の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

御津八幡宮

2014年06月27日 12時27分26秒 | 近畿(大阪、兵庫)
■拜殿■
(6th June 2012)
 


★御津八幡宮★ 大阪府大阪市中央区西心斎橋2-10-7

・舊社格は社。

・祭は應天皇。仲哀天皇、比大を配祀。

・御津宮、島之内八幡宮とも稱す。

・『大阪府誌』によると、仁天皇の難波にをおいた頃、味原にあったのを後世ここに奉祀したとある。

・社傳によれば、天平勝寶元年(749)、京に向うとの八幡大の託宣で、孝謙天皇が敕使を遣わし、筑紫の宇佐宮より京に遷座する途中、はじめて上陸した行宮の蹟に祀ったという。


■鳥居■
(6th June 2012)



■手水舍■
(6th June 2012)



■拜殿■
(6th June 2012)




■本殿■
(6th June 2012)

 


■末社石宮龍王社■
(6th June 2012)
 

・祭は倉稻魂命。


((コメント))

2012年6月6日

 アメリカ村の一角にある社。宇佐八幡宮から靈が石水に行くときに到著し、行宮となった場所であると聞いていたために、氣になっていたのであるがなかなか行くことができず、ようやく行くことができたところである。元元、このあたりは地名でも殘るように津、つまり港であったわけであり、さすがに境内にはいまだにその名殘が氣として殘っているようである。

 ところで、石宮龍王社の祭が倉稻魂であるが、基本的に稻荷のとされているのであるが、龍王でも同じ祭となると、やはり私の考えのとおり、龍王と稻荷は同體と思わざるを得ない。そして、大きく、二種類のものがある。なかなか、祕密の多い祭であることである。

洲崎社 / 洲崎神社

2014年06月25日 03時53分17秒 | 関東(栃木、茨城、千葉、群馬)
■體山■
(13th June 2008)



★安房國一之宮洲崎神社★ 千葉県館山市洲崎1697

・延喜式内社、安房國安房郡、后天比理刀命社、大、元名洲、論社。

・舊社格は縣社。

・祭は天比理刀命で、安房社祭天太玉命の后。

・江戶時代に、安房國一之宮となったとされ、全國一の宮會に參加するものの、實際に江戶時代に一之宮とされたことを示す文書はなく、單に自稱であると考えられる。

・根拠は、文化九年(1812)、筆頭老中松平定信が「安房一宮洲崎大明」の扁額を奉納しているが、安房「國」ではなく實際に一之宮と呼ばれるべきか、という面では疑問である。

・寶曆三年(1753)に書かれた當社の社傳『洲崎大明由舊記』では、武天皇の御代、安房國の開拓者である天富命が、祖母の天比理乃命の持っていた鏡を體として、美多良洲山に祀ったのが當社の始まり、という。

・治承四年(1180)九月五日、石橋山の合戰に敗れ、海路安房國に上陸した源朝は當社に參拜し、上總介及び千葉介へ送った使者の無事と交渉の成功を祈願して、田を寄進している。

・江戶時代までは別當寺の養老寺が當社を支配した。

・東京品川區の品川社は、源朝が海上安全のために當社から勸請したもの。

・社近くの波左海中公園内の海中に、水難事故、水難事件防止を祈願する爲に作られた當社の分社、日本唯一の「水中社」がある。


■隨身門■
(13th June 2008)



■參道の石段■
(13th June 2008)



■拜殿■
(13th June 2008)



■本殿■
(13th June 2008)



 館山市指定文化財

・三社流れ造で、三方に木口緣をめぐらし、銅板葺、千木勝男木を置き、唐樣三手先組で外部は丹塗仕上げ、木鼻欄等に彫刻が施されている。
・裝飾が多く、江戸中期の社建築の特徴が强い。
・昭和六十一年(1986)に臺風で土砂が流出し、倒壊、修復された。


■境内末社■
(13th June 2008)



((コメント))

2008年6月13日

 一應、安房國一之宮を稱しており、江戶時代より一之宮となったといわれるが、實は、どの書物にもそのことは書かれておらず、實際には、安房國一之宮の格式を持つのは安房社が正當であろう。ただ、現實問題、洲崎信仰というのが特異な廣がりを見せたのは事實であり、有力な社であったことは否定できない。

2014年6月24日

 カナダで知り合った人に天然石のブレスレット、石は私が使っていたもの、をあげたのだが、その前に、氣の遠隔操作というのであろうか、腕輪に氣を入れたらば、洲崎明に祭られるものが入ったようであった。三體現れたが、最終的には女性の木造觀音像のようなものが腕輪に封じられることになった。なるほど、と思うのである。

尼子興久墓所

2014年06月20日 05時42分40秒 | 歴史上人物の墓所
■尼子興久墓所■
(30th December 2007)


★尼子興久墓所★ 島根県安来市広瀬町町帳775-1(道の駅広瀬・富田城) 

・名將尼子經久の三男。

・當時、長兄政久が若くして戰死し、その嫡男久(尼子を滅亡に追い込む凡庸な當主と後になる)に叔父義勝が後見になっており、次兄國久は武勇の譽れ高き『新宮党』を率いていた。

・興久は父より三千貫の領地を與えられたのだが不服だったらしく、反亂を起こすにいたる。ちなみに興久も武勇に優れていたという。

・老臣の龜井秀綱を介して父經久へ七百貫の所領加を申し出るが斷られ、秀綱及び經久に對して謀叛、岳父である備後甲山城主山内直通をるも、天文三年(1534)、遂に自害。


((コメント))

2007年12月30日

 無念の死を遂げたがために、いまだに怨念が一帶に立ち籠もっており、寒氣のするところである。

日慈谷社 / 日慈谷神社

2014年06月20日 05時37分31秒 | 近畿(滋賀、京都)
■一の鳥居■
(22nd May 2010)



★日慈谷社★ 京都府亀岡市東本梅町赤熊湯屋尻1-1

・祭は伊邪那岐命、伊邪那美命。

・創建年代は不詳であるが、元三年(1243)に本殿が造營されたという傳えられる。

・舊赤熊村の氏。

・自然石に十二のを勸請し、祀る。


■二の鳥居■
(22nd May 2010)
 


■拜殿■
(22nd May 2010)

 

■本殿覆い屋■
(22nd May 2010)



■本殿■
(22nd May 2010)
 


■末社八幡社■
(22nd May 2010)
 


■末社金比羅社、八坂社■
(22nd May 2010)
 


■末社塞社、秋葉社、出雲社■
(22nd May 2010)



■末社北野社、大原社■
(22nd May 2010)
 


■末社稻荷社、愛宕社■
(22nd May 2010)
 


■末社天照皇大■
(22nd May 2010)



■末社春日社■
(22nd May 2010)
 


■末社武天皇■
(22nd May 2010)


((コメント))

2010年5月22日

 國道のひとつ脇の道を走っていると、鳥居を發見し、停車。扁額を見ると、日慈谷社とあり、まあ、耳にしない名前なので、車も停めれそうであったことから立ち寄ってみた。鳥居からの本當の參道は誰も通らず、の舗裝された道を人人は通っているみたいで、案内板を見に行こうと踏み込んだ瞬、蜘蛛の巢に突擊することになった。境内には特別なものを感じることはなかったが、周りの風景がのどかで、いい感じであった。

金村社 / 金村神社

2014年06月20日 05時30分31秒 | 近畿(奈良)
■本殿■
(6th August 2011)



★金村社★ 奈良県葛城市大字大屋小字金村213

・延喜式内社、大和國葛下郡、金村社、大、月次新嘗。

・舊社格は村社。

・祭は大伴金村。『社要錄』『大和志料』は祭不詳とする。

・安閑天皇二年(535)十一月十二日、大伴金村の靈を勸請したと傳えられるが詳らかではない。

・明治四年(1871)には四反步の境内地を持つ大社であったという。


■鳥居■
(6th August 2011)
 


■本殿■
(6th August 2011)



■末社稻荷社(向かって右)、末社嚴島社■
(6th August 2011)



((コメント))

2011年8月6日

 久久に訪問してきた。今は、道端に小祠があるだけであるが、元元は大社であったということを聞いてはいるが想像が出來ない。何となく、境内に氣を感じるが、本來備わっていたものまでを感ずることは出來ない。祭は大伴金村であるのだろうか、疑問である。