の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

調田坐一事尼古社

2010年08月29日 21時00分18秒 | 近畿(奈良)
■一の鳥居■
(21st Febrary 2009)



★調田坐一事尼古社★ 奈良県葛城市新庄町疋田402

・延喜式内社、大和國葛下郡、調田坐一事尼古社、大、月次新嘗。

・舊社格は村社。

・祭は一事尼古大、事代主大。一事尼古大は、一言主と思われる。

・創建由緒等不詳。

・『新抄格勅符抄』の護景雲四年(770)の記録に名前が見え、それ以前よりの鎭座であることがわかる。


■二の鳥居■
(21st Febrary 2009)



■拜殿■
(21st Febrary 2009)



■幣殿と本殿■
(21st Febrary 2009)



■絵馬■
(21st Febrary 2009)



((コメント))

2009年2月21日

 久しぶりに、疋田の一事尼古社に行ってみることにした。車でいけるかどうか心配であったが、東側から行くと、意外と簡単に行くことができ、驚いた。公民館に車を停めさせてもらい、社に行くと、職の方が清掃中であったので、邪魔をせぬよう写眞を撮影。

 ところで、今は葛城市になっているが、以前は、北葛城郡新庄町疋田。しかし、調田(つくだ)坐である。遠き昔、この地は「つくだ」と呼ばれていたのであろうか? 疑問だ。

 ちなみに、社自體は、普通の村の社という感じで、式内大社という風格は感じることはない。

大墓公阿弖流爲および磐具公母髓之塚

2010年08月29日 20時57分52秒 | 歴史上人物の墓所
■大墓公阿弖流爲および磐具公母髓之塚■
(18th November 2007)

 

★大墓公阿弖流爲および磐具公母髓之塚★ 大阪府枚方市牧野阪二丁目

・桓武天皇の御世、大和朝廷は今の東北地方を侵略途中にあった。有名な征夷大將軍坂上田村麻呂が東北侵略の任務についていたとき。蝦夷といわれた本當のこの日本の先住民のであった民の頭領の一人が阿弖流爲であった。そして、母體はその副將であったといわれる。

・十年近く戰うも田村麻呂たちも確實な勝利を収めることができず、じりじりと寄せながらも勝負のつかない年月が續いていた。あるとき、戰の爲に傷んでいく土地を見、そこに住む民を見て、決して敗北していたわけではないのにもかかわらず、東北の地をこれ以上傷つけないために、と阿弖流爲は田村麻呂の下に投降する覚悟をしたのである。そして、母體もそれに從った。

・田村麻呂も立派な人で有名で、彼も決して勝利を収めた上での捕虜ではないのを知っていたが為に、阿弖流爲と母體の命をどうしても助命を請うたとされているが、前後の状況からすると信じがたく、むしろだまして捕虜にしたような感がある。

・桓武天皇とその周りの公卿たちはよほど度量が狹いのか、心にゆとりがないものの集まりであったのか、人の心を解せぬゆえにこの二人の北の大地の勇者を斬罪に処すことを決めたのである。

・阿弖流爲、母髓が斬られた地、眠っている地は確定していないが、この地がその論所のひとつ。


■大墓公阿弖流爲および磐具公母髓之塚■
(18th November 2007)
 


((コメント))

2007年11月18日

 實はこの前日17日に京都へ紅葉を見に行っていた。そのときに實は清水寺のライトアップにも行ったのだが、そこには阿弖流爲と母禮の碑がある。その關係かどうかは知らないが、家に帰ったあと、疲れて眠っているときに使者がやってきたのである。古代の装束を着ている男が大魔のような形相でうちのドアを叩くのである。何か不穏なものを感じ、開けたら負けだ、と思い、ドアの前で対峙していたら彼はいなくなった。そして、朝に相方にふと話すとそのあと彼は彼女のところに行ったのだとか・・・

 まあ、よくはわからないが、阿弖流爲というのがキーワードになったようで、インターネットで検索し首塚を見つけ行くこととなった・・・京阪牧野駅の近くにある河内國一之宮を自稱する(本来は、おそらく交野一之宮)片埜社にあるということであったので行った。

 首塚は、社の横の公園の中にさびしくあった・・・ 少年野球をしている子供たちがいたが、阿弖流爲や母體のことなど知る由もないのだろう。

備前國一之宮吉備津彦社

2010年08月29日 20時53分10秒 | 中国(岡山、広島、山口)
■池■
(10th November 2008)



★備前國一之宮吉備津彦社★ 岡山県岡山市一宮1403

・式外社。

・舊社格は官幣小社。

・主祭は大吉備津彦命。吉備津彦命(大吉備津彦命御子)、孝靈天皇(大吉備津彦命父)、孝元天皇(大吉備津彦命兄弟)、開化天皇(孝元天皇御子)、崇天皇(開化天皇御子)、彦刺肩別命(大吉備津彦命實兄)、天足彦國押人命(孝昭天皇御子)、大倭迹迹日百襲比賣命(大吉備津彦命姉)、大倭迹迹日稚屋比賣命(大吉備津彦命妹)、金山彦大、大山咋大を配祀。

・大化改新の後、吉備國が備前、備中、備後に分割、以後、備前國一之宮として崇敬される。

・社傳では推古天皇の時代に創建されたとし、體山と仰がれる吉備中山の裾の、大吉備津彦命の住居跡に社殿が創建されたのが起源とする。

・延喜式内社で名大社であった安仁社が、天慶の乱において藤原純友に味方し、吉備津彦社が朝廷に味方したことから、一之宮の地位が変わることになったという。

・戰國時代には、日蓮宗を信奉する金川城主松田元成による燒き討ちに遭い社殿を燒失している。


■鳥居■
(10th November 2008)

 

■參道■
(10th November 2008)
 


■隨門と石燈籠■
(10th November 2008)



■拜殿■
(10th November 2008)




■拜殿、祭文殿、本殿■
(10th November 2008)



■本殿■
(10th November 2008)


 岡山県指定文化財。

・寛文八年(1668)、岡山藩主池田光政が造営に着手し、その子綱政の元禄十年(1697)に完成。
・流麗な三間社流作りの殿は飛鳥時代社殿建築の粋がつくされており荘嚴華麗にして吉備國の社建築が傳統とする「流れ造り」の正統な姿を示す社殿としても貴重。
・古代の熱田宮の社殿配置にならい、本殿、渡殿、祭文殿、拜殿と大社殿が一直線に配置。


■樂御崎社■
(10th November 2008)
 

・本殿の両脇に鎭座する小社。
・樂樂與里彦命、樂樂森彦命を祀る。左右どちらに祀られているかは不明。
・祭は吉備津彦命が吉備國を平定する時に活躍された從者という。


■尺御崎社■
(10th November 2008)


・樂御崎社と同様、本殿の両脇奥に鎭座。
・夜目麻呂命、夜目山主命を祀る。
・吉備津彦の從者という。犬、猿、雉を連想させる。


■攝社子安社■
(10th November 2008)

 

・祭は、伊邪那岐命、伊邪那美命、木花佐久夜姫命、玉依姫命。縁結び、子授け、安産、育児の様として廣く世に知られる。
・慶長年間、岡山藩備前監國の池田利隆が子寶に惠まれなかった際、祈願後たちまち名君と仰がれた光政の誕生をみたことは有名な話である。
・子安社の脇に自生する蕨を夫婦で食べると懐妊するという傳承がある。


■末社群■
(10th November 2008)



■龜島社■
(10th November 2008)


 祭は市寸島比賣命。


■吉備中山(體山)■
(10th November 2008)



■温羅社の横の末社■
(10th November 2008)



■元宮磐座への道■
(10th November 2008)

 


■龍社■
(10th November 2008)


 吉備中山山頂に鎭座。天の王龍、地の王龍(八大龍王)を祀る。


■經塚■
(10th November 2008)



■元宮磐座■
(10th November 2008)


 

((コメント))

2008年11月10日

 備前國一之宮吉備津彦社、備中國一之宮吉備津社と黒住教本部は吉備中山の麓にある。まあ、同じものを拜んでいるのだろう。

 元々、吉備津系はあまり興味のある社ではなかったので、この日にまとめていくことにした。社殿周辺は文化財なので見てまわったが、特に感じるものは無かった。その後、山を登り、元宮磐座と龍王さんのところまでいったが、あまりしんどい目をして行くほどのものではなかったと思う。まあ、しょぼい感じ。感想としてはそんなところ。ま、一度行ったので、満足である。

出雲國一之宮熊野大社

2010年08月15日 21時26分33秒 | 中国(鳥取、島根)
■本殿■
(12th June 2010)
 


★出雲國一之宮熊野大社(舊下ノ宮)★ 島根県松江市八雲町熊野2451

・延喜式内社、出雲國意宇郡、熊野坐社、名大。

・舊社格は國幣大社。

・祭は熊野大櫛御氣野命、亦の名素盞嗚尊という。『延喜式』に収める「出雲國造賀詞」には「伊射那伎乃日眞名子加夫呂伎熊野大櫛御氣野命」とあり、「靈妙なる御食つ」という意味の名が明記されている。

・『出雲國風土記』にある出雲四大の一。他の三大は杵築、佐太、野城。

・古來より、杵築大社(現出雲大社)の上位に置かれていた。

・鎌倉時代頃までは一之宮の稱は當社が與えられていたが、鎌倉期以降は杵築大社に移ったようである。

・『和名抄』によると、熊野の「くま」は「久万之禰」の「くま」とし、すなわち米の意に通じる。また、「隈隈しい」所という意味の「隈」と考えられている。

・本居宣長は『古事記傳』以降、紀伊と出雲の熊野について、本末關係を説明しようとする向きが多いが、實際、『延喜式』名帳において、熊野坐社、熊野社が、出雲、紀伊、丹後、越中、近江と、出雲、紀伊の二か國に留まらず、この關係は成立しないと思われる。

・元宮は海抜六百十メートルの天狗山にあり、風土記の記す「熊野山」とされる。

・『出雲國風土記』では熊野大社とされていたが、『延喜式』名帳では熊野坐社と記された。

・社傳では熊野村の住人が紀伊國に移住したときに分靈を勧請したのが熊野本宮大社の元であるとし、往古、出雲で炭焼きを業としていた有馬氏が遙か紀の國に移動したというが、三重県熊野市の有馬は榎本が本姓であり、元々、熊野の海人族と考えられている上に、出雲國との關連がある傳承は皆無である。その上、天文十一年(1542)の大内氏の富田城攻撃の際に社殿が全燒し、明治六年(1873)の意宇川の氾濫により社地の一部が流され、文書類は消失したというのに社傳が殘っているというのもまた奇なことである。また、この社傳は、平安の末頃から始まる紀州の熊野の進出により、創建された熊野社が「熊野上ノ宮」と呼ばれるようになったことに對抗するものであると思われる。

・現熊野大社(熊野下ノ宮)が古來よりの熊野大社と考えられているが、近世、現熊野大社社地の上手約一町のところに紀州系の熊野社が建てられ、上ノ宮が建てられ、下ノ宮の祭は天照大となっていたが、これは、紀州系への対抗策であったと考えられている。

・明治維新に至り、社整理が行われたときに當社も上下の宮を一本化し、「熊野社」と改めた。明治十年(1877)には、舊上ノ宮を伊邪那美社と改稱し、これと下ノ宮前面にあった稻田社とを攝社とし、本殿の両側へと遷した。昭和五十二年(1977)、社名を熊野大社と改めた。

・中世以來の文書に見える社家は鈴木氏と稱し、のちに熊野氏と改稱。明治維新まで続くが、明治の國家管理時代に入ってからは官選宮司となり、現在では出雲大社の千家教統がこれを兼務している。


■一の鳥居■
(30th December 2007)

 

■參道■
(30th December 2007)



■橋と三の鳥居■
(30th December 2007)
 

(12th June 2010)



■隨門■
(30th December 2007)

(12th June 2010)
 


■境内■
(12th June 2010)



■拜殿■
(30th December 2007)



■本殿(向かって左は伊邪那美社)
(30th December 2007)

(12th June 2010)
 


■攝社伊邪那美社■
(30th December 2007)


・祭は伊奘冉尊。他十九社合祀。
・延喜式内社、出雲國意宇郡、能利刀社論社、合祀。
・延喜式内社、出雲國意宇郡、田中社、合祀。
・延喜式内社、出雲國意宇郡、楯井社、合祀。
・延喜式内社、出雲國意宇郡、速玉社、合祀。
・延喜式内社、出雲國意宇郡、布吾彌社論社、合祀。
・元元、上之宮の社殿。
・本社本殿に向かって左に鎭座。


■攝社稻田社■
(30th December 2007)

(12th June 2010)
 

・祭は眞髪觸奇稻田姫。脚摩乳、手脚乳、少彦名命を配祀。
・延喜式内社、出雲國意宇郡、前社、合祀。
・本殿に向かって、右隣に鎭座。


■社號標■
(12th June 2010)
 


■末社荒社■
(12th June 2010)
 

・祭は素戔嗚尊。靇、闇靇、罔象女を配祀。


■末社稻荷社■
(12th June 2010)
 


■舞殿■
(30th December 2007)

(12th June 2010)
 

 舊拜殿を改築。


■鑽火殿■
(30th December 2007)


 立札より、
「御祭スサノオノ大は「檜の臼、卯木の杵」で火を鑽り出す法を教えられた。熊野大社は「日本火出初社」とも讃えます。出雲國造(出雲大社宮司)は、大の靈幸い給う器の燧臼、燧杵を拜戴し、鑽火して「火繼=靈繼」の式を仕えなければ、その職を襲職することが出來ません。大の靈威を戴き性國造となります。この鑽火殿はその古傳由緒を傳える建物であり、器が奉安してあります。毎年十月十五日の鑽火祭は古來からのしきたりの重儀であり、出雲國造が器を拜戴するために參向して人の歌、琴板によって榊舞百番を納めて慮一滯の祝壽をします。これに先立って特殊な『龜太夫事』が奉仕されます。」


■巫女さん■
(30th December 2007)



((コメント))

2007年12月30日

 雪が降る最中に参拝。本当は上の社跡にも行きたかったが断念。実は、紀伊の熊野との関連が何か見つからないかな、と思ってやってきたが、正直、何も見つからなかった。神社の持つ神気の種類も異なり、直接的な関係はないと感じる。

2010年6月12日

 舊熊野下ノ宮である、現熊野大社。二度目の訪問である、前回は年末で雪が降るときであったので境内の眺めは少し異なるように感じるが、やはり、出雲大社よりは心地いい氣を持っているのは否定できない。

 紀伊の熊野とは異なる氣を持っておるが、それは、土地の問題もあるのでつながりを否定しうる材料ではないが、熊野三山ではなく有馬の名を社傳に殘していることに何かの關係を浮かび上がらせているように思う。個人的には、やはり、出雲の民は、紀和の出雲族の殘党と思えるのである。 

大田社

2010年08月13日 00時35分53秒 | 近畿(滋賀、京都)
■社號標、鳥居■
(16th January 2008)



★大田社★ 京都府京都市北区上賀茂本山340

・延喜式内社、山城國愛宕郡、太田社。

・祭は天鈿女命。猿田彦命を配祀。

・山城國一之宮賀茂別雷神社第三攝社、境外攝社。

・口傳によると、壬生、丹生、小野、六人部等の氏族が先に上賀茂に居り太田社を奉祀していたが、のち賀茂族がこの地に入ってから賀茂社の攝社となった。

・明治の佛分離以前には、大田の沢のすぐ南に宮寺があったというが、その歴史等は不詳。

・賀茂に於ける最古の社。

・古くは、「恩多社」ともよばれたという。

・大田、白鬚、百大夫、の四柱をもって、大田社が形造られ、四不可離の關係にある。これより、大田とは四柱のを總括したとして崇め奉るのが本肯であるという。


■拜殿■
(16th January 2008)



■本殿■
(16th January 2008)



■末社白鬚社■
(16th January 2008)


・祭は猿田彦命。


■末社百大夫社■
(16th January 2008)


・祭は船玉。


■末社鎭守社■
(16th January 2008)


・祭は大國主命と少彦名。


■末社社■
(16th January 2008)


・祭は。
・鎭座年代不詳。
・サンヤレ祭りは當社の祭でその行列はが村内道路を巡り給いしにかたどると云う。


((コメント))

2008年1月16日

 一月は、木々に葉もなく、人もいないので多少寂しげな感じではある。寂しげであるのだけでなく、様がいるような氣配もまったくなく、社自體が形骸化しているような氣がして仕方がなかった。