の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

天手長比賣社跡

2011年12月25日 12時34分34秒 | 九州(福岡、佐賀、長崎、大分)
■境内跡地■
(16th June 2011)



★天手長比賣社跡★ 長崎県壱岐市郷ノ浦町田中触

・延喜式内社、壹岐嶋石田郡、天手長比賣社、名大、論社の舊社地。

・舊社格は村社。

・祭は栲幡千千姫尊、左二座に稚日女尊、木花開耶姫命、右二座に豐玉姫命、玉依姫命。

・昭和四十年(1965)、鉢形嶺の天手長男社に合祀。

・延寶の式内社査定以前は幡宮五所姫大明と稱した。

・往時は内殿、御殿、上屋、廊下、拜殿、御饌殿があったという。


■鳥居■
(16th June 2011)



■遠景■
(16th June 2011)

 

((コメント))

2011年6月16日

 天手長男社の鳥居の前から田圃を挟み見える杜にある。境内には磐境らしきものがあり、社があったに相應しい氣が殘っている。天手長比賣社の所在は不明であるが、橘三喜が當社に比定した氣持ちもわからぬではない。

阿多彌社

2011年12月25日 12時13分16秒 | 九州(福岡、佐賀、長崎、大分)
■鳥居■
(16th June 2011)



★阿多彌社★ 長崎県壱岐市勝本町立石東触360 

・延喜式内社、壹岐嶋壹岐郡、阿多彌社。

・舊社格は村社。

・祭は大己貴、少彦名。

・創建年代等不詳。

・延寶の式内社査定以前は、石(または山の)と呼ばれ、社殿なく、定例の祭典もないにも拘らず、南側百餘間の地にアタミ畑あり、この地名により、橘三喜は式内社阿多彌社に比定した。


■拜殿■
(16th June 2011)

 


■拜殿、本殿■
(16th June 2011)



((コメント))

2011年6月16日

 少し細い道に入ったところに鎭座。非常に小さな境内である。當社が式内社阿多彌社であるかどうかは非常に疑問である。理由があまりにも淺い。

鴨山口社

2011年12月25日 12時01分32秒 | 近畿(奈良)
■本殿■
(6th February 2011)



★鴨山口社★ 奈良県御所市大字櫛羅字大湊2428

・延喜式内社、大和國葛上郡、鴨山口社、大、月次新嘗。

・舊社格は村社。

・祭は大山祇命。大日孁貴命、御靈大、天御中尊を配祀。一説に、天御中尊を國常立命とする。

・『三大實録』によると、祈雨祭、祈年祭の祭祀を司る。

・古くから朝廷に皇居の用材を献上する大和國内の山口社十四社、すなわち、山口社は、鴨、巨勢、飛鳥、石寸、忍坂、長谷、畝傍、耳成、夜支布、伊古麻、大坂、當麻、吉野、都祁の總社とされる。

・もとは、現在地の西方、櫛羅猿目上方、通稱「岸野山」に鎭座していたと傳わる。


■一之鳥居■
(6th February 2011)



■手水舎■
(6th February 2011)
 


■二之鳥居■
(6th February 2011)



■拜殿■
(6th February 2011)
 


■本殿■
(6th February 2011)

 

■末社稻荷大明(櫻木社)と背後の墳丘■
(6th February 2011)


  


■末社天照皇大宮■
(6th February 2011)



・祭は天照皇大御。


■末社椿山社■
(6th February 2011)


・祭は宇賀能御魂命。


■末社春日社■
(6th February 2011)



・祭は天兒屋根命。


■末社八幡社■
(6th February 2011)
 
 


■末社金刀比羅社■
(6th February 2011)
 

・祭は大己貴命。


■末社天滿社■
(6th February 2011)


・祭は菅原道眞宿禰命。


((コメント))

2011年2月6日

 かなり久しぶりに、鴨山口社に訪問した。二度目の訪問である。おそらく、社家の方は境内に住まわれているとは思われるが、人の氣配もまったくない、靜かな境内である。前回訪問時は、社に關する知識も乏しく、散策しきれていなかったが、やはり、イメージとしては寺に近いように思う。と、いうか、佛混淆という言葉が捨てれないものである。境内は、寺であるが、いるものは佛ではないというか、佛でも、日本固有の道のでもなく、その中間のどこかに位置するものと思われる氣を感じるのだが、やはり、修験道などのようなものなのかも知れない。

山 天佐太雄社

2011年12月25日 11時27分27秒 | 近畿(奈良)
■聖地の森の木々■
(23rd December 2008)
 


★天佐太雄社★ 奈良県五條市大澤町592

・延喜式内社、大和國宇陀郡、天山佐太雄社、鍬。

・舊社格は村社。

・祭は天山佐太雄という。度會延經は『名帳考證』において、佐太雄は須佐能雄命のことと考えているが、實のところ不明であり、山に籠もる靈を祀ったものと思われる。

・山山頂に鎭座。山は杉、檜の繫る円錐形の美しい奈備山。古來、天狗岑と呼ばれ、葛城修験の靈山の一つであった。

・山麓の大澤区には、古代祭祀跡と思われる拜所と思しきところが殘るという。

・河内への古代の街道であった場所という。

・山麓の西木戸にあった式外雑社天佐太雄社を明治二十四年(1891)に合祀したと云うが、これも、拜所のひとつであった可能性がある。

・社殿の近くから鏡三面が出土したというが、所在不明となっている。


■尾根道に入るポイントに立つ標識■
(6th February 2011)



■尾根道■
(6th February 2011)

 


■金剛山尾根道より山分岐■
(6th February 2011)




■參道■
(23th December 2008)
 
(6th February 2011)
 


■天佐太雄社本殿■
(23rd December 2008)

(6th February 2011)

 


■末社■
(6th February 2011)


・祭は大金、龍王、大久保家祖。


((コメント))

2008年12月23日

 金剛山下山後、少し、汗を拭い、今度は目的地の一つである天佐太雄社を目指し、國道三百十号線を大阪方面へ走らせ、金剛トンネル前の登山口からまた山に入った。

 とりあえずは、6、7分、上に登り續け、そして、尾根道に到達、そこから、山分岐点まで十-十五分くらいであったか、歩き、そこから、少し勾配を登ると、標七百九十二メートル、山山頂。

 そこにある、小さな祠が天佐太雄社に比定されているところである。というか、ここしかない。人もいず、非常に寂しいところではあったが、氣持ちのいいところではあった。

2011年2月6日

 國道から、金剛トンネル手前で車を置き、そこから登り始め、ダイアモンドトレイルのルートに入り、尾根傳いに山を目指すのであるが、登り口に怪しき男性が車でずっといるのである。何をしているのかは知らないが、不氣味な感じである。氣の種別で言うと、「妖魔の氣」に他ならない。特に氣にせず、時間的に厳しかったこともあり、七~八分のコースを四~五分で駆け上がることにした。が、息切れが尋常でなく、普段は心拍もすぐに戻るのであるが、最後まで戻らない道中となった。

 聖域に入り、しばらくすると、嘔氣を感じ始め、端のほうで少し噎せると、すべてが消え去っていき、樂になった。そして、本殿の近くへと歩む。社殿の上というか背後というべきか、繫る木木のなかに佐太雄命を発見。サイズから考えると、先住民でともに大和朝廷を建てた侵略者を相手に戰った戰士であることがわかる。しばらく、ここで時間を過ごしたあと、彼の分靈を宿らせ、下山。

手長比賣社

2011年12月25日 01時53分02秒 | 九州(福岡、佐賀、長崎、大分)
■社殿■
(16th June 2011)



★手長比賣社★ 長崎県壱岐市勝本町本宮西触1212


・延喜式内社、壹岐嶋壹岐郡、手長比賣社、論社。

・舊社格は無格社。

・祭は栲幡千千姫命、天忍穗耳尊。橘三喜による延寶の式内社調査以前は、功皇后という説(『式社沿革考』)と手長男という説(『名記』)などがあるようである。

・當社地は、「棚河」と呼ばれている地で、棚河大明と稱されていたという。

・手長比賣と本宮八幡のが石礫を投げて領田を競ったという傳説が殘る。

・慶安二年(1649)再建の棟札にある「奉造立本宮久榮村棚河大明社壇一宇之事云云當國所司代西右京亮下略」は式内社の由緒を示すものと考えられる。


■水田と遠くに見える手長島■
(16th June 2011)



((コメント))

2011年6月16日

 田圃の片隅にある小さな社。到底、式内社とは思えない佇まいである。往時には森があったであろうと思うので、また、異なる趣であったのだろう。社殿の近くには、水田の真ん中に大きな石が見られる。磐座なのか、転石なのか、と疑問に思う。

 當社は、手長比賣社の論社の一つで、もうひとつが、中津社の論社でもある聖母宮。聖母宮からは手長島も見えなく、そもそも、中津社であろうと思うので、當社が手長比賣社の可能性のほうが強いと思う。手長島との位置關係、本宮八幡との位置關係を考えても、そう思わざるを得ない。