の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

農社 / 都農神社

2015年03月13日 01時08分35秒 | 九州(宮崎、熊本、鹿児島、沖縄)
■參道■
(12th November 2008)



★農社★ 宮崎県児湯郡都農町大字川北13294

・延喜式内社、日向國兒湯郡、農社。

・舊社格は國幣小社。

・祭は大己貴命。

・日向國一之宮。

・社傳では、武天皇が東征に向かう際に自ら祀ったのが創建という(紀元前666)。

・功皇后が三韓征伐に際して舟の守護として「吐乃大明」を勸請したとの『塵添壒囊抄』の記事を引用して、皇后が凱旋後に社殿を造營したのが初めであると傳えられる。

・承和四年(837)、官社に列せられる。

・疫病に對し驗があるとされている。

・天正年の大友島津の爭亂にあい社殿は兵火にかかり、祕藏の寶物古文書等を燒失。その後、衰退して行き、延寶三年(1675)には「其後取立る人もなしとて、僅の小社となり御名さへ知らず、只明とのみいへり」といった狀態であったという。

・元祿五年(1692)、鍋藩主秋月種政によって再興されるとともに、元祿十四年(1701)に社領二十石が寄進されて以來、江戶時代を通じて歷代の鍋藩主から崇敬された。

・舊記によれば、往古は日向國第一の大社として社殿壯大、境内廣闊で第三鳥居は十五~六丁、第二鳥居は六~七丁のに亘って建立せられたといい、古蹟が今なお認められる。

・『塵袋』には「吐乃大明」とあり、『塵添壒囊抄』はそれに追書して疱瘡の治療に靈驗あらたかであると載せている。また田畑の虫害を除くとの信仰もあった。

・「日向國一之宮」として庶民はもちろん在地領主からも崇められ、天文十八年(1549)、伊東義祐によって社殿が造替された。


■門■
(12th November 2008)



■拜殿■
(12th November 2008)



■本殿■
(12th November 2008)



■攝社素盞嗚社■
(12th November 2008)


・祭は素盞嗚尊。


■攝社手摩乳社および足摩乳社■
(12th November 2008)


・祭は手摩乳命、足摩乳命。


■末社熊野社■
(12th November 2008)


・祭は速玉男命、事解男命、菊理比賣命。


■末社愛宕社■
(12th November 2008)


・祭は火產靈命。


■輿庫■
(12th November 2008)



■池■
(12th November 2008)



((コメント))

2008年11月12日

 駐車場に車を停めて車から出て足をついた瞬に、期待を裏切られたという感じだった。ここまで、何も感じないというかカスカスなところは非常に貴重である。紀伊の熊野本宮大社も樣がいないが、しかし、まだ山の木木で、まだ殘り香的な氣はあるが、ここに到ってはそういうものも全くないレベルであった。結果、九州ではたくさんの社を周らせてもらったが、ここが一番、何も感じないというか、スカスカな社であった。一之宮がこれではがっくりだ。普通に、奈良のそこらの山に行く方がはるかに心地よく、氣も充實している。

江田社 / 江田神社

2014年07月22日 02時02分24秒 | 九州(宮崎、熊本、鹿児島、沖縄)
■拜殿■
(19th June 2011)



★江田社★ 宮崎県宮崎市阿波岐原町字産母127

・延喜式内社、日向國宮崎郡、江田社。

・舊社格は縣社。

・祭は伊邪那岐尊。伊邪那美尊を配祀。

・創建年代不詳。

・壽永二年(1183)、伊邪那美尊が祀され、以後、產母二柱大明と號し、地元では產母樣と呼ばれる。

・日本話に記される「黃泉から歸還した伊邪那岐尊が禊を行った『筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原』」の地であると傳える。

・國史上の初見は、『續日本後紀』の承和四年(837)八月一日條。「日向國子湯郡子濃、妻、宮埼郡江田、縣郡霧島岑、竝びに官社に預かる」と記される。

・文二年(1662)、外所地震の大津波により社殿を失い衰退。その後は、一村落の產土の扱いとなっていた。


■一の鳥居■
(19th June 2011)
 


■參道■
(19th June 2011)
 


■二の鳥居■
(19th June 2011)
 


■拜殿■
(19th June 2011)



■本殿■
(19th June 2011)



((コメント))
2011年6月19日

 數少ない日向國の式内社の一つである江田社を訪問。『市民の森』の脇に鎭座。小雨の中、訪問。參道は長く細長い境内となっている。本殿からさらに脇を行くと禊池、禊本殿があるが、腰の狀態惡く、ロキソニンを服用しても、まだ痛みがある狀態であったため、訪問は斷念し、本社本殿のみとした。海沿いの社らしい香りを殘すところである。

三社 / 三郎神社

2014年02月06日 15時06分39秒 | 九州(宮崎、熊本、鹿児島、沖縄)
■鳥居■
(18th June 2011)
 


★三社★ 熊本県阿蘇郡高森町大字芹口

・祭は天彥命、天比命。

・草部吉見社の境外攝社。

・創建年代由等不明。


■鳥居■
(18th June 2011)
 


■本殿■
(18th June 2011)



((コメント))

2011年6月18日

 草部吉見社よりさらに少し奧に進むと三社がある。草部吉見社の境外攝社という。社殿自體は大したものではないが、境内を見ると大切にされていることが傳わるところであった。

阿蘇社 / 阿蘇神社

2013年10月30日 17時11分13秒 | 九州(宮崎、熊本、鹿児島、沖縄)
■樓門■
(18th June 2011)



★阿蘇社★ 熊本県阿蘇市一の宮町宮地3083-1

・延喜式内社、肥後國阿蘇郡、健磐龍命社、名大。

・延喜式内社、肥後國阿蘇郡、阿蘇比社。

・舊社格は官幣大社。

・祭は阿蘇十二明。一の殿に一宮の健磐龍命、三宮の國龍、五宮の彥御子、七宮の新彥、九宮の若彥を、二の神殿に二宮の阿蘇比命、四宮の比御子、六宮の若比、八宮の新比、十宮の彌比を、殿に十一宮の國造速瓶玉、十二宮の金凝、および全國式内社祭三千百三十二座を祀る。

 

・肥後國一之宮。

・一宮祭建磐龍命は、本來は阿蘇火山のと考えられる。

・全國に約四百五十社ある阿蘇社の總本社。

・現在の二の殿が、肥後國二の宮阿蘇比社に當たる。

・孝靈天皇九年六月(281)、健磐龍命の子で初代阿蘇國造に任じられた國造速瓶玉命(阿蘇都比古命)が兩親を祀ったのに始まるという。

・『隋書』倭國傳には、『阿蘇山有り。其の石、故無くして火起こり、天に接するもの、俗以て異となし、因って禱祭を行う」とあり、土地の人人は、早くから阿蘇火山の靈異に對し禱祭を行っており、特に火口部の「石」が對象となっていたことが注目される。古代においては、立石が信仰の對象にされることが少なくないことを考慮すると、「タケイワタツ」とは「健磐立」が本義であった可能性が考えられる。

・「健磐立」より「健磐龍」と變化していくのは、單なる火山信仰より、「水」の性質を求めていったためであると推測される。

・『釋日本紀』が引く『肥後國風土記』逸文には、「頂に靈しき沼あり」と靈池の記載が見られ、『三代實錄』にも靈池の信仰が述べられている。

・阿蘇國造速瓶玉命とその后である雨宮媛命の陵とされる上御倉古墳、下御倉古墳と阿蘇の中嶽を結ぶ直線上のほぼ中ほどに阿蘇社が位置している。また、其の直線上に迎平古墳羣も竝び、それらのことから、阿蘇國造が阿蘇山の祭祀と關わりがあり、その遙拜所として設けた祭祀場が、阿蘇社になったことを物語る。

・肥後國一之宮とされて崇敬を受け、廣大な社領を有していたが、豐臣秀吉の九州征伐の際に社領を沒收され、後に改めて三百町の社地が寄進された。

・阿蘇山中嶽に奧宮山上社が鎭座。

・全國的にも珍しい參道で拜殿のほうに向いていない。參道の南には阿蘇火口、北には國造社が位置している。


■樓門■
(18th June 2011)


 國重要文化財

・嘉永二年(1849)の建築。
・三一戸二階二重門、入母屋造、一階正面軒唐破風付、銅板葺。


■拜殿■
(18th June 2011)

 



■一の殿■
(18th June 2011)

 

 國重要文化財

・天保十一年(1830)の建築。
・桁行五、梁二、一重、入母屋造、正面千鳥破風付、軒唐破風付向拜三間、銅板葺。
・拜殿に向かって左に位置する。


■二の殿■
(18th June 2011)


 國重要文化財

・天保十三年(1832)の建築。
・桁行五、梁二、一重、入母屋造、正面千鳥破風付、軒唐破風付向拜三、銅板葺。
・拜殿に向かって右に位置する。


■殿■
(18th June 2011)

 

 國重要文化財

・天保十四年(1833)の建築。
・三社流造、正面千鳥破風付、銅板葺。
・拜殿の眞後ろに位置する。


■願かけ石■
(18th June 2011)

 


■還御門■
(18th June 2011)


 國重要文化財

・嘉永元年(1848)の建築。
・四脚門、切妻造、銅板葺。


■幸門■
(18th June 2011)


 國重要文化財

・嘉永元年(1848)の建築。
・四脚門、切妻造、銅板葺。


■末社北門守社■
(18th June 2011)


・祭は豐磐門戸、櫛磐門戸。


■木■
(18th June 2011)



■岩■
(18th June 2011)
 


((コメント))

2011年6月18日

 二度目の訪問。阿蘇社に着いたときは、雨がかなり强い時帶であった。梅雨時ということも有り、また、特に集中豪雨が來ていたのだから、當然のことではあるが、最初から決めていた日程での九州旅行であることも踏まえると、ある種、龍からのメッセージであるように受け止めれる樣な氣がする。

 現在は十二のが祀られているが、本來は健磐龍一座であるはず、もしくは、肥後國二之宮になっている阿蘇比社の阿蘇比一座との二殿が中心なのであるが、拜殿から拜禮をすれば、正面には諸殿があり、十一宮に祀られる本社は國造社にある速瓶玉を拜す形になる。いつの頃からこの形式を持っているのかわからないが、一の殿、二の殿が肥後國一之宮、二之宮であるにも關わらず、不可思議なことであるが、これは、やはり、阿蘇氏が國造社を最重要視していたことを物語るのであろうか。

幣立神宮

2011年11月24日 19時16分44秒 | 九州(宮崎、熊本、鹿児島、沖縄)
■拜殿、本殿■
(June 17th 2011)
 


★幣立神宮★ 熊本県上益城郡山都町大野712

・舊社格は社。

・祭神は神漏岐命、神漏美命、大宇宙大和神、天御中主大神、天照大神。神代七世の大神、天神七代の大神、地神五代の大神、五色神を配祀。

・日ノ宮と稱された。

・竹内文書によると、延喜年間(901-923)に阿蘇大宮司が天照大神を主祭神として祀ったとする。また、元伊勢宮として、祖神を天之御中主とする日の神が祭り、世界の全ての神は天之御中主から生まれたとしている。

・『熊本縣神社誌』によると、延喜元年(901)、阿蘇友成は本社を造替して健磐龍命を配祀奉り、天養元年(1144)には阿蘇友隆が本社を造営して阿蘇両宮を配祀した、とされる。

・『大日本史』に見える「知保の千穗嶺」が當社の所在地であると主張する。

・筑紫の屋根の傳承のように神殿に落ちる雨は東西の海に注いで地球を包むことより、天原日の宮の傳承を持つ國始めの尊宮を自稱する。

・古來天神地祇を祭った神籬が日本一の巨檜として現存していることを主張。

・古史古傳による一説によると、神武天皇の発輦の原点で、皇孫健磐龍命が勅命によって、天神地祇を祭った、とする。

・天神が宇宙界より降った天原といい、太古から天原日の宮と呼ばれ、一世(いせ)の宮と稱される。

・天神の降臨地に生えた檜を、太古から一世内宮(いせうちのみや)と崇め、現在は十代目であるとされる。

・一世外宮(いせそとのみや)と仰がれる神杉を、天御中主尊の手植え六代目と傳える。

・文安二年(1445)、天文十四年(1545)、天正十年(1582)、阿蘇氏の造営があり、現在の社殿は享保十四年(1729)、細川宣紀の改修したものである。


■一之鳥居■
(June 17th 2011)
 


■參道石段■
(June 17th 2011)

 


■二之鳥居■
(June 17th 2011)
 


■手水舎■
(June 17th 2011)
 


■拜殿■
(June 17th 2011)
 


■本殿■
(June 17th 2011)
 


■末社水神宮■
(June 17th 2011)


・祭神は水波能賣神、日子八井命。
・西の御手洗の神。


■末社大野神社■
(June 17th 2011)



・祭神は應神天皇、健磐龍命。
・大野神社が幣立神宮に社の社格が與えられた理由であるという。


■末社東の宮■
(June 17th 2011)


・祭神は風の宮大神、雨の宮大神、火の宮大神。


■天神木「千穗」■
(June 17th 2011)
 


■神代の伊勢一世の大楠「伊勢の内宮」■
(June 17th 2011)


 


■火の玉神木■
(June 17th 2011)
 

・明治三十六年(1903)七月三日、この檜より火が出たので「火の玉神木」という。これは日露開戰の證であった。そこで國起こしの人材が望まれて「人間樹木出生説」が生まれた。現宮司もその一人であるとする。


■東御手洗への參道■
(June 17th 2011)
 


■田■
(June 17th 2011)
 


■東御手洗(水玉池)■
(June 17th 2011)
 


 

・饒速日命が當池の水を持ち全國主要地を淨めた、という。
・秦の始皇帝は「不老不死」の靈藥をこの神水に求めた、とも傳えられる。
・太古より八大龍王鎭まりしところで、北辰妙見大神が祀られる。
・神代、天村雲姫が水を頂いた靈地とされ、この水のかかるところに、西御手洗の主基田を移したので、田迎えと稱され、大嘗祭の由基田の起こりとなっているという。


■末社東御手洗社(水神社)■
(June 17th 2011)

 

・祭神は北辰妙見大神。


■東御手洗源泉■
(June 17th 2011)


 


((コメント))

2011年6月17日

 二度目の幣立神宮。平成二十年(2008)の十一月にも訪問しているが、その折に東御手洗へ行かなかったための訪問である。當社はパワースポットとしてマニアには有名な九州の臍の位置に鎭座する神社であるが、その由緒などには怪しい点が多い。個人的にはほとんどは信用できないことであると考えており、『熊本縣神社誌』からの記述も神社側からの情報であるとすれば、書面どおりに信用することは難しいと思われる。

 遠き昔、阿蘇山が噴火によりその山頂部を失う以前は、一万メートルを越える標であったことが推測されているが、もし、それが人類が生きていた時代であるとすれば、この地より阿蘇の山を拜んでいた可能性は否定できない。南側から太陽の光を受け、さぞ美しく見えたことであろう。そう考えると、あながち日の宮としても惡くはないかも知れぬ。ただ、個人的に神社などから得られる情報については正直なところ、信じることは難しい。この神社の背後には、崇眞光があるとされ、竹内文書が重要と考えられているからであり、この文書は、古史古傳の一つであり、歴史的に信憑性が低いとされている。竹内文書は神代文字による文書、武烈大王の勅命によりの平群眞鳥が漢字とカタカナ交じり文に訳したとする寫本群と、文字の刻んだ石、鉄剣など、一連の總稱とされるが、まず第一に、古事記、日本書紀の記述と大きく異なっているということで、異端視されているものであり、それ以前に、武烈王朝時代にはカタカナが存在するはずもなく、一般にその二百年は後に生まれた文字であるので、この段階で「武烈大王の勅命によりの平群眞鳥が漢字とカタカナ交じり文に訳した」ということは僞りとなる。まず、これらの信憑性を求めるためには、竹内文書とされる遺物を科学的に調査し、作成年代の推定が必要である。もちろん、日本國にて行う場合は、内容が内容なので信用できないと考えるならば、海外で調査を受けねばならぬであろう。さらに、内容によっては、遺伝子調査、遺跡、記述にあることを裏付ける物的証拠が複數なければ根拠を示すことは出來ない。故に、非常に神社の主張は疑い多き内容となるのである。

 靈能者や靈感のある人たちは東御手洗に龍がいるというが、それはどうなのであろうか。前回訪問時にも感じたが正直のところ、境内全體に良い氣を感じることはない。むしろ、何かうねるような黒い影が見えるというほうが、個人的には正確な表現であるといえる。東御手洗の水玉池には淨化の力どころか、訪問時はかなり、穢れ、腐敗氣味であり、生き物も死しており、八大龍王どころの話ではなかった。元元、私と八大龍王の關係は良くないが、ここにいるようには感じられない。むしろ別の何か、自分に敵對するものの氣が殘っていると感じるのみであり、前回訪問時と変わりはない状態であった。このことに關しては思うところはあるが、公に書く必要はないことであるので触れないが、哲学レベルで、隔世的に私に受け繼がれた血の中に坐すものとの格が違うからなのであろう。しかし、火の玉神木の説明文には呆れさせられるものである。