「いくさんのお部屋」つぶやきNo.3

日頃の何気ない日常をつぶやいています。

ご先祖さま

2008-02-18 23:22:54 | 雑感
私の実家の仏壇を、「洗い」に出すことになった。大正元年に私のひお婆さんの「おひささん」が、家を建てたときに購入した仏壇である。家と共に百年の歳月が過ぎようとしている。このお婆さんは働き者で、この人の代で爪に火をともすようにして、少しずつ田畑を増やしたそうだ。また当時の女性としては珍しく、自立した女性だったようだ。私の知っている限りでは、私の祖父も父も家長そのものの人だった。家長が男性である時代のことなのでこのことが信じられず、本当だとしたら凄いことだと思った。
私の母は、このおひささんの苦労を思うと自分の代で仏壇を綺麗にしたいと相談して来た。私は最初は当然のように反対した。その仏壇はキンキラキンで,どんな家にも収まるというようなものではない。お寺のミニチュア版のようなものだ。母はそれで満足だろうが、次の代ではいったいどうすれば良いのだろうかとかなり悩んでしまった。しかし、いくら悩んでも解決出来るものではない。
団塊の世代である私の世代は,価値観でも一つの節目だと思う。古い因習と決別した世代でもある。それが私の回りでは、時代の流れに逆行するような方向に導かれて行くようで、歯がゆい想いのすることがいっぱいある。しかし、古くさいことと言って切り捨てることも出来ない自分も自覚してしまう。
母の懇願にとうとう負けて、最後の大きな親孝行になるかなと思ってとうとう承諾した。お仏壇の魂を抜く儀式であるお正念抜きを、お寺にお願いして今日行われた。今度新しくなった仏壇には、お正念を入れる開眼法要というのをするということだ。
亡くなった人に魂があって、仏壇に入ってるということなのだが、そうしたらお墓には魂は無いと言うことなのか。それとも、魂とは自由に行き交うものなのか。
昨年流行した「千の風になって」では、「そこ(お墓)に私はいません」と歌われている。そもそも、この歌は魂がどこにあるのかが問題なのではなく、身近な人を無くして悲しみから抜けきれない人に、亡くなった人は「無」になるのではなくて「風になったり鳥になったりしてあなたの身近(心)であなたを見守っていますよ」という慰めを歌ってるのだと思う。
そう考えると、魂はお墓にあっても仏壇にあっても風になってもどこにあってもいい。残された人の心にあるもの、と考えたら母の想いも理解出来る。そういう私も,お墓参りもするし、また仏壇にもお参りする。ということは、日常として受け入れていることなのだ。
ちなみに、ネットでお正念を抜くというのを検索していたら、お坊さんのブログに「魂を抜いたり入れたり出来るような器用な坊さんはいるはずはない」というようなことが書かれていて、思わず笑ってしまった。
今日何も見えなかった私には,仏壇のお正念が抜けたのかどうかはわからない。しかし、気持ちが治まったことは確かだ。