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中村哲医師を悼んで

2019-12-06 08:50:50 | 中村哲医師

12月4日、ペシャワール会の中村哲医師が武装集団に銃撃されて亡くなった。一番亡くなってはいけない人が、一番亡くなってはいけない場所で、一番亡くなってはいけない亡くなり方で、亡くなった。4日午後3時すぎ、衝撃的なニュースがツイッターに飛び込んできた。一瞬、心臓が止まりそうになった。ただ銃撃されたものの命に別状はないとのことだったので安堵していた。ところが、間もなく”死亡”のニュースが入ってきた。驚くと同時に涙が出そうになった。

中村氏の講演を初めて聞いたのは、今から18年前、3.11同時多発テロのあった2001年11月のことだった。ペシャワール会のこともその時に知った。九大六本松校舎の教室で語られたのは、武力では何も解決しないということだった。アメリカは、同時多発テロはアルカイダによるものとし、アフガニスタンへの武力攻撃をはじめていた。女性や子供まで皆殺しにされる様を「爆弾は人を区別できない」と怒りを込めて話されていた。講演後、中村氏と直接話がしたくて、あとを追いかけ近づいたところ、背中からオーラのようなものすごい力を感じて、声を出すことができなかった。あの時の中村氏の背中が今も目に焼き付いている。

2013年9月、福岡市アジア文化賞を受賞された。この時は「アフガニスタンに生命(いのち)の水を~国際医療協力の30年」と題し、特別講演が開催された。アフガニスタンでは1970年代から干ばつが悪化の一途を辿っていた。2000年には大干ばつに見舞われ、深刻な水不足により多くの人が亡くなっていた。そこで、中村氏は「100の診療所より1本の用水路を」と訴え、井戸を掘る活動をはじめられた。これまで飲料用1600本と灌漑用13本の井戸を掘って、2003年からは用水路建設もはじめられた。今回、銃撃に遭われた東部ナンガルハル州にある「マルワリード用水路」は2010年3月に開通、灌漑面積は実に3000haに及ぶ。ご存じのように、工事は福岡県朝倉市の「山田堰」がモデルとなっている。近代的ではなく伝統的な工法を用いることで、現地の人たちが建設、維持管理できるように考えてのことだった。この講演では、温暖化による気候変動にふれ、このまま便利な暮らしを続けていれば、いずれ日本でもアフガニスタンで起こっているような洪水や砂漠化が起きるだろうと憂いておられた。(アフガニスタンではここ数年、気候変動による影響が著しい)

2016年1月、九州国立博物館開館10周年記念行事として開催された講演を聞いたのが最後になってしまった。この講演では、緑の大地計画は2020年まで続く、今後は現地のスタッフを育てていかなくてはならないと話されていた。そして、結びの言葉は、「人間と人間が仲良くしないといけない」だった。武力では何も解決しないと言い続け、人を信じることを支えに危険な地域で30年以上にわたり活動を続けてこられた中村氏。その生きざまは日本だけでなく世界の人々の心を動かした。失ったものの大きさは計り知れない。悲しみは尽きないが、今はただ、中村氏が残された言葉を心に刻み、ここに哀悼の意をささげたい。

 

 

今年4月頃、中村哲氏の背後にはガンベリ砂漠から変わった緑の耕地が広がる(写真は5日付西日本新聞より) 

 

 

こちらは12月5日付西日本新聞4面

 

 

 

福岡アジア文化賞で九大アフガニスタン留学生の方から花束が贈られた時の写真(2016.9.14撮影)

 

 

受賞したことより賞金で重機が買える、と笑っておられた中村さん。いつもふらっと日本に帰って来ては、またふらっとアフガニスタンへ行かれていた。治安は大丈夫なのだろうかと不安に思うこともあったが、いつしかそう思うこともなくなっていた。この人だけは大丈夫なのだと。それなのに、、私が生まれた日に亡くなるなんて、、もう死ぬまでこの日を忘れることはなくなった。

  

 

《参考記事》

NHK「中村哲医師」のニュース一覧 ※随時更新中

西日本新聞【アフガンの地で 中村哲医師からの報告】※最新の報告は亡くなる2日前もの

 

《参考資料》

ペシャワール会

 

 



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