太陽光発電シニア

太陽光発電一筋、40年をはるかに過ぎたが何時までも興味のつきない厄介なものに関わってしまった。

愉快なモンゴル人

2016-11-15 08:53:01 | 仕事に関すること

昨日はインド人だったが今日はモンゴル人。国の委託事業の関係でモンゴルには30回以上出掛けた。その間に友人、知人は数多くできた。中でもウマがあったのは当時科学アカデミーの副総裁だったC博士である。モンゴルでは超有名人で戦後モンゴル建設(活躍)したBEST50人にも選ばれたモンゴルで知らない人は居ない超有名人であった。後に国会議員も1期務め最後は科学アカデミーの総裁になった。昨年、日本で開催された太陽光関連の展示会にモンゴルのブースがあって知り合いが居たのでC博士はどうしてると訊いたら亡くなられたとのこと。C博士に最初に会ったのは1992年でその後2005年くらいまで関係は続いた。ロシア語とドイツ語は堪能だったが英語は少し苦手だった。それでも我々は互いにたどたどしい英語同士なので逆に二人だけの会話に不自由は無かった。C博士との思い出は数限り無いが2,3。

何度か日本にも招聘し、関連施設巡りで全国を回ったが、ある時事業主で資金元であるNEDOの理事を訪問することがあった。理事室に入る前、普段の言動からしてとんでも無い事を言い出さないかと心配したが、部屋の前で今日はどんな話をしたら良いのかと言うので、今日は表敬訪問だからお礼の言葉だけで良いですよ、と言うと理事の前では普段よりゆっくりと重々しく喋り、たいそうな謝辞を述べて無事終わった。部屋を出てから、どうだったと聞くので満点です、と答えると俺はハリウッドスターだとウィンクしてきた。日本に滞在中、何処か行きたいところはあるかと訪ねると大概ホームセンターに行きたいという。あるときジープの前方に後付けで装着するウィンチを見つけて、このメーカーは何処で、モンゴルに輸出できるか聞いて欲しいという。確かにモンゴルでは地方に出るとショッチュウぬかるみにハマる。ロシアンジープでなかなか抜け出せない。ある時、地方を車で走って居る時、古タイヤの山を見つけて、あのタイヤは輸出できるかと聞いてみてくれと言う。無理だと言うとあっさり諦める。別のモンゴル人から聞いたが、モンゴルは大国(ロシアと中国)に挟まれ苦労してきた。徹底的の主張するという粘りは無い。最後は諦めるとのこと。ただ、チンギスハーンの時代のモンゴル大帝国には物凄い誇りを持っており、その誇りは今も変わっていない。

ある朝ホテルに迎えに行くと泥だらけの革靴で出て来た。どうしたのと聞くと、朝早く目が覚めたので近くの山に行ってみたが日本の山は駄目だ、地面がぬかるんでいるし、動物など1匹も居ないという。山といっても平野の中にあるこんもりした丘のようなものだったのだが。モンゴルに別の仕事で行った時、わざわざウランバートルから300㎞くらい離れているのに、1mを超えるイトウを釣り上げて来て、お前が来ているときいたから見せに来たという。夏季休暇だったようだが、お前がこのイトウをぶら下げて写真を撮ろう、日本に帰ったら自分で釣ったと言えばいいよ、と。何時も本気と冗談が入り混じっており、やんちゃ坊主がそのまま大人になったようだった。ソ連崩壊後の混乱を生き延び、科学アカデミーというのは民主化後も相当権威もあったのだろうがそのトップを長く務めたのは本人の物理学者としての優秀さ以外に当時のモンゴルでは数少ない国際人であり、海外との強いパイプ、それを支えた人柄にあったに違いない。彼は私に一つだけ真面目な嘘をついた。副総裁の時代に国会議員にならないのか、と聞いたら「あんな会議ばかりやっている仕事はつまらない。」と一蹴したが数年後立候補して当選した。しかも現役の大臣と同じ選挙区で争って勝った。日本のある商社は現役の大臣を粘り強く応援していていたのでショックを受けた。C博士は1期で辞めて科学アカデミーの総裁になったが、日本のみならず欧米の学術会議や国際交流の場にしばしば代表として参加しているのをネットで知っていたが、多分、日本で仲の良い人と聞かれれば私の名前も何番目かに出ていたと思う。

爽やかな夢連載は今日も休刊。基本的に原稿が3話分が貯まらないと載せられない。原稿の都度だと前後関係や人の名前すら間違ってしまってお粗末なものとなってしまう。次回は大丈夫だろう。早く終結しないと新作に取りかかれないあせりはある。



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