近江八幡 5-2 八幡山

2018年01月17日 | 日記

八幡山城、長くなりそうなので2分割としましたが、ようやく本丸へ・・・

と、いってもお城が残っているわけではありません。

 

息を切らしながら、急な坂道を登っていくと「村雲御所瑞龍寺門跡」の石碑があります。

門跡??

門跡となると、皇族が住職を務める寺ですが、秀次の実績からはなかなか天皇に結びつくものがピンときません。

八幡山頂上には、お城の石垣だけを残しお寺が建立されています。

このお寺が、村雲御所瑞龍寺となるわけです。

 

歴史に詳しい方には釈迦に説法ですが、秀次は秀吉の甥っ子、すなわち姉の子になります。

秀吉に後継ぎとされ、それまで名乗っていた孫七郎、三好信吉から豊臣秀次となります。

 

秀吉に秀頼が誕生して以来、状況が一変し高野山に追いやられ、殺生関白と揶揄され28歳で秀吉から切腹を命じられます。

歴史書は勝てば官軍の資料です。

敗者側の資料はまず出回らないと考えた方が良いようで、秀次も本当は32歳とされる資料もあるようです。

現在と違って、この当時の4歳という年齢はかなりの重みをもつと考えていいかと思います。

 

秀次切腹後、秀次の妻子の皆殺しを図り、京都三条河原で処刑が行われます。

秀次と家族は、今も京都三条高瀬川沿いにある瑞泉寺に祀られていますが、その昔地元の人はあまりこのお寺には近づかなかったと聞いています。

 

話を戻して、秀次の母が秀次の菩提を弔うために建てたこのお寺、寺号を時の後陽成天皇から賜り、菊の御紋章を許され勅願所となります。

寺格は黒御所と定められ門跡となります。

日蓮宗で唯一の門跡という珍しいお寺です。

 

山門をくぐるとすぐに本堂の前にでます。

山頂でもあり、さすがに本堂前のそれほど広くはありません。

 

本堂の前も、脚立などが無造作に置かれいるところは、京都のような観光寺院とは一味違う趣です。

 

頂上からの眺望もなかなか素晴らしいものがあります。

近江八幡の市街地、近江富士と呼ばれる三上山も遠くに見る事ができるようです。

この山から市街地を眺めていると、秀次という人物はなかなかの優れ者だったのではないかと思えてきます。


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