Islander Works

書いて、読んで、人生は続く。大島健夫のブログ

12月25日~27日"Israel Slamstival"

2016-12-21 12:46:57 | 告知
2016年最後の朗読ステージは、イスラエルです。12月25日から27日まで、かの地で開催される国際ポエトリースラム"Israel Slamstival"に出場いたします。

25日にテルアビブで、26日にエルサレムでそれぞれスラムを行います。出場スラマーには、今年のポエトリースラムW杯で出会った懐かしい顔触れがズラリ。みんな上位進出者ばかりです。

今年、海外で朗読するのは、5月のパリのポエトリースラムW杯、9月のブリュッセル詩祭に続いて三度目となります。自分がイスラエルの地に立っている姿は、今回のオファーを頂くまで想像したことがありませんでした。こうした機会を頂けるのも詩のおかげ、ポエトリーリーディングのおかげです。

ポエトリーリーディングを続けた結果、こうして様々な国に行くことができるようになりました。9月のブリュッセル詩祭、そして今回のIsrael Slamstivalは、ポエトリースラムW杯に出場したことでそのオファーを頂きました。

私は、5月にW杯に出場して以来、ポエトリースラムという競技の存在意義、その価値について考え続けてきました。そして、それは「ポエトリーを通じた人間性の肯定」にこそあるという、現時点での私なりの結論に達しました。

例えばスポーツというものは、押しなべて最終的に、ジャッジは人間ではなく機械にとってかわられる世界に入ってゆきます。その判定の正確性、公平性を追求する限り、人間は機械より優れた判定は絶対にできないのです。

私は全然アスリートと呼べるほどのものではなく趣味の運動程度のものですが、10代の頃から40代の今まで、剣道や空手など運動競技を続けてきました。

それらの試合における審判は、研鑽も積み基準も熟知していたはずですが、長い間には、全然当たっていない技で負けにされたり、反対にかすってもいない技を一本にとってもらったこともあります。そして、ある時にはそうしたことの結果として、恐ろしい事象が生じるのも見ました。試合に敗れた強豪校の選手が監督にボコボコに殴られて「すみません!すみません!」と泣きながら謝っていたり、あるいは、負けたチームの監督そのものがクビになってしまったり。勝つと負けるとでは上下大違いで、下手をしたら何ヶ月も何年も積み上げてきたものが一瞬でパーになってしまうのです。選手たちにはそれぞれ背負うものがあり、真剣に死を覚悟して試合に向かうことだってあるのです。

ですからその判定は絶対に正確なものを目指さねばならず、テレビで見ればわかる通り相撲も、野球も、その他様々な競技にビデオ判定が取り入れられています。人間の目は性能が悪く、不正確だからです。そもそも時速300キロのF1が二台並んでホームストレートでチェッカーを受けた時、どちらが先にゴールしたかを見分けるのに、人間と機械とどちらが優れているでしょうか。それは自明の理であります。

ひるがえってポエトリースラムはどうか。なんとジャッジするのは当日ランダムに選ばれた観客です。訓練も受けておらず、統一された判定基準さえありません。そもそも人間の考え方などというものは、朝何を食べてきたか、その朝食の席で家族とどんな話をしたかという程度のことで変ってしまいます。同じ一人の人間でも、ある時は笑える楽しいわかりやすいものを求め、ある時はシリアスで不可解なものを求めます。そんな人間たちをランダムに選び出して、審査をさせようというのです。

ポエトリースラムW杯では、常に競技は、主催者が観客を煽り、全員で"Best poet never win!"と連呼させてから始まります。言ってみれば、その場にいる選手、観客、関係者の全てに、「これは正確性と公平性を究極に追及するものではない」と宣言し、あらかじめそのことを共有させているわけです。なぜそんなことが許されるのか。それは、厳密な基準を要求された時には機械には決して敵わない人間という存在の持っているなにがしかを肯定しなければあり得ないことです。

では、そのなにがしかとは一体何でしょう?

そもそも、「どんな詩が絶対に優れているのか」という絶対的かつ厳密な基準など、本当はあってはならないものかもしれないものです。

このような詩が優れています。このような詩を優れていると思いなさい。このような詩を良いと思うのは間違っています。これこそが絶対に正しいのです。そう言いつのる誰かがいたら、私は多分言います。「おまえはバカだ」と。それは、人間にとって何よりも大切な内心の自由を侵すものであるからです。たったひとつの思考に基づいて「こういうものを良いと思え」と他者に強要し、そのことに点数をつけるようなことこそがファシズムなのです。

常に揺れ、常に変動し、そして常にその揺れや変動を感じているからこそ、それを、誰かに強制されたものではない自分自身の感覚で捉えようとするからこそ、人間は詩というものを生み出したのではないのでしょうか。ポエトリースラムのシステムが肯定しているものとは、一人ひとりの個人としての存在なのです。

一方、出場するスラマーにとっては、統一された基準がない、人間のすることとしてのジャッジを受け入れねばないということは、そのことを前提として競技に臨まねばならないということは、とりもなおさず「自分の望まない結果が出たとしても、それを受け入れなければならない」ということになります。"Best poet never win"という言葉は、敗者を救う言葉であると同時に、競技者全てに覚悟を促す言葉でもあります。個人としての存在を許された者は、自分ではどうしようもない理由により自分の望まない結果が生じるかもしれないことを受け入れなければならないのです。スポーツ選手に覚悟があるように、ポエトリースラマーにも覚悟があります。私はポエトリースラムW杯の会期中、各国代表スラマーが他のスラマーのパフォーマンスを謗る言葉を、ただの一度も聞きませんでした。

勇敢な素敵で強くて自由で詩に溢れていて最高な人たちと、また別の国で、ポエトリースラムの場で再会します。

行って参ります!

最新の画像もっと見る

コメントを投稿