の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

物部守屋墓所

2014年08月17日 01時45分30秒 | 歴史上人物の墓所
■物部守屋墓所■
(18th Febrary 2009)



★物部守屋墓所★ 大阪府八尾市東太子2丁目

・佛をかけて、聖太子、蘇我馬子と戰い、敗死したとされる物部弓削大連守屋の墓所。

・玉垣には、大和一之宮大社、春日大社、河内一之宮枚岡社、泉殿宮、石見國一之宮物部社、樣樣な道府縣の社廰、北海道宮、片埜社、信濃國一之宮諏訪大社、尾張國一之宮眞田社、乃木社、龍田大社、東京大宮、宗像大社、恩智社、木曾御嶽社、多賀大社、太宰府天滿宮、熊野那智大社、富岡八幡宮、伏見稻荷大社、石水八幡宮、近江宮、北野天滿宮、四條畷社、山城國一之宮賀茂別雷、御祖兩社、もちろん石上宮など大阪府下の社だけでなく、全國の錚錚たるたる社の名が刻まれる。


■玉垣■
(30th June 2008)




((コメント))

2008年6月30日

 不氣味なことに、その目と鼻の先には下の太子と呼ばれる大聖勝軍寺まであるのに、ひっそりと建つ。說明板などは一切なく、ただ、ひっそりと建つ。それこそ、物部弓削大連守屋の墓所といわれているところであり、社(道)の象徴としての寄進が玉垣に竝ぶ名前なのだろう。

 聖太子と蘇我馬子に無念にも敗れ命を落とした物部の當時のボスとも言える大連であった守屋。彼の墓であれば、無論、史蹟として扱い、觀光のためにも說明などを書いた案内板を置いとけばいいものであるのに、聖太子にはばからねばならぬのであろうか?

 父は、昔この近辺の支所で仕事をしていたためにこの地に何か近寄りがたい不氣味というか、恐ろしいというか、威壓する氣を感じていたようであるが、私はまったく何も感じることもなく、むしろ吸い寄せられるように向かい合っている。物部守屋の名に關するさまざまな史蹟は不氣味な雰圍氣のところが多いのであるが、なぜか、私はそれでもいつも行かねばならぬ何かを感じ、山の中であろうと入っていき、向かい合って歸ってくるのである。父方の先祖をたどれば大伴連という說もある。もちろん、物部連とも血緣にあったこともあると思われる。それが理由であれば、父もそのように扱われねばならぬのであるが、どうも、どこに行っても、私だけが特別に扱われているようである。もしかして、物部守屋の生まれ變わり? と思ったりし始めている。

2009年2月18日

 大阪から八尾周邊まで步いていたときに、ルートにあったので再び立ち寄る。何も變わらず、ただ、二月なのに暑い日ざしを受けるのみ。

天野屋利兵衞墓所 / 天野屋利兵衛墓所

2014年07月28日 02時56分02秒 | 歴史上人物の墓所
■天野屋利兵衞墓■
(24th April 2009)



★天野屋利兵衞墓所★ 京都府京都市北区大将軍川端町2 地藏院境内

・赤穗藩お出入りの大坂商人と一般に傳えられる。

・義に厚く吉良邸討ち入りの支援をしたと傳わるが、赤穗とのつながりは確認されていない。

・『仮名手本忠臣藏』の天川屋儀兵衞のモデルで、元祿事件の際、赤穗浪士のため武具を調達し、のち自首して追放されたとされるが、證據はない。

・當時天野屋は岡山池田家、熊本細川家の御用を調達していたが、淺野家との經濟的な關係はないという。


((コメント))

2009年4月24日

 特に興味はなかったが、旅の通り道、石標に義商天野屋利兵衞墓があることが書かれていたので、少し立ち寄ることに。どちらかというと、赤穗事件の大石良雄たちが取った逆恨み的殺人事件には「義」というものは感じられないので、義商という言葉にも否定的である。

義民島田富重墓所 / 義民島田富重郎墓所

2014年07月28日 02時53分13秒 | 歴史上人物の墓所
■義民島田富重墓所■
(15th March 2012)
 


★義民島田富重墓所★  山梨県笛吹市石和町松本615

 笛吹市史蹟

・山梨郡松本村の名主。

・文久三年(1863)、長百姓となり信望を集めたが、明治五年(1872)、政府が布告した大小切稅法を巡り起きた騒動に際しその先頭に立ち、徒党强訴、暴動の科で絞首刑となった。

・明治二十二年(1889)、憲法發布記念大赦で罪を除かれ復權。


((コメント))

2012年3月15日

 各地にある、義民の墓所のひとつ。何處の地であろうとも、正しき訴えをしたとしても、身分差別のために死を賜るわけであるから、皮肉なものである。それが、江戶時代の姿なんだな。

細川忠興およびガラシャ墓所

2014年07月27日 05時00分39秒 | 歴史上人物の墓所
■細川忠興及びガラシャ墓所■
(24th April 2009)
 


★細川忠興及びガラシャ墓所★ 京都府京都市北区紫野大徳寺町73-1 臨濟宗大寺派本山大寺塔頭桐院境内

・細川忠興が生前愛好したというこの石燈籠を墓石としたという。

・鎌倉時代の作で、元元、千利休祕藏。

・「天下一」という稱をもつ燈籠であったが、豐臣秀吉と忠興の兩雄から請われたため、利休は故意に裏面の三分の一を欠き、壊れ物だと言い、秀吉の要望を退けたという。

・千利休切腹の際、利休は改めてこれを忠興に贈ったといわれる。


((コメント))

2009年4月24日

 今宮社に行く途中大寺の中を通っていると、桐院が公開しているとあり、愛する明智光秀の三女細川ガラシャの墓があるとのことで、立ち寄ることとした。ちなみに、尊敬する石田三成の墓のある寺院は公開しておらず殘念な限りである。

細川家墓所

2014年07月27日 04時51分18秒 | 歴史上人物の墓所
■細川家墓所■
(24th April 2009)



★細川家墓所★ 京都府京都市北区紫野大徳寺町73-1 臨濟宗大寺派本山大寺塔頭桐院境内

・正面に初代細川幽齋(藤孝)、右奧より三代忠利、四代光尚、八代重賢、九代治年、十二代齋護、左奧より五代綱利、六代宣紀、七代宗孝、十代齋樹、十一代齋茲の墓が立ち竝ぶ。


((コメント))

2009年4月24日

二代目忠興の墓所は別に分けられているようである。ここに竝んでいる墓所でわかるのは細川幽齋こと藤孝だけである。個人的には、文化人としての能力は認めるが、武將としては非常に嫌いな人である。明智光秀贔屓であるので、足利を捨て、明智を捨てた强きに流される、この男はむしろ憎むべき對象であったりする。