■拜殿■
(24th April 2009)
★白峯宮★ 京都府京都市上京区飛鳥井町261番地
・舊社格は官幣大社。
・祭は崇天皇、淳仁天皇。
・舊名白峯宮。
・保元の亂の後、崇上皇が讚岐に配流され、沒した。その後、天變地異が相次いだことから上皇の祟りとされ、上皇が葬られた白峯陵の前に、上皇を白峯大權現として祀る御影堂が建立され、下り、幕末の動亂期、孝明天皇が異に祀られている崇上皇の靈を慰めるため、その靈を京に移すよう幕府に命じたが、その後、もなく崩御。次の明治天皇がその意思を繼ぎ、現在地に社殿を造營し、慶應四年(1868)、御影堂の像を移して體とし白峯宮を創建。
・明治六年(1873)、藤原仲麻呂の亂に卷き込まれて淡路に配流されてそこで亡くなった淳仁天皇(淡路廢帝)の靈を淡路から迎えて合祀、官幣中社とした。
・昭和十五年(1940)に官幣大社に昇格、宮號の宣下を受けて白峯宮となった。
・社地は、蹴鞠の宗家であった公家飛鳥井家の屋敷の蹟地。
■社號標、鳥居■
(24th April 2009)
■門■
(24th April 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/dc/e1fa34e3b4e4c5acd3e876f661223685.jpg)
■舞殿■
(24th April 2009)
■本殿■
(24th April 2009)
■末社伴社■
(24th April 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/bd/455845fded0fe53080896a76622c8b28.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/43/d19e2a1e13c5fb587706af71914f3ece.jpg)
・祭は源爲義、源爲朝。
・弓矢、武道のとして崇敬を受ける。
■末社地主社■
(24th April 2009)
・中御前に大明、右御前に柊大明、絲元大明、左御前に白峯天、今宮大を祀る。
■末社潛龍社■
(24th April 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/d0/eb1209676a52aee0f0162ca475ffa0d1.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/32/2023dba406428a48296e53382026d823.jpg)
■木オガタマノキ■
(24th April 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/24/ed237bec25b27b60ac472fc1714dd0fe.jpg)
((コメント))
2009年4月24日
以前、讚岐の崇院の陵へ行った後、行きたいと思っていたので、この機會に京にある白峯宮を訪問。崇上皇という人は凄まじく不幸な生い立ちの方で、系圖上父に當あたる鳥院に叔父であるにもかかわらず、子と呼ばねばいけぬということから「叔父子」と呼ばれていた人である。鳥院の祖父に當たる白河院が手をつけていた女性を鳥院に嫁がせ、そのときに妊娠していたという話があるからである。白河院の生前はともかく、その死後は自分に罪がないにも關わらず、不遇の人生を歩んだといっても良く、ついに、鳥院の死後、保元の亂が勃發し、敗者側に担がれたことで、讚岐へ流刑となっている。
さらに數代下り、後鳥上皇が鎌倉幕府に對して、承久の變を起こした折、自らが罪がないにもかかわらず、自ら、嘆願し、土佐に流された土御門上皇が、崇院の陵の近くで祈りを捧げた折に、崇院が表れ、以後、細川氏に至るまでの、四國の守りとして、崇敬を受けている。江戶時代末についに、崇院の御靈が京へ戾られることになり、當社が創建となっている。その立地などは重要ではなく、「崇」「」という、祟りで恐れられた皇族の方に謚られた字が二つはいる天皇で、如何に、怨靈を恐れられたのかが傳わるが、是非、以後は安らかに眠っていただきたいものである。
ところで、自分の合しか考えていない、境内の眞ん中にタクシーを停める運轉手には、激しく罰を與えて欲しいものである。
(24th April 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/d9/fb2a4cbd94ad821cd82c231484219198.jpg)
★白峯宮★ 京都府京都市上京区飛鳥井町261番地
・舊社格は官幣大社。
・祭は崇天皇、淳仁天皇。
・舊名白峯宮。
・保元の亂の後、崇上皇が讚岐に配流され、沒した。その後、天變地異が相次いだことから上皇の祟りとされ、上皇が葬られた白峯陵の前に、上皇を白峯大權現として祀る御影堂が建立され、下り、幕末の動亂期、孝明天皇が異に祀られている崇上皇の靈を慰めるため、その靈を京に移すよう幕府に命じたが、その後、もなく崩御。次の明治天皇がその意思を繼ぎ、現在地に社殿を造營し、慶應四年(1868)、御影堂の像を移して體とし白峯宮を創建。
・明治六年(1873)、藤原仲麻呂の亂に卷き込まれて淡路に配流されてそこで亡くなった淳仁天皇(淡路廢帝)の靈を淡路から迎えて合祀、官幣中社とした。
・昭和十五年(1940)に官幣大社に昇格、宮號の宣下を受けて白峯宮となった。
・社地は、蹴鞠の宗家であった公家飛鳥井家の屋敷の蹟地。
■社號標、鳥居■
(24th April 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/7d/5598f4e22acaacba4a2bce7e35bc47bd.jpg)
■門■
(24th April 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/dc/e1fa34e3b4e4c5acd3e876f661223685.jpg)
■舞殿■
(24th April 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/fc/aa584c89ad69639b53f0b367eb770128.jpg)
■本殿■
(24th April 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/83/ab1be16999b7bd4cbab688d18c781c9b.jpg)
■末社伴社■
(24th April 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/bd/455845fded0fe53080896a76622c8b28.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/43/d19e2a1e13c5fb587706af71914f3ece.jpg)
・祭は源爲義、源爲朝。
・弓矢、武道のとして崇敬を受ける。
■末社地主社■
(24th April 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/74/6f8f960753a5ae42deca0012943698a2.jpg)
・中御前に大明、右御前に柊大明、絲元大明、左御前に白峯天、今宮大を祀る。
■末社潛龍社■
(24th April 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/d0/eb1209676a52aee0f0162ca475ffa0d1.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/32/2023dba406428a48296e53382026d823.jpg)
■木オガタマノキ■
(24th April 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/24/ed237bec25b27b60ac472fc1714dd0fe.jpg)
((コメント))
2009年4月24日
以前、讚岐の崇院の陵へ行った後、行きたいと思っていたので、この機會に京にある白峯宮を訪問。崇上皇という人は凄まじく不幸な生い立ちの方で、系圖上父に當あたる鳥院に叔父であるにもかかわらず、子と呼ばねばいけぬということから「叔父子」と呼ばれていた人である。鳥院の祖父に當たる白河院が手をつけていた女性を鳥院に嫁がせ、そのときに妊娠していたという話があるからである。白河院の生前はともかく、その死後は自分に罪がないにも關わらず、不遇の人生を歩んだといっても良く、ついに、鳥院の死後、保元の亂が勃發し、敗者側に担がれたことで、讚岐へ流刑となっている。
さらに數代下り、後鳥上皇が鎌倉幕府に對して、承久の變を起こした折、自らが罪がないにもかかわらず、自ら、嘆願し、土佐に流された土御門上皇が、崇院の陵の近くで祈りを捧げた折に、崇院が表れ、以後、細川氏に至るまでの、四國の守りとして、崇敬を受けている。江戶時代末についに、崇院の御靈が京へ戾られることになり、當社が創建となっている。その立地などは重要ではなく、「崇」「」という、祟りで恐れられた皇族の方に謚られた字が二つはいる天皇で、如何に、怨靈を恐れられたのかが傳わるが、是非、以後は安らかに眠っていただきたいものである。
ところで、自分の合しか考えていない、境内の眞ん中にタクシーを停める運轉手には、激しく罰を與えて欲しいものである。