の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

宗忠社 / 宗忠神社

2013年11月28日 03時37分56秒 | 中国(岡山、広島、山口)
■社號標(東平八元帥筆)■
(10th November 2008)
 


★宗忠社★ 岡山県岡山市上中野1-3-10

・祭は住祖住宗忠。

・住宗忠の生地。

・鎭座地から大元社とも呼ばれる。

・明治十八年(1885)に創建。

・岡山市尾上(通稱「道山」)に移轉するまでの住團本部でもあった。

・社廰所屬という。


■鳥居■
(10th November 2008)



■拜殿■
(10th November 2008)

 

■本殿■
(10th November 2008)


 
■末社弟社■
(10th November 2008)
 

・祭は弟十一人、すなわち、石尾乾介、河上忠晶、時尾宗道、赤木忠春、森下景端、星島良平、池田千代藏、河本泰祐、森金爲藏、小林儉造、野野上帶刀。


■木■
(10th November 2008)

 

((コメント))

2008年11月10日

 特に住に思い入れもないし、個人的に、何も感じなかった。

伊勢久留麻社 / 伊勢久留麻神社

2013年11月28日 03時28分04秒 | 近畿(大阪、兵庫)
■拜殿■
(23rd November 2012)
 


★伊勢久留麻社★ 兵庫県淡路市久留麻2033

・延喜式内社、淡路國津名郡、伊勢久留麻社。

・舊社格は社。

・祭は大日孁貴尊。

・淡路國三之宮を自稱するが、二之宮を舟木の石上社とすることより津名郡の三之宮ではないか、と思われる。

・伊勢の森、明の森と呼ばれる地に社があり、土地の人人には伊勢明と呼ばれる。

・古くは來馬に屬していた。

・社傳によると、敏達天皇の時代、伊勢國奄藝郡の久留眞社を勸請、大同元年(806)、封二戸を與えられたという。

・現社地の付近は、昔、入り江であったといい、港として船の出入りが多かったという。

・近年、三輪山麓の箸墓古墳を中心として東に伊勢宮齋宮蹟、西のほぼ對稱の位置に當社が鎭座することから、古代の日祭祀の觀点から注目されている。この線は北緯三十四度三十二分の緯線上にあり、「太陽の通る道」と呼ばれているらしいが、東より伊勢齋宮蹟、室生寺、長谷寺、箸墓古墳、大鳥社(大鳥大社)、伊勢久留麻社、舟木石上社と竝ぶらしい。

・當社の近くの海岸べりに引野という小字があるが、この引野は日を招いた「日招野」である可能性もあると考えられている。


■鳥居■
(23rd November 2012)



■社號標■
(23rd November 2012)
 


■手水舍■
(23rd November 2012)



■拜殿■
(23rd November 2012)
 
 


■本殿■
(23rd November 2012)

 


■本殿右脇殿■
(23rd November 2012)
 


■本殿左脇殿■
(23rd November 2012)



■末社愛宕社辨財天社合殿■
(23rd November 2012)
  


■第三代駒留松■
(23rd November 2012)
 


■忠魂塔■
(23rd November 2012)
 


((コメント))

2012年11月23日

 二度目の訪問である。今回は他の參拜客の姿も見られた。「太陽の通る道」として知られているが、個人的にはそういった面では特に感じるものがない。伊勢というものが自分の魂に響かないことが原因であるのだろうか。南北朝時代、楠木正成が參拜されたようであるが、彼の來たころの社の姿はどのようなものであったのであろうか。

石屋社 / 石屋神社

2013年11月28日 03時05分30秒 | 近畿(大阪、兵庫)
■手水舎、拜殿■
(23rd November 2012)



★石屋社★ 兵庫県淡路市岩屋字明神799

・延喜式内社、淡路國津名郡、石屋社。

・舊社格は社。

・祭は國常立尊、伊弉諾尊、伊弉册尊。『社總社記』では月讀尊とする。

・社傳によると、崇天皇の御代、三對山に繪島明が鎭座したのが石屋社の始まりであるという。

・當社はかつて來馬に屬し、長元年(1163)の記錄には「天地大明」とある。

・室町時代、大内義興が將軍足利義稙を擁し京に攻め入ろうとして岩屋に軍を進め、三對山に城を築いた折、三對山に鎭座していた繪島明を現在地に遷し、のちに池田氏が淡路を領したとき石屋社を再興したといわれる。

・その昔、功皇后が三韓征伐の折、風待ちのため、當社に參拜、「いざなぎやいざなみ渡る春の日に、いかに岩屋のならば」と詠じたところ風が凪いだといい、それにちなみ、當社ではこの歌を海上安全の護符としていた。

・承曆四年(1080)、石屋のの祟りによって白河天皇が病に罹ったため、當社で祈願祭が執行されたと傳えられる。

・岩屋の對岸、明石市材木町に岩屋社があるが、社傳によると、成務天皇十三年(143)、淡路の岩屋にある二柱を祀る社が波の侵食で海中に沒しようとしていた爲、敕命により明石の名主六人衆が新造船で淡路まで迎えに行ったという。


■鳥居、長屋門■
(23rd November 2012)
 


■手水舍■
(23rd November 2012)
 


■拜殿■
(23rd November 2012)




■拜殿扁額■
(23rd November 2012)
 


■本殿■
(23rd November 2012)
 


■末社八百萬社■
(23rd November 2012)

 


■末社稻荷社■
(23rd November 2012)
 


■大和島■
(23rd November 2012)



((コメント))

2012年11月23日

 夜中に車を走らせ、「道の駅あわじ」にて少し休憩。天候不良であったが、早朝に始動、まずは岩屋の石屋社へ訪問。以前に行った明石の岩屋社の元のというべきところであるので期待して行ったのであるが、社殿は立派なものであるにも關わらず、感じるものはいまひとつの狀態であり殘念な思いであったが、戰亂の合で本來の社地を失っていたということであり、こういう意味では同情せざるをえない。いずれにせよ、岩屋の龍を感じることはなかった。

村上帝社 / 村上帝社

2013年11月27日 21時32分27秒 | 近畿(大阪、兵庫)
■鳥居、社號標■
(28th February 2007)



★村上帝社★ 兵庫県神戸市須磨区須磨浦通4

・祭は人皇第六十二代村上天皇。

・平安時代末期、琵琶の名人であった藤原師長は唐に渡って琵琶の奧義を極めたいと思い、を出て、須磨まで來た。その夜、村上天皇と梨壺女御の靈が現れ琵琶の奧義を傳えたので、師長は入唐を思いとどまり、名器「獅子丸」を埋めてに歸った。この傳承を題材として能の「絃上」が作られた。この傳承に基づき、土地の人が村上天皇を祀ったのが當社であると傳えられる。

・藤原師長が名器といわれた獅子丸をうめた琵琶(前方後円墳)があるが、現在は一部面影をのこすものの山陽電鐵本線の線路によって二分されている。


■本殿■
(28th February 2007)



■天降稻荷明■
(28th February 2007)



((コメント))

2007年2月28日

 修士論文發表会の帰りに須磨驛に送ってもらったときに、偶然、發見し、立ち寄ってきた。何か、山陽線に分斷されていて切ないところであった。

出雲大宮 / 出雲大神宮

2013年11月24日 09時15分21秒 | 近畿(滋賀、京都)
■社殿■
(22nd May 2010)

 

★出雲大宮★ 京都府亀岡市千歳町千歳出雲無番地

・延喜式内社、丹波國桑田郡、出雲社、名大。

・舊社格は國幣中社。

・祭は大己貴命、三穗津姬命。本來、三穗津姬命が主という說がある。

・丹波國一之宮。

・起源、その背景については未詳であるが、一說に、出雲の杵築大社の分靈を勸請したといわれる。また、その反對に、出雲の杵築大社のが當社より遷ったと言い、「元出雲」とも呼ばれる。

・『丹波國風土記』には、「元明天皇和銅年中、大國主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す」との記述があることから、元出雲といわれる。

・いわゆる出雲大社は明治時代に至るまで杵築大社を稱していたため、江戶時代末までは、出雲社と言えば、この出雲大宮を指していた。

・社傳によると、和銅二年(709)の創建とされる。この說は、社藏の天二年(1234)三月二十三日付『關東御書』竝びに『社領傍示繪圖』により、若干の疑問が殘るとされる。

・境内に穴式石室を持つ古墳、また近くには車前方後円墳もあり、古代にはすでにこの地域に御影山をとして崇める一族が居住していたことを推測させる。

・『社領傍示繪圖』には、體山を背景に一基の鳥居が描かれ、原始的信仰の名殘りを傳えるものといわれている。

・古山隂道の近くに鎭座し、平安京遷都後、中央政府との關係が深まり、承和十二年(845)、國司の申請にて、階を授けられることになり、後には正一位にまで至ったとされる。

・『貞信公記』承平元年(931)五月二十五日條にみえる「出雲社使」は當社に關係するものと考えられ、律令制下ではしばしば朝廷が祈願のための使者を派遣したようである。

・『左經記』によると、万壽二年(1025)七月には、丹波國司源經が國内の旱魃飢饉を憂い、留守所の在廰官人を通じて當社の九人の供僧に雨乞いと五穀豐穰の祈願のために大般若經轉讀を命じている。この時期にはすでに、國衙機構と直結した事活動を始めている。

・丹波一之宮としての記錄上の初見は、『吾妻鏡』にて元曆元年(1184)八月三十日付の後白河上皇の院宣。

・後白河上皇の院宣によると、當社の所領は蓮華王院(三十三堂)領に屬し、能盛法師がその預所であった。しかし、源朝から地頭職を賜ったと稱する玉井資重がこれを領、朝にその停止を求めている。この頃、丹波國は院の分國で、院の近臣とその一族が知行國主や國司に任命され、國衙公納物は實質的に院の收入となっていた。

・南北朝動亂期を迎えると、朝廷や國衙との關係は後退し、室町幕府や丹波守護との結びつきが强まり、現在の本殿もその頃の關係より造營されている。

・明治時代に至るまで、宮寺があった。その創建年代は不明であるが、平安末期の瓦などが出土したことから、御影山山麓付近が舊蹟と推定され、當社出雲社の實質的經營も宮寺により維持されたとされる。

・近世初期までは松崎、廣、谷尻、野野村、山田、西田、名倉七家の四ヶ侍惣中が中心となって事祭禮を執行したという。近世、江島里、中、出雲、小口の近四ヶ村の產土として信仰を集め、のちに、馬路村が氏子に加わり、五ヶ村で祭禮を行った。


■社號標、鳥居■
(22nd May 2010)
 


■拜殿■
(22nd May 2010)

 

・入母屋造、妻入、檜皮葺。
・舞殿形式。
・明治十一年(1878)、官費により造營。


■中門、廻廊■
(22nd May 2010)

 


■本殿■
(22nd May 2010)


 國重要文化財

・元明天皇の和銅二年(709)、建立。現在の本殿は鎌倉時代末期元年間、あるいは貞和元年(1345)、足利尊氏の修造した事が當時の史料から知られるが、近年、三枚の棟札が發見され、そのうち文安二年(1445)十一月二十六日のものは「御願主源右享大夫殿」とある點を考慮し、社殿造營に關して室町期に管領職として幕權を掌握した細川勝元との關係を無視できない。
・中世の社建築に多く見られる三社流造平入。
・平面は正面に一の向拜をもうけ、前庇を外陣、身舍を内陣、内内陣にあて、奧に行くに從い格式をめている。外陣と内陣部分には欄付きの緣をまわし、身舍側面の中央柱の所に脇障子を立てて見切り、身舎後半部には緣をまわしていない。


■體御影山■
(22nd May 2010)
 

・祭は國常立命。


■攝社上の社■
(22nd May 2010)
 

・祭は素盞嗚尊、櫛稻田姬尊。
・上の社本殿は向拜を設けるなど出雲大宮本殿を模倣した流造。


■古墳■
(22nd May 2010)


・穴式。
・推定は成務天皇代。


■末社春日社■
(22nd May 2010)
 

・祭は建御雷之男、天兒屋命。
・中世、藤原氏の一族、一條家(後の西園寺氏)が當宮領家職であった事に由來。


■磐座■
(22nd May 2010)



■末社稻荷社■
(22nd May 2010)
 

・祭宇迦之御魂。


■御影瀧■
(22nd May 2010)
 


■末社笑殿社■
(22nd May 2010)


・祭は事代主命、少那毘古名命。


■末社崇天皇社■
(22nd May 2010)
 

・祭は崇天皇。


■夫婦岩(女隂)■
(22nd May 2010)
 


■夫婦岩(男根)■
(22nd May 2010)
 


■末社辨財天社■
(22nd May 2010)
 

・祭は市杵島姬命。


■眞名井■
(22nd May 2010)
 


((コメント))

2010年5月22日

 小川月社から千歳車古墳のを抜けて、出雲大宮に行く。以前、とある年の七月、臺風が直撃するやらしないやら言っていた强風の最中に一度行っただけであったのだが、一眼レフを使いはじめであまり機能を理解していなかったことと、當時、拜殿が修復工事中で見ることができなかったので興味があったのである。で、写眞を撮りに行ったわけである。

 ところで、いくつかの疑問である。體山とされる御影山であるのだが、本社も上の社もその體山を拜すほうには社殿が向いて建てられていない。本社の眞後ろには、穴式の古墳がある。磐座は少し、向きが外れているので、本社から拜す對象ではないだろう。しかし、そう考えると、あの古墳はどういう重要性を持つものなのか謎である。公けにしていない、曰くつきの理由があるのかもしれない。ところで、杵築大社が元か、當社が元か、に關しては、杵築大社(現出雲大社)の祭が元は大國主命とは思われず、個人的には、建速須佐之男命であろうと考えているので、こちらが元出雲であると考えている次第。出雲話は丸丸、そのままに信じるのは危險なのである。