やっぱり幸せ♪

日常の色んなこと、特に発達障害を持つ息子との素晴らしき日々を綴っていきたいと思います。

蛾の命

2015年05月31日 | 日記(息子・小4)

長さ1cmくらいの小さな小さな蛾が一匹、家の中に入り込んでいました。

 

今朝、テレビの前にいるのを息子が見つけました.

逃げ出す力もなく、時折ピクピク動くので、まだ生きているんだと分かるくらいにまで弱っていました。 

息子は、その小さな蛾が気になるようで、何も手につかず、ずっーと見守り続けていました。

 

「殺虫剤でシューしよう」と言っても、

「それは、やめて!」と、反対します。

「外に出してやろう」と言っても、

「飛んでいく?」と、心配して、

「多分、よう飛ばんと思う」と言うと、

「落ちたら、アリに食べられる!」と、反対します。

 

2時間半ぐらい蛾を見守り続けていた息子が、

「この蛾はどうなるの?」と聞いてきました。

「死んじゃうと思うよ」

「いつ、死ぬの?」

「さあ・・・。 2時間後かもしれへんし、夜になるかもしれへん。明日になるのか明後日になるのか分からんけど、寿命がきたら死んじゃうよ」

 

それから、しばらくして、「やっぱり、外に出してあげる」と、息子が言いました。

 

蛾を紙ですくって、庭草の葉の上にそっとのせました。

ここならアリが来ないと、息子も思ったようです。

 

息子は、10分置きぐらいに様子を見に行って、「まだ生きてる」と教えてくれました。

何度も何度も確認しに行ったあとで、「もう、見に行かへん!」と言って、

そのとおり報告しに来なくなったので、しばらく蛾のことは忘れていました。

 

お昼すぎ、「蛾がおらんようになった!」と、息子が言ってきました。

 

「風で飛んでいったのかな・・・。」と、私は言いました。

「あの蛾はな、頑張って、寿命まで生きたと思うで。」

 

「うん!」と、息子は、頷いてくれました。

 


痛い、痛い・・・

2015年05月30日 | 日記

昨日は、足と股関節が痛くて痛くて、どうにも我慢できず、何度も痛み止めを飲んでしまいました。

痛み止めは、胃の調子が悪くなるので、極力飲まないようにして、湿布で痛みを紛らわせていたけど、昨日は全然効いてくれませんでした

 

さらに、最近、首の調子も悪く、朝起きた時など、両手の中指から小指まで痺れていて、肩や首も鉛のように重たく感じます。

これは、ブログを始めたばかりで、ちょっと頑張りすぎたかなぁ・・・と、反省しています。

 

首は、息子が1歳頃から、ヘルニアになって、出たり消えたりしています。
その時の検査で、靭帯も石灰化して硬くなっていることが分かりました。
重いものは持たないようにとか、ゆっくり動くようにと注意されました。
息子を抱き上げることはもちろん、もし、二人目の子どもが生まれても、抱っこは出来ないと言われました。

 

だから、私は、息子が歩くようになってから抱き上げたことがありません。
座って、膝の上に座らせて、抱きしめることが精一杯でした。

息子が4歳の時には、臼蓋形成不全から股関節の痛みが酷くなり、歩くことはもちろん、1時間程度、ただ立っているだけでも座っているだけでも辛い時があります。

もし、私が元気な体だったら、息子をハイキングに連れて行ったり、一緒にボールの蹴り合いをしたり出来るのに・・・と、何度思ったことでしょうか。

 

それでも、出来ることはたくさんあります。

そばにいて、笑って、ご飯食べて、テレビ見て・・・
当たり前の日常生活が続けられるよう、体に気を付けながら、ぼちぼちやっていこうと思います。


「まんてんべんとう」

2015年05月28日 | 読書・読み聞かせ

昨夜、息子の寝る前に、「まんてんべんとう」(くすのきしげのり作 伊藤秀男絵)という絵本を読み聞かせしました。

 

明日は遠足。お母さんのお弁当はいつも自慢で、楽しみにしているなおくん。

でも、お母さんの具合が悪くなって、熱を出してしまいます。

そこで、なおくんが取った行動とは・・・!?

 

読みながら、涙がじわーっと浮かんで、うるうるしてしまいました。

お母さんを大切に思うなおくんと息子が重なって、息子が愛しくてたまらなくなりました。

 

 私は、日常の子供たちの心を温かく描き出してくれるくすのきさんの作品が大好きです。

そして、親として考えさせられます。

 

息子が1年生の時に、くすのきさんの「おこだでませんように」を読み聞かせしました。

そのとき、ポツリと、息子が、「ボクと一緒や・・・」と言いました。

 

「おこだでませんように」は、妹を泣かせたり、女の子を驚かせたり、お友達に手を出してしまったり・・・

何かがうまくいかなくて、いっつも先生やお母さんに怒られてばかりいる男の子の話です。

彼が、七夕の短冊に、一文字一文字一生懸命に書いた「おこだでませんように」の言葉。

この天に向けての願いが、息子も一緒だというのです。

 

その頃はまだ、息子の特性を理解しておらず、とにかく息子が困らないようにと、私は、必死で息子に注意し、しつけをしているつもりでした。

 

「そんなことしたら、お友達に嫌われるよ」とか、

「お友達がいなくなっちゃうよ」とか、息子を傷付けるようなことも、平気で言っていたと思います。

 

私を困らせたくてトラブルを起こすのではないことは分かっていたけど、

「怒られませんように」と祈るように思いながら、息子は、息子なりに気をつけて頑張っていたのです。

 

くすのきさんの作品に出てくるお母さんのように、私も、息子を抱きしめていました。


父のそれから・・・4

2015年05月27日 | 高次脳機能障害の父と・・・

父は、「なやクリニック」の高次脳機能デイケア『ばあど(B.I.R.D)』に、参加するようになりました。

 

私の家から父の住む高齢者住宅まで車で約40分、そこから「なやクリニック」まで約40分、「なやクリニック」から私の家までも約40分。

ちょうど正3角形を描くような感じで、父を「なやクリニック」に送っていき、帰りは逆向きで3角形を辿っていきます。

 

『ばあど(B.I.R.D)』については、いただいた「しおり」より、目標とプログラムを抜粋すると、

<目標>
 脳損傷で高次脳機能障害のある方が、家庭での生活を円滑に過ごせるよう、また、社会復帰(就学・就労)できるよう支援します。
 具体的には、人との関係作りが円滑に行える、楽しみが増やせる、障害の代償手段を身に付ける、認知機能を高める、日常生活の動作ができるなどのことを目標に行います。原則として、期限は1年とします。

<プログラム> 
 曜日によって、内容は少し異なります。基本的な内容は・・・

AM ・1週間のトピックスを話す練習、聞く練習、質問を考える練習
    ・ホームプログラムの立案と実施状況の確認
    ・認知課題(注意と記憶など)

PM ・各自の目的に応じた個別課題
    ・芸術・音楽・ゲーム・調理・スポーツ・川柳など
    ・掃除・お茶タイム・一日の振り返り

 その他、外出の企画や実施、イベントの企画なども行います。

 

父を送ったついでに、診察の予約を入れてもらい、困った出来事を相談にのっていただくとともに、デイケアにもフィードバックしてもらっていました。

 

先生との会話を重ねていく中で、私は、少しずつ、父の障害を理解・受容できるようになっていったのだと思います。

その最たるは、高次脳機能障害は、治すものではなく、うまく付き合っていくものだということでした。

そのために、何を困っているのか、私自身が、父本人が、まず気付くことが大切だということでした。

 

父自身は、病識の欠如(自分の病気への認識がない)により、何でも出来るつもりでいるのですが、一つ一つ出来ないことを明らかにし、そのためにどうしたらいいのか、代償手段を身に付けていかなければなりません。

また、何かがうまく出来ないとかそれ以前の、父の持つ生き辛さを理解することが大切でした。

 

検査で分かった父の障害の実態の他にも、

意欲・発動性の低下により、自ら物事を始められない

易疲労性(いひろうせい)により精神的に疲れやすい

聴覚過敏のために、混乱・疲労しやすい

 などの困難があることも分かりました。

 

リハビリではどうにもならないことを幾つも抱えて、それでもなお、父は、自宅で生活することを強く望んでいます。

父のために、どうすればいいのだろうと、思い悩む日々が続きました。

 


ソーシャルスキル・トレーニング

2015年05月26日 | ソーシャルスキルトレーニングとその他支援

今日は、息子の通級教室で、ソーシャルスキル・トレーニングがありました。

 

「ソーシャルスキル」とは、対人関係や集団行動を上手に営んでいくための技能(スキル)のことです。
「こんなときには、どうしたらいいのかな?」というのを分かりやすく教えてくれる時間で、通級教室では、月1回ぐらい行ってくれます。

普段の通級教室は、クラスメート2人との3人ですが、ソーシャルスキル・トレーニングの時はもう少し多い人数で、今回は、4年生7人が集まって行われました。

 

はじめに、一人ずつ自己紹介をして、「今、はまっているもの」を発表しました。
次に、先生が一人ずつに質問し、児童は答と理由を発表します。
二つを合わせて、今度は、先生がみんなに問題を出します。

「レゴゲームにはまっていて、カブトムシが好きな人は誰ですか?」
という感じです。

お友達の話をしっかり聞いて、普段の教室では、あまり手を挙げられない子供達が、
「はい!はい!」と元気に手を挙げて発表していました。

 

次に先生方のロールプレイング。

コンパスを使って円を描こうとしているのですが、うまく出来ません。
先生が「こうしたらいいよ」と、アドバイスをしてくれるのですが・・・。

Aさんは、「もう、無理!」と叫んで教室から飛び出してしまう。
Bさんは、物に当たって、コンパスやプリントを机から落としてしまう。
Cさんは、アドバイスを聞いて、舌打ちし、「分かってんねん!」と声を荒げる。
Dさんは、泣き出してしまう。

という具合です。

 

子供達は、手を挙げて、それぞれの悪い所を発表し、周りの人の気持ち、そんな時どうしたらいいかを発表します。

「苦手なことも努力して頑張る」
「あきらめたらあかん」
「イライラせんと落ち着いたら、出来るようになる」
「人の話を聞く」
「教室から出て行ったら、心配する」
「『分かってんねん』って怒らんと、『ありがとう』って言う」

などの前向きな言葉がいっぱい出て、最後に、子供達が良い態度のロールプレイングをします。

息子も手を挙げて、ロールプレイングに挑戦しましたが、演技ではなく、本当にコンパスが使いこなせなくて苦戦していました。

でも、イライラせずに一生懸命やっていたから、格好良かったよ

 

最後は、3つの特徴にあった絵カードをとるという、カルタのようなゲームでした。
子供達は、真剣そのものの表情で取り組んでいました。

 

あっという間の1時間でした。

 


父のそれから・・・3

2015年05月25日 | 高次脳機能障害の父と・・・

息子を高齢者住宅に住む父の部屋に連れて行くと、決まって、

「じいじ、ベッドに寝て~」

と、父を電動式ベッドに寝かせて、リモコンを操作し、ベッドの高さを変えたり、体を起こさせたり、足を上げさせたりしながら、父に遊んでもらっていました。

また、リクライニングの椅子がくるくる回るのが珍しかったのか、父や私を座らせ、くるくる回して、私達が「やめてやめて~!」というのを面白がっていました。

父は、息子をとても可愛がってくれ、買い物に行く度におもちゃやお菓子を買って、息子に渡すのを楽しみにしてくれていました。

 

そんな父でしたが、「家に帰りたい」という思いが募り、そのことが頭から離れなくなり、イライラするようになってきました。

「いつまでこんなとこに閉じ込めとくんや!」

「家に帰らせてくれ・・・」

 

私としては、自宅よりもここで生活する方が安心なので、父がより快適に過ごせるようにと心を砕いてきたのですが、父には私の思いは通じませんでした。

それなら、なんとか父が自宅で生活できるように、高次脳機能障害が回復するようにと、本を読んだり、講演会に参加したり、インターネットで検索しながら情報を集めていました。

そして、たどり着いたのが、高次脳機能外来の「なやクリニック」でした。

 

それまで、いくつかの病院に父のリハビリをお願いしてみたのですが、回復期訓練を終え、また、病気の発症から時が経っていることもあり、リハビリをしてもこれ以上の回復は望めないと断られていました。

最初にかかった急性期病院には、大腸癌手術後の定期検査もあり、脳神経外科にも通い続けていたのですが、薬を処方してくれるだけで何のフォローも望めません。

病気はすでに回復し、障害はここで診るものではないというように感じられました。

 

そんな中で、すがるように「なやクリニック」を受診し、納谷先生に私の不安・父の不安を聞いていただくことが出来ました。

そして、神経心理学的検査によって、父の障害の実態を次のように明らかにしてくれました。

 

注意障害・・・集中が続かない。二つ以上のことを同時進行する時に誤りが生じやすくなっている。

記憶障害・・・逆行性健忘障害あり。日付や場所などの見当識は良好だが、新しく覚えることは難しい。また、記憶する際に、大筋は理解して、その場は覚えていられるのだが、何か作業が入ったり、出来事が起こると忘れてしまうことがある。

遂行機能障害・・・次々に切り替えていくこと・新しい問題に直面した時に解決すること・効率よく物事を進めることが良好。正答や規則を覚えておくことが難しいという記憶障害の影響、行動を修正する能力や衝動性の抑制が低下している可能性あり。

 

また、父の希望する自宅での生活を目指して、週1回、10時~4時まで、ここで「高次脳機能デイケア」に参加することになりました。

病院を転院し、これまで服薬していた薬もなやクリニックで処方してもらえるようになり、デイケアと合わせて、精神障害者自立支援の公費負担が受けられるようになりました。

それによって、父の場合、月5000円の負担で済むようになりました。

父の薬代はかなりの負担だったため、自立支援のことをもっと早くに知ることが出来れば・・・と思いました。

 

さらに、「脳損傷協会」という家族会に参加するようになり、同じ悩みで苦しむ人の話を聞いたり、父以外の当事者の思いにも触れることが出来ました。

 

多くの人達に支えられながら、父のリハビリが進んでいったのでした。 


主人の災難

2015年05月24日 | 主人の心房細動

息子の骨折がやっと治ったと思ったら、22日の金曜日、今度は主人が、職場で足の上にパレットを落とし、右親指にヒビが入ってしまいました。

 

「息子さん治ったとこやのにねぇ・・・」とは、整形外科の先生のお言葉。

私も、同じクリニックに通院中のため、家族全員がこの先生にお世話になることになってしまいました。

息子の骨折と違って、指のテーピングと硬い芯の入ったサポーターを足に巻くだけで、2週間ぐらいで治るそうです。

 

主人の災難はこれだけに終わらず、「心房細動」という病気が見つかりました。

今年の健康診断でひっかかり、昨日、大学病院で色々検査したところ、「持続性心房細動」と診断され、まず、1ヶ月の投薬治療を行うことになりました。

47歳とまだ若いので、投薬だけで治る確率も3割ぐらいあるそうです。
それで治らなければ電気ショックでの治療を行い、さらに治らなければ、カテーテルアブレーションという手術を行うということでした。

 

今までの健康診断では指摘されたことがなかったし、本人も自覚がなく、
「そういえば、階段昇って、息切れとか胸が苦しくなることはあったけど、年やからしゃあないと思ってた」と、言っていました。

「心房細動」を持っている人は、持ってない人と比べて、脳梗塞や心筋梗塞を起こす確率が4倍とか5倍だとか言われましたが、それがどれぐらい心配な確率なのか、今いちよく分かりません。

とにかく、早く病気が見つかって、良かった、良かった♪

 


ダンスパーティ♪

2015年05月23日 | 日記

ダンスパーティ

 

楽天のスーパーポイントがたまってきたので、自分へのご褒美として、ポイントであじさいの鉢植えを買いました。

 

癒されますね~♪ 花を見ると、明るい気持ちになります。

 

「ダンスパーティー」という名前のかわいい「がくあじさい」で、私の好きなブルーの花の一つ一つが、まるで星のようです。

家に届いた時は、もっと枝が広がっていて、花と花の間に空間があり、星が散りみだれている雰囲気がありましたが、花の重さで枝がしなり、花が地面に付いてしまうので、両脇の枝を割り箸で支えることにしました。

 

あじさいの花言葉は、「うつろい」「移り気」ですが、花の色が梅雨の曇り空に映えて長く咲くことから、「辛抱強さ」や「忍耐」というプラスイメージの花言葉も付けられているそうです。

だからかな。母の日に、カーネーションと並んであじさいの人気があるのは・・・。

 

頭でっかちのあじさいが風で倒れる度に、息子が、
「ママ~、あじさい倒れてる~」と、鉢を起こしてくれたり、風のきつい日には玄関に入れてくれたりして、お世話をしてくれます。

 

そんな息子には、やはりポイントで、「スーパーマリオくん」49巻を買ってあげました。

よほど面白いのか、「うふふ・・・」「きゃはは~♪」と声を出して笑いながら読んでいました。

それを聞いている私も、とっても幸せな気持ちになるのでした

 


父のそれから・・・2

2015年05月22日 | 高次脳機能障害の父と・・・

回復期訓練終了後に、介護サービス付きの高齢者住宅に入るにあたって、要介護認定を申請することになりました。

 

父は62歳だったため、まだ介護保険の使える年齢ではありませんでした。

ヘルペス脳炎は特定疾病にあたらず、「初老期の認知症」として、「要介護2」と認定してもらうことが出来ました。

 

今ほど高齢者住宅が建てられる前だったので、私の家から40分、実家からは、1時間20分もかかるその住宅は、大阪で一番初めに出来た高齢者サービス付きの賃貸住宅だったそうです。

 

居室は、40.00 m²と広く、トイレやお風呂・キッチン・ベランダまでついていて、普通の賃貸住宅といった感じでした。ここでの暮らしを出来るだけ快適にと思い、私は、電化製品や家具、座り心地の良い一人用の椅子などを父と一緒に買い揃え、ケアマネージャーさんと介護のプランを作りあげていきました。

 

食事は、3食調理師さんが作ってくれ、ヘルパーさんが家事をしてくれ、週に2回デイサービスに通うという具合でした。
お風呂も、共同の大きなお風呂は嫌がるので、居室のお風呂に入るのを見守っていただき、ストーマを変えているか声掛けでチェックしてくださいます。

また、看護士さんの巡回があり、2週間に1回は医師の診察も行われていました。

 

でも、そんな暮らしは、父にとっては、満足のいくものではありませんでした。

 

デイサービスは、とにかく疲れるようで、具合が悪くなり、施設で寝込んでしまうことも多いようでした。

居室では、いつも一人用のリクライニング椅子でうつらうつらとしていて、テレビも、聴覚過敏のせいか疲れるようで、あまり見ようとしませんでした。

部屋では何もせず、思いついたように外に散歩に行きたがるのですが、右手右足に麻痺がある上、記憶障害があるので、一人で行かせるわけにはいきません。

 

そこで、デイサービスを週1回にし、買い物の同行をお願いして、ヘルパーさんと一緒に買い物に行くようになりました。また、訪問介護で作業療法士さんに散歩や体を動かすリハビリをお願いしました。

念のため、ココセコムの契約をし、携帯とセットで持ち歩くようにしてもらいました。



人との会話が1番の脳のリハビリだと聞いて、私は、1日おき+日曜日に父を訪ねるようにしました。

簡単な脳トレのドリルをコピーして、クリアファイルに1枚ずつはさみ、父に1日1枚を課題にして、私が答え合わせをするようにしていました。

 

父は自分でトイレに行けるのですが、失禁することも多いのでリハビリ用のおむつをしていました。失禁しても着替えなかったり、汚れたおむつを押し入れやタンスに入れてしまうことがありました。

全く障害を感じさせないほどしっかりしている時と、そうでない時の差が激しく、私は、戸惑うとともに、不思議な感じがしました。

 

ただ、高次脳機能障害によくみられる怒りっぽさはなく、病気前よりもかえって穏やかになった気がしました。

父は、買い物に行く度に同じ品物を買ってしまい、部屋に3つも4つも増えていくのですが、私が、「お父さん、またこれ買ってきたん? 同じの、たまってるで~!」と言うと、ぺろっと舌を出し、バツが悪そうに微笑みます。

「しゃあないなぁ・・・」と、こっちまで笑顔になりそうな感じで・・・。

 

病気前の父は、無口で、いつも仕事や自分の趣味に没頭しているイメージがありました。

60歳で定年退職した後も、1年かけて、車で一人、日本一周の旅に出かけていました。

人に頼ることが嫌いで、「自分のことは自分の責任で好きにしろ」という感じだったので、私もそんな父に、進学も就職も結婚も、何一つ相談したことがありませんでした。

 

だから、今まで見たこともない父の人懐っこい笑顔を見ると、とても切ない気持ちになりました。

これが、父の第2の人生なんだと思いました。


父のそれから・・・1

2015年05月20日 | 高次脳機能障害の父と・・・

私の父は、大腸癌の手術のために、約40日間入院しました。

無事、退院を喜んだのも束の間、4日後に高熱を出して、意識が混濁状態になりました。

救急車で病院に搬送され、医師からは「ヘルペス脳炎を発症し、危険な状態なので、急いで家族を呼び寄せるように」と、言われました。

それから10日後、父は、意識を取り戻したものの、高次脳機能障害を持つようになりました。

 

目を覚ました父は、私が、「本当に父なのか?」と、疑うほど変わり果てていました。

父は、記憶をなくし、私のことが分かりません。

点滴を抜いたり、暴れたり、また、大腸癌の手術で取り付けられた人工肛門を理解できず、外そうとして汚物まみれになってしまい、病院からも出来るだけ付き添ってほしいと言われました。

母はくも膜下出血によりすでに亡くなっていたので、ほぼ毎日、私が父に付き添うことになりました。

  

約1ヶ月半後に、父は回復期病院へと転院し、そこでは、日曜日を除く毎日、作業療法士・理学療法士・言語聴覚士による訓練を受けることになりました。

 

この病院でも、病室を間違えて他人のロッカーを開けたり、病院の中で迷子になったり、さらに病院の外に出て行方不明になり大騒ぎになるなどトラブルが続きました。

父は、腕にセンサー付きのリストをはめていましたが、病室の前にも、外に出ると分かるようにセンサーの入ったマットを敷いてもらいました。

 

脳が混乱しているのか、真夜中に、ひっきりなしに私の携帯が鳴り、

「今、空港のホテルや」とか、「パスポートが見当たれへん」とか、

「今、外国で足止めされてるから、会社に連絡してくれ」などと、何度も電話がかかってきました。

 

父は、記憶障害により、20年ぐらいの記憶がごっそりなくなっていて、さらに、新しいことを記憶することも困難になっていました。

そのため、すでに定年で退職しているのに、会社に出勤しようとするのです。

 

それでも、訓練のおかげか、日が経つほどに落ち着いた生活が送れるようになり、3ヶ月を過ぎた頃から、父の退院後の生活を考え悩む日が続きました。

 

父は、自分の病状を把握しているとは思えず、毎日のように自宅に帰りたがっていました。

私の家での同居も考えましたが、脳炎を患ってからの父は極端に疲れやすくなっており、片時もじっとしていられない息子と一緒にいると、30分も経たないうちにぐったりとしてしまいます。

また、息子と父と二人同時に何かがあった場合、私には対処できるかも心配でした。

何より、父が望んでいるのは、自分の家での生活でした。

 

いくつかの老人ホームを見学しましたが、62歳とまだ若く、病人とはいえ、若い頃はロードサイクルやトライアスロンをしていた父は、あまりに元気すぎて、とてもそこに馴染めるようには思えませんでした。

グループホームも、人と関わることが困難になっている上、ストーマ(人工肛門)の管理は、看護士にお願いしないといけないらしく、難しいと思いました。

 

結局、4ヶ月の回復期訓練の後、いずれは自分の家で生活することを目標にして、早く家に帰りたがる父を「訓練」だと説得し、高齢者サービス付きの賃貸住宅に入居してもらうことになりました。

 

脳炎により危篤状態となってからは、実に半年ぶり、ようやく病院から一歩を踏み出すことができました。

 

10日間の生死の闘いを乗り越えて、目を覚ましてくれた父、

「俺の頭はおかしくなってしまった!」と嘆いていた父、

父でないような父に戸惑いながらも、あの時、私は心に誓いました。

 

 「生きてて良かった」

いつか、必ず父にそう思わせてみせる!!