の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

滿留山社 / 満留山神社

2015年10月20日 06時54分35秒 | 近畿(三重、和歌山)
■鳥居■
(13th October 2008)



★滿留山社★ 三重県鳥羽市安楽島

・安樂島の氏。

・祭創建由等不明。


■拜殿■
(13th October 2008)



■本殿■
(13th October 2008)



((コメント))

2008年10月13日

 せっかくなので、伊射波社のついでに、この地の氏でもある滿留山社にも行った。詳しくは不明である。

產田社 / 産田神社

2015年02月19日 20時04分45秒 | 近畿(三重、和歌山)
■鳥居脇の木■
(9th April 2009)

 

★產田社★ 三重県熊野市有馬町814

・舊社格は社。

・祭は伊奘諾尊、伊弉册尊、軻遇突智命。天照皇大、大山祇命、木萃開邪姬命、武天皇を配祀。本來の祭は伊弉册尊、軻遇突智命の二柱である。

・明治四十年(1907)、山崎社(祭天照皇大)、仲森社(天照皇大)、池川社(祭大山祇命、武天皇)、淺社(祭木萃開邪姬命)、湊社(祭木萃開邪姬命)、有馬社(祭武天皇)を合祀。

・天正の兵火で古記錄寶物等燒失のため由等不詳。

・地元に傳わる口傳には「崇天皇の夢見により、ここにお祭りされていた樣を熊野川、音無川、岩田川の合流點にある中洲に遷したのが、熊野本宮大社の始まり」といい、實際に、江戸時代までは、產田社と熊野本宮大社では、同じ巫女舞が傳承されていた。現在も熊野本宮大社の例大祭の巫女舞において「有馬の」の下りがあるという。しかし、產田社の大和朝廷への服屬は平安時代頃と言われ、崇天皇の傳承に關しては、平和裏に行われたとは思われず、違う形であったことが推測される。實際、知られているにも關わらず『延喜式』名帳に記されていないことから、『延喜式』が編纂された頃にはまだ、完全に大和朝廷に服屬していなかったと思われる。

・社殿付近の地下約五十糎ほどには白石を敷きつめた一畫が殘り、その邊りから太古の祭祀土器なども出土しているといわれ、日本最古の社の一つと考えられる。

・明治の頃まで、地元の人人は產田社を氏社とし、花乃岩屋は伊弉册尊の陵としてお祀りしており、その祭祀は產田社が行った。

・境内一圓は暖地性植物羣落をなし、スギ、クスノキ、ナギ、スダジイ、アラカシなどの大木が生い茂る。

・『紀伊續風土記』によると、奧有馬、口有馬、山崎三カ村の產土といい、里人の傳によると「伊弉册尊がこの地で軻遇突智命を產んだ」ので產田と名付けたということである。

・上古は榎本氏が代代、官として社領の地を治めていたが、中世以降別に官を置いて事をさせたようである。

・應永年(1394-1427)、有馬莊司榎本和泉守忠(戒名忠永)の時、御濱町阿田和より今の尾鷲市まで支配し、產田社の勢力は最盛期を迎えるがおそらくはその二代後と思われる和泉守忠親は子に惠まれず、甥忠吉に蹟を繼がせた後、男子あり、實子孫三郎に蹟を繼がせるため、忠吉を自害させ、それに怒る忠吉親族により攻められ、自らも自害となる。結局、その蹟を繼いだ孫三、若くして亡くなり、產田の威を欲し、何度も攻めるも擊退されていた熊野新宮別當職堀内氏虎がこの機に養子を送り込むことにより、有馬榎本氏斷絶となる。時に、十六世紀中頃であった。

・堀内時代、田地五町步があったが、淺野氏入府に際し、全て沒收。

・文九年(1669)九月、限界御定書とともに「殺生禁札」が和歌山藩より下付され、享保十七年(1732)には藩主より燈籠の寄進あり。

・長承元年(1132)三月には崇天皇が根來氏を供して行幸に來るなど、上古より貴人の參詣があったという。ちなみに崇天皇に關しては、熊野詣は上皇となってから康治二年(1143)に一度參っただけであり、產田社へは別に參詣されたと思われる。

・一月十五日に例祭があり、御弓奉納の事がある。禱屋は奧有馬から四軒、口有馬から三軒が選ばれ、一年交代の順番制となっているらしいが、祭の一週ほど前に各戶から米を一升ずつ集め祭禮費用に當てるという。

・奧有馬と口有馬から弓射人と矢取りが各一名ずつ選ばれ、九日の宵から產田川で水垢離をとり、花乃岩屋の前の濱にて鹽垢離をとり、境内の御仮宮に一晩中籠り、祭禮當日官、禱人、區の祭禮役員により式典が終わった後、御仮宮から弓射人と矢取りが出て、產田川にて水垢離をとり、弓射を行う。終わると拜殿で直會となるが、このとき「ホウハン」という白味噌の汁かけご飯をいただくという。

・昭和三十四年(1959)の伊勢灣臺風のとき、境内の杉の大樹が根返りし、その下より彌生中期の土器片が出土した。

・付近の津の森遺蹟からは、獨特の器形をもつ彌生後期の甕や土師器が多量に出土している。

・元元、社殿はなく、籬にて、祭祀が執り行われていた。

・さんま壽司發祥の地ともいう。

・伊奘諾尊が海に釣りに行っている時にハマユウの葉で包み込んだものが流れ着き、そこに入っていた籾を蒔いたのが稻作の始まりで、それがこの地であるという傳承もあるという。

・伊勢の内宮の鰹木が十本、外宮が九本、そしてここの鰹木が八本になるように作られているという。


■木■
(9th March 2013)
 


■鳥居と木■
(2nd July 2008)

(13th March 2009)

(9th April 2009)


(1st January 2012)
 


■參道■
(1st March 2009)
 
(13th March 2009)

(9th April 2009)
  
(1st January 2012)



■境内■
(9th March 2013)
 


■手水舎■
(15th March 2008)

(9th March 2013)
 


■拜殿■
(15th arch 2008)
 
(1st January 2012)



■本殿■
(15th March 2008)

 
 
(13th March 2009)
 
(9th April 2009)


(20th March 2010)

 
(1st January 2012)
 
(9th March 2013)



 


■籬蹟■
(1st March 2009)

 

 熊野市史蹟

・太古、社殿を持たなかった產田社の祭祀はこの籬を通じて行われていたという。
・案内板などには、古代から殘る籬の遺蹟であるように書いているが、もしそうであれば、國の史蹟になっているであろうと思われるし、實際、今の位置に社殿があったとは思われず、この籬は、現社殿に遷宮となった昭和四年(1929)一月(狛犬に「昭和四年一月遷宮記念」とある)にあわせて、作られたもの、もしくは、有馬、堀内が斷絕した後に作られたものではないか、と考える。


■社叢■
(9th April 2009)
 
 
(16th April 2010)


(9th March 2013)
 
 

 熊野市天然記念物


■本殿背後の木■
(1st March 2009)

(9th April 2009)

 
 

■產田川の禊所近くの二本杉■
(15th March 2008)



■舊社殿蹟への參道■
(9th April 2009)

 


■舊社殿蹟■
(9th March 2013)
 
 

■末社稻荷社■
(15th March 2008)

(1st March 2009)

(20th March 2010)
 
(1st January 2012)
 


 
(9th March 2013)


 


■稻荷社後方の木■
(9th April 2009)


(9th March 2013)
 


■宮杉■
(9th March 2013)
 


■產田川■
(14th September 2008)

(1st March 2009)
 


■櫻■
(9th April 2009)



■大丹倉■ 三重県熊野市赤倉
(1st March 2009)
 


((コメント))
2007年10月8日

 人がいなく、靜かであることだ。前日からの雨のおかげで苔が生き生きとしており、血を引きし者がやってくるのを社が待っていたようにさえ思える。

 どうも、不出來な子孫をお待ちくださりありがとうございます。

 空を見上げながら合掌して手を擧げたら急に太陽が雲のから姿を見せた。しばらくそうしており、また、腕を下ろすとすぐに雲の中に消えていった。血を引きし御子の参拜を喜んでくださったかね。

2008年3月15日

 二度目の訪問。この日は、鬼ヶ城本城蹟にいきたいのでやってきた。その前に、前回よりもさらに細かく邊りを散策し、產田川なども見て周った。靈能者の相方に言わせると、西北西に近い方向に何か強い氣を感じ、元元はそちらを拜していたのではないか、と話をした。

2008年7月2日

 この日は、自分の先祖と思われる南北朝から室町時代にかけて產田社當主有馬莊司榎本和泉守忠永の一族名代で尾鷲の賀田城城主であった榎本三右衞門興行(世では具行と言われているが)の本家の義さんに會いに行く前に立ち寄った。

2008年9月14日

 兩親と旅行ついでに、父の先祖に所緣のある產田に連れてきたが、あまり感動はないようであった。大體、想像はついていたが、自分の考えなどで價値を見出せる人ではなく、物事の評価は、世の風評や評価に强く影響を受けている人であるので、有名で世界遺產でもある熊野本宮大社や熊野速玉大社、この後に行った花乃窟社のほうがよかったように彼の步く後姿から感じられた。失望である。

2009年3月1日

 熊野には、鬼傳說がある。遠き昔、坂上田村麻呂將軍が鬼ヶ城の鬼討伐に來たという話がある。實際は、そこを根城にした海賊多我丸とその徒黨が熊野一帶を荒らしたため、討伐をした、ということであるが。

 熊野の赤倉という山の中には、大丹倉と呼ばれるところがある。「オニグラ」と讀むのであるが、巨大な磐が山肌に露わになっているところで、他にも、磐座らしきものが多多殘るところである。この地は、武東征で誅されたという和歌山の名草戸畔と同じく、巫女的な女王であった熊野の丹敷戸畔の一族末裔が住んでいるとされる邊境の地である。そして、私は、大丹倉については、元は「鬼倉」ではなかったか、と考えるわけである。

 さらに、どこで情報を得た話かは忘れたのだが、產田社が大和朝廷に服屬したのが平安時代になってからである、ということであり、實際、產田社官として有馬榎本の名が史書に出てくるのは十一世紀頃のことのようである。

 鬼ヶ城と大丹倉の「オニ」、そして、平安時代に入ってからの產田社の大和朝廷への服屬などを考えるとき、いくつかの物語を思い浮かべてしまうのである。有名な秦の始皇帝や徐たちは實は漢民族ではなく、ペルシアからの移住の民という說がある。實際、中國の約二千二百年前と思われる墳墓より白人の骨が出てきたことは知られた話である。彼の治世にも、アケメネス朝ペルシアに近いものが多いとされている。日本の海岸沿いに多い徐傳說、もちろん熊野にもあり、新宮や產田社、尾鷲までの海岸沿いにもあり、子孫が住んだとされている。實は、元を辿ると、始皇帝の先は、エジプトを脫走したモーゼとその使徒たちとも言われ、ペルシアとも繋がるので、大いにありえる話だと思われるのだ。さらに古代、大和周邊にいたとされる先住民は「土蜘蛛」と蔑稱されたが、その實、手足などが非常に長いという身體的特徴によるものとされている。また、武天皇と戰ったとされる長髓彥も同樣であろう。さらに、長髓彥による社といわれる大和國一之宮大社は、磐座信仰であり、ユダヤ的な要素も少なくないという。和歌山、海南周邊には名草戸畔所緣のものがいくつか殘るというが、やはり、磐座信仰の古代祭祀蹟が殘るという。熊野周邊もその名殘多く、花乃岩屋なども他聞に漏れない。おそらく、丹敷戸畔もまた、同樣であったであろうと思われるのである。さらに、大和、紀伊兩國には、眞の出雲があり、古代イズモ族が榮えていたと考えられ、名草戸畔や丹敷戸畔も、古代イズモ族であったか、同じ系統の民であった可能性は非常にいと思われる。武東征、大和朝廷樹立という中で、戰い、敗れて行ったイズモ族が實は、島根に逃げ、我我の知る出雲國にあるとされる出雲王朝のようなものを作ったというのが、おそらくは、本當のところであろう。少し、話がそれたが、土蜘蛛や長髓彥を思うとき、その身體的な特徴から、白人やエジプトの民というものは容易に思い浮かぶのである。さらに、昭和の頃は邊境の地とされた山部や漁村に住む人たちの見た目はどうであったろうか?彫が深く、鼻がく、美男美女が多いとよく言ったものである。だが、今となって思えば、他との血の交わりが少ないために、よくその先祖の姿を遺傳的に傳えている可能性が强いわけであり、そう思うときに、ユダヤ系の白人というところに繋がるわけである。

 これらを踏まえて考えると、今の日本人の先祖となる黃色人種にとり、「鬼」と呼ばれたものたちは、自分たちとは姿の異なる手足の長い、目の色が違う、髪の毛が違う、肌の色が異なる者たちであったのではないか、と考えるわけである。つまり、邊境の地に追いやられていった民たちは元元、この日本に平和に住んでいた、いわゆる先住民といわれるものたちであり、その、容貌が異なるために「鬼」といわれ、徐徐に滅ぼされたり、邊境の地に追いやられたり、奴隷にされていったのではないか、と考えるのである。そして、坂上田村麻呂の熊野での鬼退治は、實際、彼の手で行われたかどうかは別として、平安時代、桓武天皇以降に行われた討伐、もしくは、大和朝廷の侵畧戰爭のことではなかったのか、と思うのである。そして、そのことを鬼ヶ城や大丹倉に結び付けて考えるのである。そう考えると、產田社と花乃岩屋もそこに含まれていた可能性がいと。この邊りに、產田社に關する秘密があるのではないか、と思うのだ。

 これらを思うとき、現在は社殿が南向きに建てられているのでわからないが、太古、社殿がなく、籬をもって祭祀していたとき、その先にあったのは、大丹倉であったのではないか、と推測したのである。靈感と呼ばれるものを信じないもの、持たぬものには永遠にわからない話であろうが、いわゆる靈感のあるもの、の氣を感じるものは、產田社を熊野三山よりもはるかに貴く、そして凛然とした氣を持つというのであるが、また、その氣を感じる方向は社殿の向いている方向ではなく、西の方向であるのだが、實は、その先にあるものが大丹倉なのである。



 一應、大雑把な圖がこれになる。大雑把に、花乃岩屋と產田社の線の先に玉置山があり、産田社の氣の方向には、大丹倉があるのである。いつか、時と經濟に餘裕が出來たときに、氣のすむまで、この邊は追求し、調査、研究したい事項である。

 ところで、產田社が平安期まで服屬していなかったとするならば、何故、それよりも古い時代に書かれた日本書紀において、アマテラスの親である伊弉册尊の死んだ地と墓が產田社や花乃岩屋とされたのか、という疑問であるが、これは、大和朝廷にこの地域を服屬させる融和政策の一つであった可能性もあるのではないか、と思うのだ。また、熊野と伊勢の複雑な關係が影響しているのかもしれない。皇大宮の本殿の鰹木が十、豐受大宮が九、そこに、産田社のものが八として、建てられているというところにもなんらかの因果關係が有る可能性はある。ちなみに、融和政策と仮定した場合、伊弉册尊の墓として祀っているのは、おそらくはこの地の首長、おそらく女性ではなかろうか、と思うのである。丹敷戸畔の墓と呼ばれるものが串本の袋港東側の山上の森にあるとされているが、實際のところ、花乃岩屋がそうなのではないか、と疑っているのである。自分の中では、そのように丹敷戸畔、大丹倉、鬼ヶ城、產田社、花乃岩屋を關連付けているのである。あくまで、可能性と推測を紡いだ憶測であるが。

 ところで、末社の稻荷社に社殿が新築されていた。

2009年3月13日

 雨であったので短めに切り上げたが、社叢の裏なども見て周った。

2009年4月9日

 熊野周邊に來たときは必ず立ち寄るようにしている先祖の守ってきた神社。何度目になるだろうか・・・ 最近は年に數囘來るようになっているのでわからなくなってきた。一度、正月に來たいものだ。

2010年3月20日

 およそ、十一ヶ月ぶりの產田社である。行くと親子なのだろうか、二十歳前後の女性とその母親らしき人が参拜に來ておられた。奈良ナンバーだったので、私と同じように奈良から来たのだろう。花乃窟社で話していた老齡の男性と、一に話していたおばさんの一人は、花の岩屋に來る人には、產田社にも参拜するように言っていると話されていたので、その結果なのかもしれない。
 
 今回は、末社の稻荷社に手水舎も加えられていた。來るたびに少しずつ變わっていくようである。ところで、花乃窟で說明していた男性と話をしていたが、實は彼もこの稻荷に關しては「絕對に稻荷社とは思えない」と話されており、位置的にも、罔象女ではないのかな、と二人で話していた。ちなみに、ここで育ったおばさんの話によると、昔は稻荷の社殿もあって、祭りもにぎやかにしていたらしい。でも、稻荷といわれて育ったので、疑ったことはなかった、と話されていた。そのおばさんは、境内を掃とかしてくれているのだが、實は最近、ヒノキがなくなったので、ということで社殿の奧の社叢のほうに入って行ったそうだが、本殿の眞後ろに当たるところに大きな穴があってびっくりした、ということを言われていた。現在は竹が生えている箇所であるが、地面が緩い所であり、どうも水路蹟のようなものも見えるので個人的にはそこに池か沼があったのではないか、と思わざるをえないのである。何せ、戰亂で記錄が全燒ということで何も殘っておらず、すべてが謎なのだが、どうも、產田は特に、熊野水軍ので、產田川があり、その上に登ると產田社の關連といわれる眞名井戸と呼ばれる巨石があり、おそらく水を祀ると思われる。そして、水は命の源でもあり、產田の名にふさわしい。そう思うと、なぜか、境内に水があったように思うのである。また、產田というと、熊野本宮大社と關係があるが、熊野川の中洲に圍まれた自然の淨めの瑞垣を持っていたところである。水にまつわるところなのである。少し、探求の餘地があるところのように思われる。

2012年1月1日

 平成十九年、平成二十一年、平成二十二年の大晦日付近に降った大雪で熊野への山越えを斷念していたのであるが、ついに念願の熊野へ!まずは、我が家の祖である產田社である。駐車場に車を停め、カメラの用意をしているとカウントダウンの花火が打ち上げられた。その後、境内へと入る。懐かしい空である。ただ、社殿の兩脇の籬の前に玉垣が作られており、本來の姿から離れていく方向にあり、殘念極まりなく、寂しいものである。ちなみに、火の軻遇突智がひとり、それがしの訪問を待っていたようであった。ところで、拜殿前では異樣に甘いぜんざいを振舞ってくださっていた。

2013年3月9日

 しばらく行っていなかった祖への御參り。軻遇突智宿りし、魂ゆえに同體となる靈と言葉を交わし、立ち去る。餞別は特徴のない劔一振。それが軻遇突智靈の渡したるものである。心配はしておらぬ、ということか。

花乃窟社 / 花乃窟神社

2014年11月08日 05時48分40秒 | 近畿(三重、和歌山)
■花の岩屋■
(14th September 2008)



★花乃窟社★ 三重県熊野市有馬町上地130

 國史蹟、世界遺產(熊野參詣道)

・祭は伊弉册尊、軻遇突智尊。

・明治時代に社の位格を與えられたが、元元、明治期までは地元の人人は、產田社を氏、花乃岩屋を陵として祀っていた。地元の人の話によると、明治政府が佛分離を示すのに利用され社とされたということである。

・社號標には「日本最古花の窟社」とあるが、社となったのは明治期であり、正しくなく、むしろ、陵である。

・『日本書紀』に、伊弉册尊は軻遇突智尊(火の)の出產時に隂部を燒かれて死に、「紀伊國熊野の有馬村」に埋葬され、以來、近鄰の住人たちは、季節の花を供えて伊弉册尊を祀ったと記されているが、その葬地とされる。

・花乃窟の名稱は「花を供えて祀った岩屋」ということによるものであるという。

・花乃窟と呼ばれるさ七十メートルの巨岩壁に伊弉册尊の靈が宿るとする。

・王子乃窟(聖乃窟)と呼ばれるさ十二メートルの巨岩には軻遇突智命の靈が宿るとされる。

・一說には、產田社が伊弉册尊の墓所、花乃窟が軻遇突智命の墓所とも傳えられる。

・「お綱かけ事」が行われることで知られるが、土地の口碑によると、この祭禮には毎年朝廷から錦の幡が贈られていたが、あるとき、運ぶ途中、舟が熊野川の洪水によって破れて流され、そのため祭日にに合わず、繩で幡の形を作り、その後は錦の幡の下賜も絕え、繩の幡に代えられるようになったというが、眞僞のほど、いつの時代の頃の話なのかは不明。

・花乃窟は巨大な隂石に見立てられており、新宮市倉社のゴトビキ岩が陽石に見立てられ、對をなすとされている。

・那智の補陀落山寺を中心に水葬の習俗があったことが傳えられており、五來重氏は、那智沖の綱切島まで使者を運び、そこで水葬する風習があったのではないかと言われている。さらに、尾畑喜一氏は紀伊國田邊の蹟の浦に「人捨場」と呼ばれる海岸があったことを報告されている。このような水葬の習俗を考えたとき、常世と國土との架け橋を示すのがお綱かけ事となっていると考えることも出來る。

・『熊野市史』には、地元研究者の說として、古代人が太陽を迎えた場所ではないかとする說、死者の魂が甦る依り代であるという說、岩の窪みが女隂系であることから地母に見立てて信仰されていたという說を載せている。

・地元の人の話では、韓國の統一會はこの地を、彼らの始まりの地として崇拜しているという。

・花の岩屋の「ハナ」の語源に關しては說ある。ひとつは、伊弉册陵に古代より、花を供えて、お祭りしてきたためであるという說、岩屋の上のほうに目や鼻のような窪みや出っ張りがあるのだが、そこの鼻から取られたという說、數字の一をハングルでは「ハナ」といい、朝鮮民族がこの地に渡來したことに始まり、その最初の意味で「ハナ」といったという說など、いろいろある。

・鳥居の近くは、以前は川であったという。


■鳥居、社號標■
(9th April 2009)
 
(20th March 2010)
 
(1st January 2012)
 


■參道■
(13th March 2009)

(1st January 2012)

 
 
 

■手水舍近くの木■
(20th March 2010)
 


■手水舍■
(9th April 2009)
 


■石「受けの」■
(20th March 2010)

(1st January 2012)
 

・祭は豐受大。
・花の岩屋の「女隂」に対する男の性のシンボルのひとつである睾丸と見たてている。


■花の岩屋■
(13th March 2009)
 
(9th April 2009)

 
(1st January 2012)
 
 


■本來の體(拜所)■
(20th March 2010)

 
(1st January 2012)



・花の岩屋が明治時代に社となる以前に、拜まれていたところ。
・割れ目が磐の上のほうまで續き、女隂の象徴として祀られていた。
・社となったとき、體が女隂であると、あまりにも生生しいということで現在の形となったという。
・參道のほぼ正面にある。


■王子乃窟(聖乃窟)■
(14th September 2008)

(9th April 2009)
 
(20th March 2010)
 
(1st January 2012)

 


■「花の岩屋」石碑■
(9th April 2009)
 
(20th March 2010)


・享保八年(1723)、紀伊川家六代目藩主川宗直奉納。
・この石は、樟の化石であり、熊本縣產。阿蘇山の噴火の結果できた化石という。經緯としては、產田社棟梁であった有馬產田氏に堀内家から入婿し、後を强引に繼いだとされる堀内氏善が、新宮別當職を繼ぎ、後に關が原合戰にて、西軍に屬したため、所領沒收の上、熊本に流されることになったのであるが、紀州藩初代藩主川宣の正室瑤林院が肥後熊本藩主加藤正の娘であった事から、この立石を取り寄せることになったという。しかし、熊本藩加藤家の改易などいろいろな經緯があったことから、この立石が和歌山に屆けられるのには何十年もかかったという。


■浦島草■
(20th March 2010)


・花の先から出る蔓が、浦島太が釣りをしている姿に見えるということでこの名がついたという。


((コメント))

2008年9月14日

 花乃窟は、一應、『日本書紀』で言うところの伊弉册と軻遇突智の墓ということになっている。入り口には大層に「日本最古花の窟社」と銘された社號標を立てているが、實際、『延喜式』名帳にその名はなく、古代よりその名は知られていたにも關わらず、社として考えられていたとは思われない。また、本來、その社としての格としては、『延喜式』名帳に記されてしかるべき產田社も記されていないことから、『延喜式』が編纂された時代には、この地は大和朝廷に完全に支配されていなかった可能性が非常にい。ま、いずれにせよ、明治時代になり、明治政府が餘計なことをするまでは、この地は墓と見做されていたことだけは事實である。社などを周ると、明治政府が宗に色々な餘計なことをしているのに出會うが、壬申戸籍を作ったという汚點のような政策もあるし、信仰や傳統文化もかなり破壊したように感じる。個人的には、明治維新政府が嫌いで、實際、「維新」ではなく、政治主權の乘っ取りと考えているので憎惡の對象である。

2009年3月13日

 世界遺產の一部であることからポーランド人の友人を案内。社號標に「日本最古」と書かれていることを話し、實はそうではないことを說明してあげたりしたのだが、なかなか興味深い話であったらしい。しかし、こういう社號標を作ると眞に受ける馬鹿が多いから、怖いものだ。

2009年4月9日

 產田社の次は時があったので、花乃窟にも立ち寄った。軻遇突智のモデルになったであろう人と自分に何らかの緣を感じるので、再び行ってみたのである。ま、答えなんぞは、永遠にわからないものなのだが。

2010年3月20日

 朝、少し遅めに奈良を出立。目的は產田社にカナダより歸國後の最初の挨拶である。熊野市に入って、花乃窟へ行くべきかどうか、と惱んでいたのだが、せっかくなので立ち寄ってきたのだが、そのおかげで新たな情報を得ることができた。

 寫眞を撮って、境内に入り、拜殿をくぐると老齡の男性が手招きをするので、最初は、まあ、知っていることばかり聞かされるのか、と思っていたのだが、いくつか、私が言葉を言ったところで、ちょっと詳しいと思ってくれたのか、普通の案内ではあまり話をしないことを話し始めてくれた。その中で、元元、花の岩屋という大きな磐を拜む場所が現在のところとは異なるということをえていただくことになった。それは、現在の拜所殻數メートルほど離れたところにある縦に長く走る割れたような線のところであった。そして、知っている地元の人なのか、そこにもいくつか、白い石を置いて、お參りしている人がいることが見てとれた。

 ところで、丹敷戸畔の話も出てきたのだが、「ニシキ」という言葉が殘るところは、最終的に北海道に行ったアイヌ民族が住んでいたところとされているようで、この近邊もそうではなかったか、という說もあるとのことであった。そういう面では、この花の岩屋は、私の思ったことと同じく、丹敷戸畔を祀ると考えることもできる、ということであった。そう考えると、アイヌもエミシも同系ということになるのか。

 この後、しばらく茶屋の前で地元のおばちゃんたちとも話すことになったのだが、やはり、地元の人としては、花乃窟ではなく、產田社にもっと人に參って欲しい、といい、それをどうにかしたい、といわれていた。產田社は謎が多く、戰火で文書が消失しているために、何もわからないというべき狀態のため、地元の人としては、打つ手がなかなか思い浮かばないのかもしれない。ただ、實は、ちょっと、產田社の御體を追及したい私としては、いろいろと訊ねてみると產田川を登ったところにある池川集落のほうにマナイタ石というところがあるとえてくださった。ここが、奧宮ではないのだろうか、と思わざるを得ない。マナイタは眞名井戸と書くので、明らかに水である龍を守っていると考えて差し支えはなく、產田川のといっても良いであろう。

 實は、產田社の次に大馬社へも行こうと思っていたのでそこの話も尋ねると、いろいろとえてくれた。一般には坂上田村麻呂の鬼退治後に、鎭座と思われているが、實はそれ以前より、齋と忌の氏族により祀られており、大麻社といったらしい、と聞いた。齋と忌はすなわち、忌部氏(齋部氏)である。忌部も海人族であり、阿波、安房だけでなく、紀伊半島でもそれなりの勢力を持っていたのである。大麻社という名前からは、阿波國一之宮大麻比古社に繫がり、なるほど、忌部に繋がるのである。ちなみに、この近くには、熊野市井戸町というところがあるが、これは合倂による地名だそうで、井土(イツチ)と戸の合倂で生まれた地名であるそうだが、このイツチというのは、齋(いつき)の住す地という意味だ、ということで、こういうことを考えると、丹敷戸畔で語られるこの地域の先住民は、イズモ族、土蜘蛛族、アイヌ族、海人族などいろいろな民族が共存していたことが、容易に推測され、そこに武東征の名で入ってきたものたちが、共存という思想を持たない獨裁思想の人たちであったことが推測されるというものである。これは後に、中臣鎌足に始まる藤原氏のようであり、彼らは、一切、他族を殿上に入れようとしなかった一族であることから、その民族の性格が見てとれる。想像するよりも凄慘な大戰爭だったに違いない。

 ところで、エビスの話も出てきて、蛭子と戎の違いを話し、西宮社と美保社が各各の總本宮だということをおばちゃんたちにえてあげた。ちなみに、戎は「エビス」すなわち「夷」なのである。よそ者という意味だが、美保社は出雲大社と對で考えられることから、やはり、イズモ族のことではないのだろうか、と思わざるを得ない。

 結局、予定より長話をして立ち去ることになり、内社と烏止野社は諦めることになった。

2012年1月1日

 產田社の次に參拜。產田社に向かう途上、花乃窟のを通ったときは、駐車場にも車が停められないくらいであったが、少し、時を外すと少し空いてきており、ゆっくりと參ることが出來た。境内參道を步いている時に、うどんを振舞われていたのであるが、參拜前に配るのはあまりよろしくないとおもうので、少し考えられたほうがよいと思う。心意氣はいいのだが・・・

 しかし、九月の臺風のダメージが强く殘っており、三月の訪問時に案内に來てくれた老人やまないた樣についての情報を下さった、產田社の掃除をして下さっていたというおばさんたちと話をした茶屋や鳥居前の駐車場がごっそりと無くなっている事には、正直、衝擊を受けた。

乳峯社 / 乳峯神社

2014年09月14日 01時54分21秒 | 近畿(三重、和歌山)
■鳥居■
(13th October 2008)


★乳峯社★ 三重県松阪市飯高町七日市560-2

・創建由等不明。


■拜殿■
(13th October 2008)



■幣殿、本殿■
(13th October 2008)



((コメント))

2008年10月13日

 志摩から度會、東吉野を通りかえる途中に發見し、立ち寄った。

 ナビで歸ろうとしたのだが、地名が出てこない・・・ あきらめて、地圖を見て、行くことに。走ってる途中で氣付いた。松阪市になっていることに。馬鹿元總理大臣、厚顏無恥男の小泉純一のおかげで地名までわかりにくくなっていたのだ。

 ま、そういう愚痴はおいといて、飯町に入り、國道沿いを走っているときふと右を見ると鳥居が見えたので行ってみると、乳峯社という所であった。まあ、時が有り餘っていたので行ったが、そうでなかったら、普通に通り過ぎてる感じの社である。

 特別に感想があるほどの氣などはなかった。

朝貴社 / 朝貴神社

2014年08月16日 23時12分11秒 | 近畿(三重、和歌山)
■本殿■
(9th March 2009)



★朝貴社★ 和歌山県東牟婁郡串本町出雲58

・舊社格は村社。

・祭は大己貴命。天照大、火火出見尊、火產靈、蛭子命、熊野夫須美、速玉男、家津御子を配祀。明治4辛未年(1871)七月の江田組戸籍人口諸役給料社寺等明細表によると、「出雲浦、朝貴明社、祭素盞男命」と記されているという。

・社傳によると、長祿二年(1458)、大職冠藤原鎌足嫡子伊美麿から二十五代の裔祇大副卜部兼倶が熊野參詣のとき、この出雲浦で出雲國の清地大社(今の須我社、祭は素盞嗚尊)の靈を夢に見て、出雲浦にその靈を勸請し、創建という。

・『紀伊續風土記』は「伊勢大宮の攝社礒邊のを祀るという」という考えをとっている。

・江戶時代には、淺木明社と稱された。


■鳥居■
(9th March 2009)
 


■本殿■
(9th March 2009)
 


■社殿背後の磐■
(9th March 2009)



■社殿蹟■
(9th March 2009)
 

・境内社若宮社であるのかどうかは不明。 


■朝貴社境内地の濱からの姿■
(9th March 2009)
 
 


■鄰接する磐と窟■
(9th March 2009)
 


■海邊の眺め■
(9th March 2009)


 


((コメント))

2009年3月9日

 潮岬の出雲が氣になっていたので、社を調べて訪問。朝貴社という。社傳にいう鎌足の息子という人は、息子ではなく、猶子である。確か、鎌足の從兄弟の子息であったように思う。しかし、鎌足に關しては、實際に、中臣氏であるかどうかが疑問であるために、本來、伊美麿が本流であり、猶子にすることで鎌足が中臣氏を演じた氣がするのは自分だけであろうか。ここには複雑な話があり、鎌足の死の直前、天智天皇により、賜姓藤原氏がされたわけであるが、實は、これは二度行われており、不比等の時代にも行われているのである。というのは、伊美麿の系統も當初、藤原を名乘ったのであるが、これを禁じて不比等の一門にのみ藤原の姓を與えるためであり、藤原と中臣とを線引きしたのである。ちなみに、中臣氏の氏である河内國一之宮枚岡社に藤原家からの參拜の記錄はなく、藤原は中臣の名を借りた別物と考えざるを得ないのである。その中臣の末裔が當社の創祀にかかわっているということにも非常に違和感を感じる。出雲國からの勸請というのに關しても正直、疑問を感じている。社傳からすると祭は素盞嗚でなければいけなく、『紀伊續風土記』の說をとれば、伊雑宮であるので、天照でなければいけない。しかし、最終的に大己貴になったということは、無視できないことであり、一番根本になった出雲のであったのかもしれない。この地域について調べてみる必要があるかもしれない。