の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

鳥住春日社

2011年03月27日 17時02分38秒 | 近畿(奈良)
■本殿■
(25th January 2010)
 


★鳥住春日社★ 奈良県吉野郡黒滝村大字鳥住

・祭は武甕槌命、經津主命、天兒屋根命、比賣命。

・明和九年(1772)の創祀と傳えられる。

・宵宮祭には村人が集まり、大篝火を焚いて千本搗と呼ばれる獨特の餅つきが近年まで行われていたという。


■朱鳥居、拜殿■
(25th January 2010)
 


■本殿■
(25th January 2010)
 


■瑞垣内境内社■
(25th January 2010)

 

 八幡と宇迦御魂と思われるがどちらかは不明。


■山之■
(25th January 2010)
 


■社殿背後の木の杉■
(25th January 2010)

 

■橡の巨木群■
(25th January 2010)





■磐■
(25th January 2011)
 


((コメント))

2010年1月25日

 黒滝村の鳳閣寺に行くために林道終点までいったところ、駐車場のところに朱鳥居が建つのが見えたので立ち寄ることにした。春日社なので、余り期待はしていなかったのであるが、とりあえず、境内の写眞を撮り、社殿の背後の木木を撮影しようとすると、奥に見える太い橡の巨木が呼ぶので、枯葉の上を登っていってきた。数本竝んでいるところの最も山手に立つ橡の木に呼ばれたのだが、凍てつく中、この木だけが樹皮に熱を持っており、触れると黒鬼の想念が手を通じて、体内に流れ込んできた。さらに少し離れたところに、もっとも太い橡の巨木が立つのが見えたのでそちらにもいくと、今度は青鬼の想念が流れ込んできた。磐は少し、エネルギーを発していたがさほどでもない。社の創祀が近世なので磐座とかではないであろうが、橡の巨木、杉の巨木に囲まれ、いい感じではある。社自體はたいしたことはなかったが、木木はすごいところであった。黒滝にこんなところがあったのか、と思わざるを得なかった。

熊野那智大社

2011年03月21日 23時05分34秒 | 近畿(三重、和歌山)
■鳥居■
(6th October 2007)
 


★熊野那智大社★ 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山1

 世界遺産

・舊社格は官幣中社。

・第一殿(瀧宮)に大己貴命(本地千手觀音)、第二殿(證誠殿)に家津美御子大(國常立尊、本地阿彌陀如來)、第三殿(中御前)に御子速玉大(伊奘諾尊、本地藥師如來)、第四殿(西御前)に熊野夫須美大(伊奘冉尊、本地千手觀音)、第五殿(若宮)に天照大(本地十一面觀音)を祀る。

・第一殿は地主とされ、第二から四殿までが熊野三所權現と稱されて主祭の地位にある。第六殿は構成、祭、本地共に熊野速玉大社の中四社、下四社とほぼ同様である。

・隣接する西國第一番禮所青岸渡寺は明治維新前までは那智權現の如意輪觀音堂であり、佛分離で廃堂となったが、明治七年(1874)、天臺宗の寺として獨立した。

・『熊野權現金剛藏王寶殿造功日記』によれば「孝昭天皇のとき裸形上人が十二所權現を祀った」とし、『熊野略記』では「仁天皇御宇に始めて那智山御宮を建てた」とあり、『熊野年代記』には「仁天皇五年(317)に熊野權現が那智山大瀧に出現した」とあるが、傳説の域を出ない。

・創祀は、那智御瀧(那智の大瀧、一の瀧)の自然崇拜と考えるのが妥當と思われる。

・那智の一の瀧を遡り、木の葉流しの瀧と呼ばれる二の瀧には速玉之男尊が祀られ、花山法皇千日行御籠所跡がある。さらに遡り、馬頭の滝と呼ばれる三の瀧には熊野櫛御氣野命が祀られている。これら三つの瀧を合わせて「三重の瀧」という。

・那智御瀧(一の瀧)そのものを「飛瀧權現」と称し、地主大己貴命の御體とする。

・熊野那智大社は那智御瀧の眞南に当たり、『那智山宮曼荼羅』においては、大鳥居と三重塔を挟み六つの社殿が現在とほぼ同じ配置で描かれているが、一つ相違点がある。現在、第一殿から第五殿まで整然と横一列に竝んでいるのであるが、曼荼羅では、第一殿のみが後退した位置にあるのである。つまり、第一殿は、本來、大瀧の遙拜所であり、ゆえに「瀧宮」を稱し飛瀧權現と同樣に大己貴命を祀り、他の四殿と配置上別扱いをされているのである。

・本殿の配置が新宮、本宮とは左右逆である。

・大社の社殿が現在のような形で建てられた時代は不明であるが、修験道興隆により熊野三山が一體のものと意識された以後のことと考えられる。

・太古、那智のは大瀧そのもので、無社殿の飛瀧權現こそが熊野那智大社の根源と思われ、例大祭である扇祭りがそれを如實に物語ると考えられている。

・熊野三山のうち、唯一『延喜式』名帳にその名が記されていない。熊野牟須美が那智の主とされるが、『新抄格勅符抄』天平護二年(766)熊野速玉男(新宮の主)とともに熊野牟須美にそれぞれ封戸が四戸あてられている、という記述があるが、二柱とも新宮の熊野早玉社のことと考えられ、そもそも、西御前(那智)も新宮に所属していたとするような記録もある。

・基本的に、那智山の人的組織は本宮や新宮と同様に檢校、別當の支配下にあり、その成立は平安末期頃といわれるが、史料がなくその詳細は不明とされる。『紀伊續風土記』では、「那智山は禰宜主なく皆社僧なり、社僧に清僧あり妻帶あり、云云」とある。元元、禰宜主なく皆社僧であったのか、後になったのかは不明。元元、禰宜主がない状態であったらば、それが、『延喜式』名帳に記されていない理由かもしれない。

・天正九年(1581)、大名堀内氏善が那智山への支配を強化した事に反発した御師塩崎廊之坊が武力決起、逆に氏善が廊之坊を攻撃した。一方で那智山内の實方院は堀内氏に付き那智一山は二分され、廊之坊側が敗れると同年に一族東學坊などの跡職は實方院に與えられることになった。


■朱鳥居■
(13th March 2009)
 


■手水舎■
(6th October 2007)
 


■境内社多富氣王子社■
(6th October 2007)

(13th March 2009)
 


■參道石段■
(6th October 2007)

(13th March 2009) 



■拜殿■
(6th October 2007)
 
(13th March 2009)



■本殿■
(6th October 2007)
 
(13th March 2009)
 
 

 國重要文化財


■末社御縣彦社■
(6th October 2007)

(13th March 2009)


 國重要文化財


■末社八社殿、末社御縣彦社■
(13th March 2009)


 國重要文化財
  

■平重盛手植え樟■ 
(13th March 2009)



■青岸渡寺(舊那智權現如意輪觀音堂)■
(6th October 2007)
 


■三重塔と那智御瀧■
(6th October 2007)


 
((コメント))

2007年10月6日

 あまり好きな形状の社ではない。荘嚴さが傳わらない。

2009年3月13日

 雨天であり、足場も惡かったが、せっかく那智の瀧まで來、大社もまた世界遺産であることから訪問。特に、前回の訪問と変わりはない。ただ写眞は滿足といえるかもしれない。

千手寺鎭守

2011年03月05日 23時05分00秒 | 近畿(大阪、兵庫)
■鎭守■
(16th December 2008)]



★千手寺鎭守★ 大阪府東大阪市東石切町三丁目 千手寺境内

・祭は菅原道眞。中興の祖在原業平を配祀。


((コメント))

2008年12月16日

 千手寺の寺傳は史實でもないことを記しており、惟喬親王が乱を起こしたように書いており、その結果堂宇が燒けたことになっている。そういう傳記があるために、正直、この地には胡散臭いにおいもするが、中世に創建されたものであるのは確かなようである。惟喬親王の話と中興の祖に在原業平の名が見えることより、不遇の人生を送った在原業平と惟喬親王の友情に關係するところであったのかもしれない。その寺院の鎭守として、境内に立つが、寺院境内ということもあり、その建物はお堂のようになっており、おそらく、鎭守社というよりは、鎭守堂と呼ばれていると思われる。

坂合彦皇子墓

2011年03月05日 22時38分33秒 | 天皇陵、皇族墓所
■墳墓■
(25th January 2010)

 

★坂合彦皇子墓★ 奈良県吉野郡大淀町大字今木

・允恭天皇皇子。雄略天皇の同母兄。

・眉輪王が仇の安康天皇を殺害したとき、大泊皇子(のちの雄略)が、兄の八釣白彦皇子を疑いを押し付けて殺害し、さらにもう一人の兄である坂合彦皇子を責めたので、危険を感じた皇子は隙を見て逃げ出し、眉輪王とともに葛城円大臣の元に逃げたのだが、大泊はすでに平群臣、大伴連、物部連を味方に引き込んでいたために降伏するも皆、燒き殺されたという。さらに、大泊は自らが大王の地位につくために、市辺押磐皇子、御馬皇子をも騙して、即位するにいたる。

・『古事記』では坂合彦皇子は、葛城円をる前に殺害されたことになっている。


■墳墓■
(25th January 2010)



((コメント))

2010年1月25日

 ずっとここに墓があるのがあったのは知っていたのだが車を停めにくいところであったので行けずにいた。が、甲社より250メートルほどであるのがわかったので、ついでに走って立ち寄ってきた。何故この地に祀られているのかわからない。蘇我入鹿に關係のある甲社、葛城円大臣とともに死んだ坂合彦皇子、ともに、當時の政權担當者にすれば、敵であり、祀るわけには行かぬ人人であるのだ。ところで、實は蘇我稻目という人の出自はわからないとされている。その上の系図に出てくる人名は不自然なものが竝んでいるからである。蘇我は實は本貫が河内の石川という話もあるのだが、葛城氏が出身という考えもあり、興味深くも謎である。この皇子は、實在したのだろうか。別の名前を出すわけにはいかなかった人ではないのであろうか、と思ったりもする。蘇我入鹿のように思えてならない。

大倉姫社

2011年03月05日 22時32分47秒 | 近畿(奈良)
■本殿■
(25th January 2010)



★大倉姫社★ 奈良県御所市大字戸毛1610

・延喜式内社、大和國葛上郡、大倉比賣社、論社。

・祭は大倉比賣命。一説に下照比賣命の別名とも言うが不明。

・名帳に一名「雲櫛宮」と注があり、「うんぐし」が訛り、「うぐいす」の宮とも呼ばれたという。

・延喜式内大社巨勢山口社の若宮ともいう。


■一の鳥居、社號標■
(25th January 2010)
 


■二の鳥居■
(25th January 2010)



((コメント))

2010年1月25日

 國道309号線沿いに鎭座する大倉姫社。近くを通りながらもいったことのない吉野口駅近くに鎭座の同名社もあるのであるが、この二社が式内社の論社のようである。この大倉姫社は、吉野口駅すぐにある大倉姫社の分祀という説もあるのだが、それはわからない。古代より、二社とも鎭座地を動いていないのであれば、當社が式内社と思うが、どうともいえない。吉野口駅の近くのほうは巨勢寺の鎭守社などではなかったのだろうか、と思ったりする。社自體は特に何も感じない。山の香りだけか。