関西思い出旅日記

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健脚小野篁 珍皇寺

2010年03月06日 | 日記

六道珍皇寺は、京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院。山号は大椿山。本尊は薬師如来。古くは愛宕寺とも呼ばれた。この付近が「六道の辻」であるとされ、八月七日~十日(盂蘭盆会)の六道詣りは有名で、小野篁が冥界に通ったと伝わる井戸で知られる。通称六道さん。

この寺の創建については諸説あって不詳であるが、東寺の文書によれば承和年間に山代淡海が創建したという。鎌倉時代までは東寺に属していたが、室町時代に建仁寺の聞渓良聡が入寺して再興、臨済宗に改められた。明治に入り一時建仁寺に併合された時期もあったが、一九一〇年(明治四十三年)独立した。(Wikipediaより引用)

 

珍皇寺は夏場にアップするとよいのだが、拝観する時期がどういうわけか寒い時期にかたよってしまっている。

近くにある六波羅蜜寺まではすぐにたどり着けるのだが、この珍皇寺は過去幾度か手間取ってしまった。お蔭で今では迷わずに行く事ができるようになった。

珍皇寺はいわゆる観光寺院のような大きな寺構えではなく、いわば住宅街の中にあるために何気なく通り過ごしてしまうような寺である。逆にこの佇まいが、盂蘭盆会のお精霊迎えの行事に多くの人達で賑わう様を想像する時、妙に納得がいく。

その昔、このあたりは鳥辺野といわれる埋葬地の端であったと伝わる。少し横道になるが、この鳥辺野という言葉を聞くと、必ず清水寺を思い出してしまう。以前源氏物語を読んだ時の記憶であろうか、清水の子安の塔の前谷辺りも鳥辺野との漠然とした既成概念がある。さすれば清水から大谷、そしてこの珍皇寺辺りまでが鳥辺野であったのかと想像してしまうのである。まあ、これは根拠のない私的な既成概念であるので軽く読み流してもらう事とする。

ところで珍皇寺周辺の通りであるが、商店街があり、それなりの喫茶店もあり、現在ではどこででも見られる街角の風景である。その中で六波羅蜜寺と珍皇寺に分かれる通りの角に、妙に気にかかる石碑がポツンと建つ。石碑にはしっかりとした文字で「六道の辻」と書かれている。

そして、その石碑の前には、いわくありげに「幽霊子育飴」の看板が掛かる。何とも見事なシチュエーションではないか。そっと目を閉じ、想像を当時に遡らせるといかにも鳥辺野らしき風が吹いてくるかのようである。

さて、珍皇寺の境内は、先述のとおりそれ程大きくはない。境内を入るとすぐに「閻魔・篁堂」があるが、通常は開戸されていない。この「閻魔・篁堂」の隣に六道詣りで知られる「迎え鐘」がある。鐘楼自体はお堂の中にあり見る事はできない。お堂から出ている綱を引き鐘を撞くのである。ちなみに「送り鐘」は寺町三条にある矢田寺といわれている。

本堂に入り奥の間へと進むと、小野篁ゆかりの伝説の井戸がある。この世とあの世との分岐点である六道の辻がある事から、篁が冥土通いをしたといわれる井戸である。この井戸は冥土への入り口とされている。では出口はといえば、大覚寺近くの現在は廃寺となった福生寺といわれている。そこから、珍皇寺の井戸は「死の井戸」、福生寺の井戸は「生の井戸」と呼ばれたようである。

しかし考えてみると、珍皇寺から嵯峨の大覚寺までとなると結構な距離である。話では毎夜冥土通いと表現されている事が多いが、そうなると篁はかなりの健脚であったのであろう。

また、迎え鐘も面白い伝説があるようだが、本グログサイトには文字数制限があるようで2000文字を越すと受け付けてくれないようなので割愛する。