■社殿■
(22nd May 2010)
★出雲大宮★ 京都府亀岡市千歳町千歳出雲無番地
・延喜式内社、丹波國桑田郡、出雲社、名大。
・舊社格は國幣中社。
・祭は大己貴命、三穗津姬命。本來、三穗津姬命が主という說がある。
・丹波國一之宮。
・起源、その背景については未詳であるが、一說に、出雲の杵築大社の分靈を勸請したといわれる。また、その反對に、出雲の杵築大社のが當社より遷ったと言い、「元出雲」とも呼ばれる。
・『丹波國風土記』には、「元明天皇和銅年中、大國主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す」との記述があることから、元出雲といわれる。
・いわゆる出雲大社は明治時代に至るまで杵築大社を稱していたため、江戶時代末までは、出雲社と言えば、この出雲大宮を指していた。
・社傳によると、和銅二年(709)の創建とされる。この說は、社藏の天二年(1234)三月二十三日付『關東御書』竝びに『社領傍示繪圖』により、若干の疑問が殘るとされる。
・境内に穴式石室を持つ古墳、また近くには車前方後円墳もあり、古代にはすでにこの地域に御影山をとして崇める一族が居住していたことを推測させる。
・『社領傍示繪圖』には、體山を背景に一基の鳥居が描かれ、原始的信仰の名殘りを傳えるものといわれている。
・古山隂道の近くに鎭座し、平安京遷都後、中央政府との關係が深まり、承和十二年(845)、國司の申請にて、階を授けられることになり、後には正一位にまで至ったとされる。
・『貞信公記』承平元年(931)五月二十五日條にみえる「出雲社使」は當社に關係するものと考えられ、律令制下ではしばしば朝廷が祈願のための使者を派遣したようである。
・『左經記』によると、万壽二年(1025)七月には、丹波國司源經が國内の旱魃飢饉を憂い、留守所の在廰官人を通じて當社の九人の供僧に雨乞いと五穀豐穰の祈願のために大般若經轉讀を命じている。この時期にはすでに、國衙機構と直結した事活動を始めている。
・丹波一之宮としての記錄上の初見は、『吾妻鏡』にて元曆元年(1184)八月三十日付の後白河上皇の院宣。
・後白河上皇の院宣によると、當社の所領は蓮華王院(三十三堂)領に屬し、能盛法師がその預所であった。しかし、源朝から地頭職を賜ったと稱する玉井資重がこれを領、朝にその停止を求めている。この頃、丹波國は院の分國で、院の近臣とその一族が知行國主や國司に任命され、國衙公納物は實質的に院の收入となっていた。
・南北朝動亂期を迎えると、朝廷や國衙との關係は後退し、室町幕府や丹波守護との結びつきが强まり、現在の本殿もその頃の關係より造營されている。
・明治時代に至るまで、宮寺があった。その創建年代は不明であるが、平安末期の瓦などが出土したことから、御影山山麓付近が舊蹟と推定され、當社出雲社の實質的經營も宮寺により維持されたとされる。
・近世初期までは松崎、廣、谷尻、野野村、山田、西田、名倉七家の四ヶ侍惣中が中心となって事祭禮を執行したという。近世、江島里、中、出雲、小口の近四ヶ村の產土として信仰を集め、のちに、馬路村が氏子に加わり、五ヶ村で祭禮を行った。
■社號標、鳥居■
(22nd May 2010)
■拜殿■
(22nd May 2010)
・入母屋造、妻入、檜皮葺。
・舞殿形式。
・明治十一年(1878)、官費により造營。
■中門、廻廊■
(22nd May 2010)
■本殿■
(22nd May 2010)
國重要文化財
・元明天皇の和銅二年(709)、建立。現在の本殿は鎌倉時代末期元年間、あるいは貞和元年(1345)、足利尊氏の修造した事が當時の史料から知られるが、近年、三枚の棟札が發見され、そのうち文安二年(1445)十一月二十六日のものは「御願主源右享大夫殿」とある點を考慮し、社殿造營に關して室町期に管領職として幕權を掌握した細川勝元との關係を無視できない。
・中世の社建築に多く見られる三社流造平入。
・平面は正面に一の向拜をもうけ、前庇を外陣、身舍を内陣、内内陣にあて、奧に行くに從い格式をめている。外陣と内陣部分には欄付きの緣をまわし、身舍側面の中央柱の所に脇障子を立てて見切り、身舎後半部には緣をまわしていない。
■體御影山■
(22nd May 2010)
・祭は國常立命。
■攝社上の社■
(22nd May 2010)
・祭は素盞嗚尊、櫛稻田姬尊。
・上の社本殿は向拜を設けるなど出雲大宮本殿を模倣した流造。
■古墳■
(22nd May 2010)
・穴式。
・推定は成務天皇代。
■末社春日社■
(22nd May 2010)
・祭は建御雷之男、天兒屋命。
・中世、藤原氏の一族、一條家(後の西園寺氏)が當宮領家職であった事に由來。
■磐座■
(22nd May 2010)
■末社稻荷社■
(22nd May 2010)
・祭宇迦之御魂。
■御影瀧■
(22nd May 2010)
■末社笑殿社■
(22nd May 2010)
・祭は事代主命、少那毘古名命。
■末社崇天皇社■
(22nd May 2010)
・祭は崇天皇。
■夫婦岩(女隂)■
(22nd May 2010)
■夫婦岩(男根)■
(22nd May 2010)
■末社辨財天社■
(22nd May 2010)
・祭は市杵島姬命。
■眞名井■
(22nd May 2010)
((コメント))
2010年5月22日
小川月社から千歳車古墳のを抜けて、出雲大宮に行く。以前、とある年の七月、臺風が直撃するやらしないやら言っていた强風の最中に一度行っただけであったのだが、一眼レフを使いはじめであまり機能を理解していなかったことと、當時、拜殿が修復工事中で見ることができなかったので興味があったのである。で、写眞を撮りに行ったわけである。
ところで、いくつかの疑問である。體山とされる御影山であるのだが、本社も上の社もその體山を拜すほうには社殿が向いて建てられていない。本社の眞後ろには、穴式の古墳がある。磐座は少し、向きが外れているので、本社から拜す對象ではないだろう。しかし、そう考えると、あの古墳はどういう重要性を持つものなのか謎である。公けにしていない、曰くつきの理由があるのかもしれない。ところで、杵築大社が元か、當社が元か、に關しては、杵築大社(現出雲大社)の祭が元は大國主命とは思われず、個人的には、建速須佐之男命であろうと考えているので、こちらが元出雲であると考えている次第。出雲話は丸丸、そのままに信じるのは危險なのである。