年が行ってくると喜び、悲しみ、怒り、諦め、驚き、嫌悪、恐怖などの感情が希薄になってくることは誰しも同じだろう。最初は老化現象の一つかと思っていたがアナロジーという言葉が引っ掛かった。Wikiでアナロジー(analogy、類比)を見ると特定の事物に基づく情報を、他の特定の事物へ、それらの間の何らかの類似に基づいて適用する認知過程である、と難しく書いてある。気づいたのは、長い人生で殆どの事柄を經驗してしまったから感情が希薄になる。簡単に言うと感情は過去の経験と常に比較(アナロジーで説明できる)されており2度目はそう驚かない、ということが感情全般に起こっているのだ。アナロジーの視点で考えれば脳の老化ではないと断言できる。最近認知症をテーマにした小説を読んだ影響でつい自分のことを考えてしまう。ただ自分の脳を自分で診断するのだからこれほどあてにならないものはない。
「アナロジー」は物事を説明する際に似ているものを使って表現する方法だが似たような言葉で物事を説明する「メタファー(隠喩、暗喩)というものがある。これは直接的な比喩を使わずこちらも人間の類推能力を使うのが特徴でだ。「メタファー」は独自な表現となることが多く、文学でも多く使われてる。今年もノーベル文学賞の候補として村上春樹氏の前評判が高いが村上氏の小説はメタファーで溢れている。その分想像力も働き読者自身の解釈で物語りに参加しているような気分になる。文学賞は先にカズオ・イシグロ氏が受賞したが両者の小説手法には大きな違いがある。イシグロ氏は大河をゆっくり流れ行く小舟のようであり自然に任せて河口に向かって行く。村上氏は荒波をかき分けて進むボートのようで少し疲れる。若い頃は村上氏が好きだったが年と共にイシグロ氏寄りになった。勿論あくまで個人的感想だがどちらも面白いことに変わりはない。
B級読書で出会った(何だか失礼な表現だが)作家では中島京子氏の作品が面白い。特に「小さなおうち」は良かった。淡々と流れる日常が構えも衒いもなく描かれている。この読後の清涼感は貴重である。今は佐藤優を読んでいる。分野は違うがどこか立花隆氏に似ている。ある意味知の巨人である。惜しむらくは全ての著作に隙が無い。これも疲れる。古本屋で買うB級読書本は9割がストーリー性も表現力も稚拙である。乱読だから歩留まり10%も仕方ないことか。それでもこんなに沢山の本を読むのは中学以来である。ブログが何だか書評みたいになったが片田舎の愚老の繰り言であり、無視しても何の不都合も生じないことは請け合う。