20階の窓辺から

児童文学作家 加藤純子のblog
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二の酉

2018年11月13日 | Weblog

                 

   今年は、三の酉まであるそうです。

 三の酉まである年は、火事が多いと、昔から言い伝えられています。

 

 ここ数年は、浅草の鷲神社まで行くのが面倒というか、あそこは、すごく混むので、一番シンプルな熊手を買うのも大変です。

 そこで、ずっと近所の富岡八幡宮の、酉の市に行っておりました。

 でも、あの事件以来、通りかかるたび、参拝客をほとんど見かけません。

 昨年、宮司を弟が惨殺、そして自らも自決するという悲惨な事件が起きて以来、まだ神社として復活し切れていない様子です。

 江戸三大祭りの一つ「深川祭り」も、2020年は本祭り。氏子たちも再建に向け、頑張っているようですが、江戸の花、さてどうなるでしょう。

 

 浅草の鷲神社のそばには、昔、新吉原があったそうです。

 南千住の、三ノ輪にある浄閑寺の本堂裏には、「新吉原総霊塔」といって、花魁がたくさん眠っているお寺があります。

 このお寺は、大火で焼けて浅草に移る前の、吉原の近くにあり、吉原の女たちの「身投げ寺」と言われていました。


 その前の道は、骨通りと言われています。

 江戸時代の処刑場跡地で、どこを掘っても人骨が出てくるという噂があるからだそうです。

 その仕置場は、小塚原(こつかっぱら)にありました。

 

 そのあたりを、作家・画家・編集者たち、仕事仲間十数人で、ワイワイ言いながら、歩いたことがあります。

 そのあと、みんなで、予約していただいてあった屋形船に乗って、揚げたての江戸前のアナゴの天ぷらや、お刺身などを食べながら、隅田川からお台場のあたりの、煌びやかな夜景を眺めながら、みんなで宴会をしました。

 

 雲助(くもすけ)も避けて通れぬ小塚原

 

 という川柳の通り、当時は、どこを掘っても骨が出てきたそうです。

 車夫もタクシーも、遠回りして通ったと言われています。

 今ではすっかりコンクリート舗装の道路になっていますが・・・。

 屋形船に揺られ、宴会をしていても、みんなの胸の中には、あの小塚原や、骨通りや、吉原を生きた女たちの悲しさの墓場が脳裏に張り付いていたと思います。

 三ノ輪の、あのあたりは、不思議な空気が漂っている場所です。


 それに比べ、新吉原のあった、浅草の鷲神社のそばは、そうした空気は感じられません。

 今日の二の酉は、これから、久しぶりに浅草の鷲神社に行ってきます。

 酉の市がやってくると、いよいよ年の終わりが近づいていることを実感します。

 

   その奥におかめが笑ふ大熊手      長谷川櫂

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