太陽光発電シニア

太陽光発電一筋、40年をはるかに過ぎたが何時までも興味のつきない厄介なものに関わってしまった。

人の目に曝されなかった海外出張報告

2015-06-01 18:29:07 | 海外経験ノンフィクション

1980年半ばから1990年代半ばまでの10年間はそれまでの技術者生活から一変、途上国に度々行くこととなった。太陽電池そのものの開発からシステムの開発を経てこれを途上国に売り歩くはめになった。売ると言っても商社とともに途上国のカウンターパートにプレゼンに行ったり、官、民のミッションの一員として調査団に参加あるいは国の委託事業を遂行する目的である。共通しているのは行き先が途上国の僻地(無電化地域だから当然だが)別に英語が達者に喋れるわけでも、体力に自信があるわけでもないのに。会社というのは「この前あいつを行かせたが 無難にこなしたから、今回もややこしい場所だし、あいつをまた行かせておこう。」というくらいの安易さである。もちろん今のように携帯電話があるわけでも無く、その国の首都を離れた途端音信不通となる場所ばかりである。これらの海外出張で、VIPに面談し、多くの人の前でプレゼンをしたとかまともな仕事の報告は会社にきちっと上がっている。ここでは、それ仕事?とか成果は何?とかよくも無事で、といった普通のサラリーマンが経験しなかったことを書いてみる。20くらいは事件らしきものがあるが、写真も記録も無く記憶の中だけであるが、一応仕事で給料の一部で行っているから相応しく無いことは記録にとどめていない。今となっては時効だろうから。

●南太平洋キリバス、ツバル共和国で役人と揉めたり仲間を置き去りにしたこと

80年代に南太平洋諸国に官民調査ミッションの一員で参加した。ミッションの目的はこの地域の島国に日本のODAで太陽電池を設置するための事前調査であった。他社の数名と一緒だったが、団長は通産OBの60歳過ぎの人だった。キリバスでの交渉相手政府はオーストラリアから来たコンサルタントの人がリーダーだった。向こうはこちらの提案に対し、色々な要求をしてくる。団長は厳としてこれを受け付けず、最後に【言うこと聞かないなら援助はしない】と切り捨てた。私は団長のあまりに高飛車な態度に腹が立ち、【小さくとも相手は一国、今回は調査ミッションで援助の可否を決める権限は無いのでは。相手の要望も聞いて纏めるべき】と日本語で団長に言った。【若い君に何が分かる、口出しするんじゃない。】と険悪になった。移動の車の中でも言い争いは続いた。宿泊所に戻り、夜になると他社の同年代の若い仲間が【団長に一応謝っておいた方が良いのでは】とのアドバイスもあり渋々団長の部屋に行くと【君の会社には確か通産省から言っている○○君が居るね。帰ったらこのことを彼に言うよ。首になっても知らないよ。】と言うので、謝るどころか【どうぞご自由に】と啖呵を切って部屋を出た。  

 こちらには社内のカリスマ経営者とは何度か話したこともあり、トップはどちらが正しいか判断してくれるという自信があった。帰路フィージーに立ち寄って皆で日本大使館に報告に行くことになったが、この団長は日本から奥さんを呼んでいて土産もの買いに出掛け大使館には来なかった。その程度の男かと軽蔑した。しかし、その後の海外経験でこの団長の交渉術は大いに参考になることとなった。それはどの国に行っても援助を受ける側が膨大な要求をしてくることだ。我々の税金で相手の自助努力を助け、出来る限りの援助をしようと思っても【貰って当然】の役人も結構多いことだ。国際交渉においては曖昧な表現は避け、毅然とした態度は絶対に必要であることを。

 同じミッションでツバルと周辺の島々も訪問した。移動はセスナやそれより少し大きめのプロペラ機だ。ある島に着いたとき、先着していた飛行機の前の部分のカバーを外してエンジンルームに頭を突っ込んでなにやらパイロットらしき人が作業をしている、聞いてみると修理らしい。手作業である。我々が乗ってきた飛行機とほぼ同型機だ。おいおい大丈夫かと言いたくなった。

 ツバルでは休日に若い仲間と一緒にラグーンの中に浮かぶ無人島に遊びに行った。本島の近くでは泳いでの海底には足の踏み場もないほどナマコが密集しており、夕方になると島民が大小、風呂も兼ねて男も女もラグーンに腰まで入って来る。あまりに生活臭にまみれているので、無人島行くことになったのだ。真っ白いサンゴの砂でできた島はエメラルドグリーンのラグーンに絵に描いたように中央にヤシの木が茂る周囲3キロくらいの島だった。近くまでボートで行き、接岸できないから100mくらい泳いで上陸。ボートは夕方迎えに来るという約束で引き返す。海に潜ると海岸近くでも熱帯魚が泳ぐTVで見たとおりの世界。皆で散々遊んだ後、昼飯となったが、誰も飯どころか水も持ってきていないことに気付いた。ボートが用意するものと皆勝手に考えていたのだ。海岸にも容赦ない陽射し、喉がカラカラになっていた時、誰かが海岸に横倒しに生えているヤシの木なら実がとれると言い出した。早速捩じってもぎ取った。振ってみるとちゃポチャポとココナツジュースの音がする。助かったと思ったがヤシの実の外皮はあくまで固く、道具を持たない素手で剥くことなどほぼ不可能であった。サンゴの砂に岩は無く、どうにか見つけた小石に何度も実をブツケテモ固い表皮が少し傷つく程度。2時間くらい悪戦苦闘の末諦めヤシの木陰でひたすら迎えのボートを待つことになった。やがて夕方になりボートの船員が腰に鉈を持って上陸してきた。事情を説明すると、スタスタとヤシの林に分け入り、ラグビーボールくらいの緑のヤシの実を5~6個も抱えている。我々の前でその鉈でカっカっかっとヤシの実の頭をギザギザに切り欠いた。ヤシの実のジュースはポカリスウェットのような味で一人2リットルくらいは飲み干した。勿論休日とはいえ出張報告にこのことは書かれていない。

ツバルを離れて最終目的地フィージーに飛ぶ日、やって来たエアーマーシャル機は何かの手違いで一人分座席が無い。仕方なく若い人だけで居残りをくじ引きで決めることになった。草の茎で作ったくじを引くと、某大手ポンプメーカの社員が残ることになった。海外経験豊富で口も立つ男だが、残る事が決まった瞬間、座席を占領している救命胴衣を下して席作れとか喚き出す始末。私は馬が合った北海道のバスオールメーカのベンチャ―から来た男と、フィージーの一流ホテルのプールサイドでトロピカルドリンクを飲んだり泊っている他エアーのスチュワーデスをからかったり、のんびり過ごした。翌日遅れて着いた件の男は泣きそうに怒りながら次の便で皆より早く帰国した。そのあと会社も辞めたよらしい。出る前の強気は何処に行ったんだろう。

次回はもっとも事件の多かったモンゴルについて、予告タイトルは、

エピソード(1)…泥棒に掴まりそうになった話

エピソード(2)…オカマに襲われそうになった話

エピソード(3)…隕石落下、馬乳酒、狩り、ナーダム、食事の苦労、トイレの苦労

そのほか、ネパール編、バングラ編、インド編などもある。



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