の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

綏天皇桃花鳥田丘上陵 / 綏靖天皇桃花鳥田丘上陵

2015年12月25日 16時13分07秒 | 天皇陵、皇族墓所
■綏天皇桃花鳥田丘上陵■
(16th April 2009)



★綏天皇桃花鳥田丘上陵★ 奈良県橿原市四条町字田ノ坪

・人皇第二代綏天皇陵。

・『日本書紀』では渟名川耳尊、『古事記』では沼河耳命という。

・父は人皇第一代武天皇(倭伊波禮琵古命、日本磐余彦尊)、母は三輪大物主の娘、媛蹈鞴五十鈴媛命(比賣多多良伊須氣余理比賣)。

・綏という呼稱は、奈良時代後期の文人淡海三船が歷代天皇の漢風諡號を一括撰進したときに付されたとされ、「綏」も「」も「やすらか」の意であり「綏」で「安らかに落ち著く」の意がある。

・缺史八代の一人で、實在しない天皇と捉える見方が一般的であるが實在說もある。

・宮は葛城丘宮。

・南北朝時代に安居院澄憲の子孫によって編まれたとされる『道集』によれば、綏天皇には食人の趣味があり、朝夕に七人もの人人を食べ、周圍を恐怖に陷れたため、人人は「近く火の雨が降る」との虚言を弄し、天皇を岩屋に幽閉して難を逃れたという逸話がある。


((コメント))

2009年4月16日

 橿原宮周辺の天皇陵に行ったことがなかったのでコースに入れれる綏天皇陵へ向かった。特に、實在している人物とも思っていないし、古代の大王家には思うところもあるのでまったく敬う氣持ちはないが、まあ、一度は行くのもよかろう、ということである。特に、感じるものは何もないところであり、寫眞を撮り、立ち去ることにした。

安天皇阿彌陀寺陵 / 安徳天皇阿弥陀寺陵

2014年08月17日 00時44分37秒 | 天皇陵、皇族墓所
■御陵■
(11th November 2008)



★安天皇阿彌陀寺陵★ 山口県下関市阿弥陀寺町

・人皇第八十一代安天皇陵。

・倉天皇の皇子で、母は建禮門院子。故に、平盛の外孫に當たる。

・數十箇所の陵墓の傳承地より、明治時代にこの地が御陵として比定された。

・前身となった阿彌陀寺御影堂は、源朝が安天皇の怨靈を鎭めるために建てられたものという。


((コメント))

2008年11月11日

 平家が敗北し、滅びた壇ノ浦にある。初めて行った。大人の權力爭いの戰さに卷き込まれ、物心付く前に海に沈んでいくことになった悲しき帝に冥。

孝安天皇玉手丘上陵

2014年08月11日 21時43分08秒 | 天皇陵、皇族墓所
■孝安天皇玉手丘上陵■
(7th March 2013)



★孝安天皇玉手丘上陵★ 奈良県御所市玉手宮山

・孝昭天皇四十九年(紀元前427)生、孝安天皇百二年一月九日(紀元前291.2.27)沒。

・人皇第六代。

・日本足彥國押人尊、または大倭帶日子國押人命ともいう。

・父は人皇第五代孝昭天皇。母は世襲足媛。

・皇后は兄である天足彥國押人命の娘である押媛。

・皇居は室秋津島宮。

・事績は全く傳えられていない。

・在位百二年は歷代天皇中最長だが、信憑性は皆無。

・『延喜式』によれば「兆域東西六町南北六町守戶五烟」であり、現在の圓墳は大きさが合わない。


■石標■
(7th March 2013)
 


■孝安天皇玉手丘上陵■
(7th March 2013)



((コメント))

2013年3月7日

 孝安天皇陵。しかし、なぜ「孝」のつく天皇の御陵は登るところが多いのだろう、と思う。しかし、缺史八代の一代であるが、實在說、非實在說ともにあるのだが、個人的にあまり興味がないために、どうとも言えない。しかも、事績が傳えられていないという所が謎である。ただ、そこに誰かがいたとは思うのである。一人の人物がいたのか、そこの一族の總合したものかわからないが、何らかの理由はあるのであろう。



鳥天皇安樂壽院陵 / 鳥羽天皇安楽寿院陵

2014年06月03日 17時54分36秒 | 天皇陵、皇族墓所
■陵■
(3rd March 2012)



★鳥天皇安樂壽院陵★ 京都府京都市伏見区竹田浄菩提院町

・人皇第七十四代。

・諱は宗仁。

・人皇第七十三代堀河天皇の皇子。母は贈皇太后藤原苡子。外祖父は藤原北家閑院流藤原實季。

・父堀河天皇の死後、五歳で即位。政務は白河法皇が執った。世に言う院政である。

・永久五年(1117)、白河法皇の養女である藤原璋子(待賢門院)が入内、その翌年に中宮となる。璋子が第一皇子である顯仁親王こと、のちの崇天皇を產むが、入内前に白河院が手をつけて產ませた子という說もあり、いずれにせよ、鳥院はこの親王を疎んだという。このことは、後の保元の亂の原因のひとつとなっている。ちなみに、『古事談』によると、鳥院は崇のことを、「本來、叔父であるにも關らず、子である」ということで「叔父子」と呼んだとされる。

・白河法皇死後、大治四年(1129)より院政を敷く。白河法皇に疎んじられていた藤原忠實を呼び戾し、娘の泰子(陽院)を入内させるなど、院の要職を自らの側近で固めるにいたる。

・康治元年(1142)には東大寺戒壇院にて受戒し、法皇となる。

・鳥の安樂壽院御所にて崩御、遺諡によって、鳥羽院と追號されたが、明治以後、院號は廢止、鳥天皇とされる。


■陵■
(3rd March 2012)



((コメント))

2012年3月3日

 鳥法皇が死んだ地がここであり、その時に驅けつけた系圖上の一宮であった崇上皇は中に入ることを許されず追い返され、保元の亂となっている。その舞臺にまさしくいたということに驚く。崇上皇は個人的に好きな人であり、先祖とは幾ばくかの緣もある方であり、この時代に生きておれば、有馬の熊野水軍を率いて、崇上皇方についただろうと思うが、實際には戰さを知らぬ藤原通が如きの言うことを聞き、ただでさえ不利であるのに勝ち目を失っているのだから切ない戰さである。今の自分の生き方からすると從わずに鎭西八爲朝をこっそり抜け出して、義朝、義康、盛が出ていたを縫い、帝や通憲、忠通を生け捕りにしようと試みたのではなかろうかと思ってしまう。そもそも、戰さが出來そうな人があとは賢のみで、宇野親治が生け捕られている段階でどうしようもなかったであろうから。敗北を予測して、院の逃走經路を確保し、熊野の山中で追っ手と戰う道を選んだかもしれない。

近衞天皇安樂壽院南陵 / 近衛天皇安楽寿院南陵

2013年11月24日 08時33分16秒 | 天皇陵、皇族墓所
■御陵■
(3rd March 2012)
 


★近衞天皇安樂壽院南陵★ 京都府京都市伏見区竹田浄菩提院町

・人皇第七十六代。

・諱は體仁。

・鳥羽天皇第九皇子。母は美門院藤原得子。

・皇后は藤原公能女、藤原長養女の藤原多子。中宮は藤原伊通女、藤原忠通養女の藤原呈子。

・母得子が鳥院の寵愛を受けていたことで、わずか二歳のとき、兄である崇天皇に代わり即位。治世中は鳥上皇の院政が敷かれた。

・病弱で十五歳の時には一時失明の危機にも陷ったといい、このとき、藤原忠通に退位の意思を傳えたという。

・十七歳で薨去。その後、異母兄の後白河天皇が即位し、このことが保元の亂の原因のひとつとなる。

・陵墓には新御塔と呼ばれる豐臣秀再建の多寶塔が使われている。


■御陵■
(3rd March 2012)

 


((コメント))

2012年3月3日

 近鉄竹田駅から線路沿いを南に少し行ったところにある安樂壽院という寺院の南側にある陵が人皇第七十六代近衞天皇安樂壽院南陵に比定されている。この邊りは鳥離宮の一角であったようである。興味深いことに陵には多寶塔が建っており、これをもって御陵としているようである。この形式の天皇陵は初めてであるので少し驚きであるが、なかなか、美しい。病弱で若くして世を去った近衞帝、決して幸せであった人生とはいえない、と思うが、せめてもの手向けなのかもしれない。