■本殿■
(22nd May 2010)
★篠村八幡宮★ 京都府亀岡市篠町篠上中筋45-1
・祭は譽田別命、仲哀天皇、功皇后。
・延久三年(1071)、後三条天皇の勅により、源義が、河内國應天皇陵に鎭座の譽田八幡宮より勧請し創建したと傳える。
・翌延久四年(1072)五月十三日付の義の寄進状も現存するらしい。
・元弘三年(1333)四月二十九日、當社に戰勝祈願の願文を奉じて十日間滯在の後、足利氏は首尾よく六波羅探題を滅ぼした。
・後醍醐天皇と決別後の建武三年(1336)一月三十日、京都攻防戰で敗れた尊氏は二月一日まで當社で敗殘の兵を集めるとともに社領を寄進、再起を祈願して九州に落ちていった。
・尊氏にとって重大な岐路で二回、この篠村八幡宮に祈願をこめて大願成就していることから、貞和五年(1349)、自らお禮參拜したという。
・應仁の乱や明智光秀の丹波攻略の戰火により社殿や社領の多くを損失したが、寛永年間に龜山城主菅沼定芳により本殿が改修され、以来、源姓龜山城主の直轄社として庇護を受けた。
■拜殿■
(22nd May 2010)
■本殿■
(22nd May 2010)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/c5/ccca6fc169fab4921370a8dede94b0d2.jpg)
■境内社乾疫社■
(22nd May 2010)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/b0/3370bbc196f84e756a593871f28c5957.jpg)
・祭は建速須佐之男、大己貴、少彦名。
・篠村八幡宮境内に鎭座。
・日本最古の疫社の一つ。
・平安遷都以來、山隂道から都に惡疫や災難が入るのを防ぐために勅願の祭典が度度、執行されていたが、その場所に、正暦五年(994)頃に社を設けて常にお祭りをするようになった社。
■祖靈社■
(22nd May 2010)
・歴代職の御靈とともに、昭和五十二年(1977)に靖國社から勧請した地元から出征の大東亞戰争による五十五柱の戰没者の英靈を合祀。
■末社小宮社■
(22nd May 2010)
・向かって右から左にかけて、一殿目が秋葉社および愛宕社、二殿目は住吉社、春日社、日吉社、三殿目は皇大宮、豐受大、四殿目は天滿宮。
■末社祓戸社■
(22nd May 2010)
■矢塚■
(22nd May 2010)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/f1/0dbec71310d85d5dc950bd645baee704.jpg)
亀岡市指定史跡
・足利氏が必勝祈願の願文を奉じた後、玉串に代えて鏑矢を奉納した地。
・實弟の直義以下、竝居る武將達が次々と戰勝祈願を込めて祈った後、氏に倣って鏑矢を奉奠したため社前には矢が山のように積まれたという。
・室町時代初期の歴史書にも由緒が明記されていたという。
■足利氏旗立楊■
(22nd May 2010)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/34/029cd1e4fd26e76908e1405f7cc04550.jpg)
・社前で決意を明らかにして後、軍勢督促状に従って氏陣営に駆けつけてくる近の武將達に氏本営の所在を明らかにするため、山隂道に面して聳え立つ楊に『二つ引両』の家紋が入った白旗を掲げたところ。
・現在のは挿し木された若木という。
((コメント))
2010年5月22日
一度、訪問したことがあったのでこの度は予定していなかったが、桑田社に行ったついでに少し時間があったので立ち寄った。いわゆる、足利尊氏には縁のある社である。
境内に入ると、声がしたので見ると、土俵で相撲の稽古をしていた。少し、ちびっこの稽古っ振りを見させていただき、その後、帰りの長旅へと出た。
(22nd May 2010)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/7d/97b06241080493f90ac0a0c9435aebe8.jpg)
★篠村八幡宮★ 京都府亀岡市篠町篠上中筋45-1
・祭は譽田別命、仲哀天皇、功皇后。
・延久三年(1071)、後三条天皇の勅により、源義が、河内國應天皇陵に鎭座の譽田八幡宮より勧請し創建したと傳える。
・翌延久四年(1072)五月十三日付の義の寄進状も現存するらしい。
・元弘三年(1333)四月二十九日、當社に戰勝祈願の願文を奉じて十日間滯在の後、足利氏は首尾よく六波羅探題を滅ぼした。
・後醍醐天皇と決別後の建武三年(1336)一月三十日、京都攻防戰で敗れた尊氏は二月一日まで當社で敗殘の兵を集めるとともに社領を寄進、再起を祈願して九州に落ちていった。
・尊氏にとって重大な岐路で二回、この篠村八幡宮に祈願をこめて大願成就していることから、貞和五年(1349)、自らお禮參拜したという。
・應仁の乱や明智光秀の丹波攻略の戰火により社殿や社領の多くを損失したが、寛永年間に龜山城主菅沼定芳により本殿が改修され、以来、源姓龜山城主の直轄社として庇護を受けた。
■拜殿■
(22nd May 2010)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/0f/43ccdf9e917d689f1e3f792ff068b1f7.jpg)
■本殿■
(22nd May 2010)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/c5/ccca6fc169fab4921370a8dede94b0d2.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/b2/276131155dff19bda2cb726efffbc853.jpg)
■境内社乾疫社■
(22nd May 2010)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/b0/3370bbc196f84e756a593871f28c5957.jpg)
・祭は建速須佐之男、大己貴、少彦名。
・篠村八幡宮境内に鎭座。
・日本最古の疫社の一つ。
・平安遷都以來、山隂道から都に惡疫や災難が入るのを防ぐために勅願の祭典が度度、執行されていたが、その場所に、正暦五年(994)頃に社を設けて常にお祭りをするようになった社。
■祖靈社■
(22nd May 2010)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/7a/12af17c3c2b96cea29e981b1e5d6318d.jpg)
・歴代職の御靈とともに、昭和五十二年(1977)に靖國社から勧請した地元から出征の大東亞戰争による五十五柱の戰没者の英靈を合祀。
■末社小宮社■
(22nd May 2010)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/0b/5041fb2c10012184db5fa6640f367c00.jpg)
・向かって右から左にかけて、一殿目が秋葉社および愛宕社、二殿目は住吉社、春日社、日吉社、三殿目は皇大宮、豐受大、四殿目は天滿宮。
■末社祓戸社■
(22nd May 2010)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/e1/ee2f863c3d6b6fb9f71ae225ab6ba3e0.jpg)
■矢塚■
(22nd May 2010)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/f1/0dbec71310d85d5dc950bd645baee704.jpg)
亀岡市指定史跡
・足利氏が必勝祈願の願文を奉じた後、玉串に代えて鏑矢を奉納した地。
・實弟の直義以下、竝居る武將達が次々と戰勝祈願を込めて祈った後、氏に倣って鏑矢を奉奠したため社前には矢が山のように積まれたという。
・室町時代初期の歴史書にも由緒が明記されていたという。
■足利氏旗立楊■
(22nd May 2010)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/34/029cd1e4fd26e76908e1405f7cc04550.jpg)
・社前で決意を明らかにして後、軍勢督促状に従って氏陣営に駆けつけてくる近の武將達に氏本営の所在を明らかにするため、山隂道に面して聳え立つ楊に『二つ引両』の家紋が入った白旗を掲げたところ。
・現在のは挿し木された若木という。
((コメント))
2010年5月22日
一度、訪問したことがあったのでこの度は予定していなかったが、桑田社に行ったついでに少し時間があったので立ち寄った。いわゆる、足利尊氏には縁のある社である。
境内に入ると、声がしたので見ると、土俵で相撲の稽古をしていた。少し、ちびっこの稽古っ振りを見させていただき、その後、帰りの長旅へと出た。