―たとえわれ 命死ぬとも 死なましき 人は死なさぬ 道開きせん―
『愛国心の教科書: 誇り高く生きるための五十の話』渡邊毅 第5章 235ページで紹介されています(在庫なし)。
これは、遠方の地に種痘苗をとりに出かける際に笠原良策が詠んだ辞世の句と言われています。
インターネットも新聞もない時代1840年代に「長崎で種痘がうまくいっているらしい」とききつけてのことです(うーん、どうやってだ?)。
笠原良策は福井・越前藩の町医でした。鎖国下の日本にあって牛痘病の輸入を(藩主に)嘆願してからすでに3年がたったあとのことです。
(ここで不活化ポリオワクチンのために動いた開業の先生方のお姿を思い出します)
「人を死なさないため」の道を開くために私財を投じて危険をおかしてでかけた笠原良策は、長崎ではなく手前の京都で種痘苗を手に入れ福井の人々を守ります。
のちに福井県医師会恕ル「白神記―白神用往来留」(vaccine記)を記します。
その生涯を吉村昭がまとめています。
「数年ごとに大流行して多くの人命を奪う天然痘。それに絶対確実な予防法が異国から伝わったと知った福井藩の町医・笠原良策は、私財をなげうち生命を賭して種痘の苗を福井に持ち込んだ。しかし天然痘の膿を身体に植え込むなどということに庶民は激しい恐怖心をいだき、藩医の妨害もあっていっこうに広まらなかった…。狂人とさげすまれながら天然痘と闘った一町医の感動の生涯。」amazonより
今でこそ情報を知るツールはいろいろありますが、当時、庶民がワクチンそのものを理解するには大きな壁があったとおもいます。どうやってその理解や信頼を得たのでしょうか。
(以下、山元先生からおしえていただいた記事)
「モダンメディア」医学と公衆衛生に関する学術情報誌
の「人類と感染症の闘い「得体の知れないものへの怯え」から「知れて安心」へ」第11回「余話」(16ページ)
「幕末期には種痘の普及に検診した多くの蘭学医がいるが、そのうちのひとり(肥前佐賀藩医の)楢林宗健が「予防医学は報われない」という意味の発言をしている。
すなわち、「人は個人で受けた恩には感謝するが、集団で受けた恩には無関心でいる。また、災害を受けた際に助けてくれる人には感謝するが、災害を受けないようにしたり、災害が起こらないようにした人には関心を示さない」(北里大学:中山哲夫)」
Public Healthの神髄と課題そのもの!ですね。
そして、そのような中、医師を支援したのはお上ではなく、財界だったという話。
「幕末の種痘の普及に当たって、種痘の公式認可に関して保守的であった幕府や藩庁などとは異なり、豪商達の先見性と積極的な援助には目覚ましいものがあった。」
「大阪の種痘所(後の除痘館)の建設(1849年)に当たっては、両替商の大和屋喜兵衛が土地と建築費を提供している。
京都の種痘所「有信堂」(1849年10月)建設では、現在も東京に店がある文具の鳩居堂は閉鎖された除痘館にかかわるべく、土地と資材を提供した。
さらには自らも種痘の宣伝ビラを作成したり、種痘所で接種対象の子どもが親近感をもてるようにと和菓子を与えたり、子ども集めように珍しい孔雀を飼ったりさえした。」
人寄せパンダならぬ人寄せクジャクです。おまけつき。
「江戸の神田お玉が池の種痘所が建築わずか7カ月で神田大火で焼けたときには、銚子のヤマサ醤油の濱口が寄付をして種痘所を再建(1860年)」
うん。ふとっぱら!です。
神田お玉が池の種痘所は東京大学医学部のルーツなんですね。1858年、蘭方医82名が設立。
幕末の医師らの尽力と、日本のこの時代の医学を伝える洋書。
笠原良策も緒方洪庵も無料で種痘を提供していたそうです。
この夏は予防接種がらみの歴史資料をじっくり読みたいと思います(犬のではなくヒトのです)。
『愛国心の教科書: 誇り高く生きるための五十の話』渡邊毅 第5章 235ページで紹介されています(在庫なし)。
![]() | 愛国心の教科書 誇り高く生きるための五十の話 |
PHP研究所 |
これは、遠方の地に種痘苗をとりに出かける際に笠原良策が詠んだ辞世の句と言われています。
インターネットも新聞もない時代1840年代に「長崎で種痘がうまくいっているらしい」とききつけてのことです(うーん、どうやってだ?)。
笠原良策は福井・越前藩の町医でした。鎖国下の日本にあって牛痘病の輸入を(藩主に)嘆願してからすでに3年がたったあとのことです。
(ここで不活化ポリオワクチンのために動いた開業の先生方のお姿を思い出します)
「人を死なさないため」の道を開くために私財を投じて危険をおかしてでかけた笠原良策は、長崎ではなく手前の京都で種痘苗を手に入れ福井の人々を守ります。
のちに福井県医師会恕ル「白神記―白神用往来留」(vaccine記)を記します。
その生涯を吉村昭がまとめています。
「数年ごとに大流行して多くの人命を奪う天然痘。それに絶対確実な予防法が異国から伝わったと知った福井藩の町医・笠原良策は、私財をなげうち生命を賭して種痘の苗を福井に持ち込んだ。しかし天然痘の膿を身体に植え込むなどということに庶民は激しい恐怖心をいだき、藩医の妨害もあっていっこうに広まらなかった…。狂人とさげすまれながら天然痘と闘った一町医の感動の生涯。」amazonより
![]() | 雪の花 (新潮文庫) |
新潮社 |
今でこそ情報を知るツールはいろいろありますが、当時、庶民がワクチンそのものを理解するには大きな壁があったとおもいます。どうやってその理解や信頼を得たのでしょうか。
(以下、山元先生からおしえていただいた記事)
「モダンメディア」医学と公衆衛生に関する学術情報誌
の「人類と感染症の闘い「得体の知れないものへの怯え」から「知れて安心」へ」第11回「余話」(16ページ)
「幕末期には種痘の普及に検診した多くの蘭学医がいるが、そのうちのひとり(肥前佐賀藩医の)楢林宗健が「予防医学は報われない」という意味の発言をしている。
すなわち、「人は個人で受けた恩には感謝するが、集団で受けた恩には無関心でいる。また、災害を受けた際に助けてくれる人には感謝するが、災害を受けないようにしたり、災害が起こらないようにした人には関心を示さない」(北里大学:中山哲夫)」
Public Healthの神髄と課題そのもの!ですね。
そして、そのような中、医師を支援したのはお上ではなく、財界だったという話。
「幕末の種痘の普及に当たって、種痘の公式認可に関して保守的であった幕府や藩庁などとは異なり、豪商達の先見性と積極的な援助には目覚ましいものがあった。」
「大阪の種痘所(後の除痘館)の建設(1849年)に当たっては、両替商の大和屋喜兵衛が土地と建築費を提供している。
京都の種痘所「有信堂」(1849年10月)建設では、現在も東京に店がある文具の鳩居堂は閉鎖された除痘館にかかわるべく、土地と資材を提供した。
さらには自らも種痘の宣伝ビラを作成したり、種痘所で接種対象の子どもが親近感をもてるようにと和菓子を与えたり、子ども集めように珍しい孔雀を飼ったりさえした。」
人寄せパンダならぬ人寄せクジャクです。おまけつき。
「江戸の神田お玉が池の種痘所が建築わずか7カ月で神田大火で焼けたときには、銚子のヤマサ醤油の濱口が寄付をして種痘所を再建(1860年)」
うん。ふとっぱら!です。
神田お玉が池の種痘所は東京大学医学部のルーツなんですね。1858年、蘭方医82名が設立。
幕末の医師らの尽力と、日本のこの時代の医学を伝える洋書。
![]() | The Vaccinators: Smallpox, Medical Knowledge, and the |
Stanford Univ Pr |
笠原良策も緒方洪庵も無料で種痘を提供していたそうです。
![]() | 緒方洪庵―幕末の医と教え |
思文閣出版 |
この夏は予防接種がらみの歴史資料をじっくり読みたいと思います(犬のではなくヒトのです)。