時間も踏みとどまった義隆公の姿に涙を流さぬものはいないであろう。

 皇統の正統であるべき南朝に尽くした勇士である。されど、殘された村上氏に対しての恩賞が薄く、その結果、のちに村上氏が足利尊氏方に付くのは後醍醐天皇の大失策といってよいだろう。彼らの功をその死に見合う評価していたらば、楠木正成や新田義貞のように最後まで忠を尽くすことになったであろうから。結局、跡を繼いだ義光の弟信貞は尊氏方、義光-義隆の系統の義武は南朝につき、後の村上水軍となったというのだから皮肉なものだ。

中言社

2010年05月28日 02時17分54秒 | 近畿(三重、和歌山)
■奥門■
(28th April 2009)



★中言社★ 和歌山県和歌山市吉原

・祭は名草彦、名草姫。

・『紀伊續風土記』によると、「籬を持っていた」という記録がある。

・当社は名草彦、名草姫の二を齋ひ祀る元の宮であり、所々に中言社と稱するものはすべて当社からの勧請である。

・吉原廣原両村の氏。

・当社より名草山頂への間に古代祭祀跡が殘るという。

・『紀伊國名所図絵』には、壮大な殿の絵が殘る。


■鳥居■
(28th April 2009)



■拜殿■
(28th April 2009)



■本殿■
(28th April 2009)



((コメント))

2009年4月28日

 名草の二を祀る元宮である吉原の中言社。車を停めるのも大変なくらいのところに鎭座していた。行ったとき、農家の方の作業中で境内は煙で大変だった。

 社は名草山を背後に鎭座。本来は、名草山が體山であろう。イメージ的には、冬野の名草社に似た感じであるが、それは位置的にも近いし、祀っているものが名草の山であろうから当然と思われるが、個人的には内原社のほうがこの中言社よりも心地よく感じるように思う。


伊達社

2010年05月28日 02時15分00秒 | 近畿(三重、和歌山)
■鳥居■
(28th April 2009)



★伊達社★ 和歌山県和歌山市園部1580

・延喜式内社、紀伊國名草郡、伊達社、名大。

・舊社格は郷社。

・祭は五十猛命、八井耳命。相殿に市杵島姫命。本來、伊達(イタチ、イタテ)一神。伊達を五十猛命と同一視している。

・志磨社、靜火社とともに「紀三所」とされるが、これは、祭をそれぞれ建速須佐之男命の子である五十猛命、大屋津比賣命、都麻津比賣命に見立てての名稱である。ただし、志磨社、靜火社に關しては疑問が殘るとされる。

・八井耳命は園部の氏とされており、園部氏がその後裔であると言っているが、当社に合祀された時期や事情は不明である。

・中世以来、五十猛命の父神素盞嗚命を合わせ祀り、祇園牛頭天王と稱していたという。

・織田信長の紀伊國侵入により社殿が破壊され、寶、文書の類がすべて紛失したため、社記は殘っていない。

・寛保年間(1741-1744)、和歌山城下小野町の吹上社が「当社こそが式内伊達社である」と主張し、和歌山藩がその主張を認めたために「伊達社」の社名は吹上社に移り、当社は鎭座地名から「薗部社」に改稱させられた。後にその主張は誤りであることが判明し、明治時代に「伊達社」に復した。

・伊達は船のとしての性質が強いが、これは、五十猛が紀州の山の、樹木のであり、その靈はそのまま、杣山の樹から伐り出した材木で作った船の守りになる、という思想によると考えられている。


■拜殿■
(28th April 2009)



■本殿■
(28th April 2009)



■木■
(28th April 2009)



((コメント))

2009年4月28日

 園部にある延喜式内名大社イタチ社。園部というと、社どころか、どうしても、「毒物カレー事件」「林眞須美死刑囚」が頭に浮かび上がってしまうのだが、そういう事件の起こった集落に伊達社は鎭座している。車を停めるところもない狭い路地の中にぽつんと社は鎭座していた。正直、名大社とはいうものの、個人的にはあまり感じるところはないような社であった。がいなくなったというか、殘り香を感じるか感じないか、というような感覚であった。