私の父が亡くなったのは、息子が1年生の11月のことでした。
息子が2年生になる2013年の春休みに、父の介護で長い間あまり構ってやれなかったおわびも兼ねて、息子の願いを叶える旅に出かけました。
当時、列車が大好きだった息子は、もうすぐ廃止されるという「寝台特急『あけぼの』に乗りたい」と、言っていました。
なので、新幹線「のぞみ」や「はやぶさ」などと組み合わせて、ぐるっと青森を回って仙台に行くことになりました。
仙台入りの目的は、被災地を巡りたいという私の願い。
この地にも、6年前の東日本大震災以後、大きな悲しみと想像を絶する苦境の中で生きてこられた人達がいます。
6年前の私は、大腸癌の手術後に脳炎を患って高次脳機能障害を持つようにになった父の介護、ひきこもり状態の弟と父の関係が悪化、「多動・注意欠陥による行動障害がある」と言われていた息子を抱え、涙の出ない日はなかったように思います。
私の苦しみなど被災された方々の苦しみとは比べようもありませんが、それでも、絶望の中で立ち上がろうとする人達に大きな勇気をもらい、自分も「負けるものか!」と、前に進んでいくことが出来たと思っています。
新幹線で仙台に入り、レンタカーで石巻を訪れました。
途中、道路から眺めた町は、津波の痕でしょうか、更地が一面に広がっていました。
「石ノ森萬画館」に続く商店街らしき道には、所々に仮面ライダーやロボコンなどのオブジェがあり、息子と共に写真に収めながら歩いていきました。
しかし、営業しているお店は一つとしてありませんでした。
その日は、「南三陸ホテル 観洋」に泊まりました。
2階の天井まで津波が押し寄せたというこのホテルは、被災者やボランティアの受け入れをするなど、地域復興の拠点となっていたそうです。
翌朝、「語り部バス」に乗り、町を案内していただきました。
バスから眺めた景色に言葉を失いました。
震災から2年余り。
あれから随分時間が経過したように感じていましたが、被災地はまだまだこれから、やっと瓦礫やゴミが撤去されたばかりでした。
津波が3階にまで押し寄せ、イベント中にもかかわらず屋上に避難したため全員が無事だったという「高野会館」
多くの人が犠牲になったという「防災対策庁舎」
ポツンポツンと佇む建物が、余計に津波の恐ろしさを物語っていました。
「今日、ご覧になって感じたことを、何か一つでも、お帰りになってどなたかにお伝えください。
出来れば、防災の役に立てていただきたいと思います。
そして、被災地を忘れないでください。
被災地を置き去りにしないでください。
『被災地に観光しに行くなんて』という人がいますが、お越しいただければ、被災地は元気になるのです。」
ガイドさんは、ホテルのスタッフで、実際に震災を経験された方です。
何日も家族に会えなくて、不安の中、全力でホテルに被災者を受け入れていたそうです。
ホテルの方々には、ここで働き、復興を担うという、覚悟と誇りのようなものを感じました。
テレビで見るのと、実際に体で感じるのとは全然違いますね。
ここで生きてきた人達から紡ぎ出される言葉、表情。
行き交うトラック、砂ぼこり。
または、一面に広がる静けさ・・・。
あれから、もうすぐ4年。
町は、どのように変わっているのでしょうか。
いつか必ず、もう一度訪ねてみたいと思っています。