Dr. WAKASAGI at HEI-RIVER(閉伊川ワカサギ博士)

森川海をつなぐ学び合いの活動を紹介します

300年の歴史のアメリカで、コウキリコ節を思う。

2016-10-21 | 水圏環境教育

宮古市箱石にお住まいの山崎シゲさん(90歳)はコウキリコ節の唄い手をおばあさんから受け継いでいる。代々先祖ひきついできた郷土芸能だ。この踊りは、判官神社で踊り、家々を回り、鈴ケ神社そして、根曲の神社まで歩き舞を踊ったという。鈴ケ神社、判官神社何世代にわたって、別当によって守り続けられてきた。判官神社は、義経の家臣、山名家の子孫が、代々守ってきた。また、鈴ケ神社は、義経のかがをまつったのではない。お墓なのだ。と。別当に言い伝えられていると聞く。

なぜ、今まで、表に出なかったのか。その大きな理由が、鎌倉幕府によって編纂された吾妻鏡だ。吾妻鏡は、勝者である頼朝を、中心にかかれたもの。歴史は、勝者によって自在に変えられているのが常である。別の観点からも、もともと北上高地は日本古来の縄文文化が栄えていたが、縄文人は、日本人ではなく、東北は7世紀までは日本でない、と解釈されてきた。これも中央政権よりに作られたものである。
(しかし、近年の研究によって、多くの日本人は縄文人の遺伝子を持っていることが明らかとなった。)
このように、歴史は、ある為政者によって塗り替えられたものなのである。
つまり、義経が住んでいたことが、時の都合によって否定された可能性もある。そう考えると、義経伝説は、事実であることも視野に入れて検討する必要があるのではないか。
歴史学とは一線を画して、 故郷の歴史伝説として、しっかりと情報発信すべきである。800年の歴史を誇る物語として世に出せば、また、いつの日か情勢が変わっていくかもしれない。
この伝説が北上高地に数多く残っていることは、何か大事なことを伝え残している気がする。まず第一に持続性である。なんだかんだ言ってこの地域は、数千年もひとびとがすんでいた。伝説が長い間、別当によって語り継がれ、そして守りつづけられたことは、ある意味忍耐を要することだ。単なる先祖の言い伝えだけではここまで続かなかったであろう。

お互いに認め合うとは、ある考えを単に固定観念に当てはまらないからと言って否定するのではなくて、その意味をよく考えることである。リスペクトしなければいけない。そのことが、創造性に繋がる。人々は、様々な経験や思いを持ちながら生活しているものだ。それには何か意味がある。その1つとして、生命や物質の循環だ。
たくさんの人口は養えないが、そこに潜伏できるだけの食料があった証拠でもある。何もなければ、生活できないのだ。


もしかしたら、自然を守り、大切に伝え残すために神社を作っているかもしれない。対象は義経でなくても良かったかも知れない。みんなが大事だと思うこと。これをずっと信じて守ってきたのだ。命の糧となっている自然をいかに伝え残すか、その思いが、伝承を生み、地元に活力を与え、自然と人間との関わりを紡いでいくのである。


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