北京・胡同窯変

北京。胡同歩きが楽しい。このブログは胡同のあんな事こんな事を拙文と写真で気ままに綴る胡同お散歩日記です。本日も歩きます。

第192回 北京・後溝胡同 北京基督教会崇文門堂(亜斯立堂)など

2018-05-29 10:21:17 | 北京・胡同散策
今回は地下鉄「崇文門駅」東北口近くの後溝胡同(HougouHuton/ホウゴウフートン)におじゃま
しました。

当日はまだ五月の下旬になったばかりだというのに夏日を思わせる高気温で陽射しも強かったので
すが、日陰に入ると実に快適な胡同散策となりました。

下の写真は地下鉄「崇文門駅」東北口近くの南出入口。



突然、窓がレトロな高いビル。



これは、英大伝媒ビル(英大传媒大厦)という(どうやら)メディア関係の建物のようです。

そして、左手には、どうしても“洋館”と呼びたくなってしまうおしゃれな建物が。





入口が惜しいなぁ。



この入口のシャッターだけは、見なかったことにしようっと。

ここは、婦嬰医院旧跡。



この医院は、のちほどご紹介するプロテスタント系教会組織が1800年代の終わりから
1900年代の初めに設立したもの。



再び見上げるような建物がありました。



こちらは、北京市耳鼻咽喉科研究所。



ここでは、プレートの下の方に「北京同仁医院」とあるのに注目です。この北京同仁医院も
先に書いたプロテスタント系教会組織が設立したものでした。

またまた洋館がありました。





こちらは北京市第一二五中学(日本の中学校と高校に該当)。



この中学校の敷き地は、第一二五中学創立以前には「北京市第13女子中学」という女子校が使用し
ていたのですが、さらにさかのぼるとここにはやはり「慕貞女中」という女子校があり、この女子校も
先に見たプロテスタント系教会組織が設立したものなのだそうです。

いよいよ問題の教会です。



この教会は現在その地名から「北京基督教会崇文門堂」と呼ばれていますが、もとは「亜斯立堂」(亜斯立を
あえてカタカなにすると「ヤースーリー教会」、英語では「Asbury Church」)という名称でした。





教会の中に入る前に、玄関脇の説明板ならびに胡同関係の本によってざっとですが教会の沿革を。

この教会がこの地に初めて建てられたのは、同治九年(1870)のこと。建てたのはアメリカの
「衛理公会(美以美会とも)」(英語名「Methodist Episcopal Mission」) 。この 「衛
理公会」から初めて南米に伝道のために赴いた、この教会の名前の由来となる亜斯立(ヤース
ーリー、英語でAsbury)主教を記念して創建されたそうです。



その後、
光緒六年(1880)に信徒数の増加に伴い再建、落成は光緒八年(1882)でした。しかし、光緒
二十六年(1900)、義和団事件(運動)の際に焼かれ、その二年後の光緒二十八年(1902)に清
政府により再建。二年後の光緒三十年(1904)に完成しています。



これは余談になりますが、民国期の軍閥の一人で、クリスチャン将軍と呼ばれた馮玉祥(ふう
ぎょくしょう/1882-1948)さんが、洗礼を受けたのは、なんとこの教会でした。
また、民国十二年(1923)に前妻病没後、翌年に再婚した李徳全さん(注)との結婚式を挙げた
のもこの教会だったそうです。

(注)李徳全さん(1896-1972)は、通州草房村の出身です。
日中戦争中、南京、重慶で婦人運動を指導。1949年国民党革命委員会代表として人民政治
協商会議に参加。1950年中国紅十字会会長。1965年中国人民政治協商会議副主席。
日本人の中には1953年からの中国残留日本人の帰国事業に尽力した人物としてご存知の方
も多いかもしれませんね。その他、託児所事業や救済事業にも力を注ぎました。

なお、この教会には時代はずいぶん下りますが、かつてアメリカの大統領だったジョージ・
ブッシュさんやクリントンさんなどもその訪中時に訪れています。



ここでは、正堂(メインホール)を主にご覧いただき、一部修繕中だった副堂(チャペル)は省略です。
当日は、西門から入り、東門から出ました。





八角形の天井と天窓。





ステンドグラスの一部。









東門。





プロテスタント系教会ということで、けっして派手さはありません。しかし、そのためでし
ょうか、その上、信者さんたちの礼拝時間を避けておじゃましたので、お蔭さまでひとりで
椅子に腰をおろし、しばし教会内独特の静寂な時間を独り占めして過ごすことが出来ました。


再び胡同へ。



陽射しを浴びながら、微風にゆられていた紅い提灯。



採光に工夫した、年季の入った家。
見える範囲に限っていえば、木造の部分が多いのが印象的。



木陰をつくる大きな木。



上の写真の突き当りを横切るのは、かつて造船所があったといわれる“船板胡同”。

歩くとお分かりになるのですが、この界隈の胡同には、なぜかこじんまりとした宿泊施設
が多いのです。聞くところによると、北京駅に近いために地方から商用や観光に訪れる人
たちが多いからなのだそうです。
下の写真の賓館もその一軒。



大木の木陰に涼しげな風情でおかれた古チューブでつながれた二台の三輪車。





かつての北京でもっともハイカラだった場所は、なんといってもこの胡同にほど近い、か
つての公使館区東交民巷。しかし、その規模はまったく違うけれど、教会を筆頭にその附
属の病院や女学校、そして今回ご紹介しなかったものの、その他の施設などもあったとい
う今回歩いた胡同だって、当時はけっこうハイカラだったんじゃないか。

できればタイムスリップしてそのハイカラぶりを歩きながらこの目でたしかめてみたい。
当時の教会を今回のように訪れてみるというのも、いいだろう。・・・いやいや、やめて
おくにこしたことはありません。間違って義和団事件の真っ最中にタイムスリップしたら
大変ですからね。



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第191回 北京・校尉営胡同(後) 某宅拝見、天都広場など

2018-05-24 10:01:06 | 北京・胡同散策
保護院落と書かれたプレートの貼られた36号院をあとに少し行くと、宅門と門洞を
間に二層のお宅が並んでいました。



胡同の雰囲気にあわせているのでしょうか。資金面のことはさておいて、この界隈の胡同、
たとえば栄光胡同のアパートの階段の上から見かけた簡単な造りの二階部分(次の写真)とは
だいぶ違い、堅牢そうな造りの二階部分を、なぜ場所によってこうも違ってしまうのかと興
味深く拝見しました。





上の写真の左手にゲートの一部が写っています。ここは、前回ご紹介した「天都広場」へ
通じていて、胡同の住民が広場へ行くのに便利な場所になっています。



次のお宅は16号院。



保護院落のプレートが貼られていました。



内部の様子をほんの少しですが、ご覧いただきます。



隣との境の塀。







上の写真奥、突き当りを左へ。









今回はこれ以上進めそうもない状況。もとに戻りました。





こちらは14号院。



保護院落です。



その隣の甲14号院。



こちらも保護院落なのです。



その隣は保護院落ではありません。



でも、ワンちゃんの寝顔は、かけがえのないものとしていつまでも守ってあげたい、
何人たりとも不可侵な超保護対象(このワンちゃんは、人が各人独自の時間を生きて
いるように、ただひたすら自分の時間を生きているだけなのかもしれませんが・・・)



そして、しばらく行って某お宅。



次の写真は、昨年11月の上旬に撮った同じ場所。



その時はまだ改修工事中で、新しいマンホールの蓋などが放置されています。

このお宅の門をくぐると中庭を囲んで四つの棟が建っています。この日、幸いにもその内の
一棟の内部を拝見することができました。少しですがご紹介させていただきます。

宅門をくぐると、中庭に鳥籠。



ネコもうつらうつらしていました。



玄関のドアを入ると台所。



内装工事がとりあえず終わってまだそれほど時間が経っておらず、工事のため運び出した家財道具が
まだそろっていないそうです。

台所の奥には、部屋が二つ。



各部屋とも清潔な白で統一されています。





新しい暖房設備などもととのっています。



上にご紹介した部屋の隣は寝室。

ベッド、テーブル、数脚の椅子などが置かれ、やはり新しい暖房施設もありました。



白く塗られた壁に『清明上河図』が飾られていたのが印象的でした。



なお、付記しておきますと、この部屋を某団体から譲ってほしいという話もあるそうです。しかし、
そこにはやっかいな複雑な事情があり、この話しは未成立なのだとか。

再び時計の針をもとに戻して歩きます。



うっ?



「宜興会館 文保院騰退办公室」というプレートが貼られています。



そういえば前回ご紹介した宜興会館は、2009年に西城区人民政府より「文物保護」の
対象になっていることを書き漏らしていました。

このオフィスは、その宜興会館跡地に住んでいて、現在は立ち退いた元住民たちとの
交渉に使われているようです。

あと少しで校尉営胡同も終点。



この辺りに来ると昨年11月見てしまったことが頭をよぎります。

その時は、鋪陳市胡同の北端に通じる東端からこの胡同におじゃましたのですが、
まさに改修工事中。



解体中の建物など。







再び時計の針をもとに戻します。



いよいよ終点。



突き当りを右折すると鋪陳市胡同です。

ここで、再び胡同と天都広場をつなぐゲートのところに引き返し、広場に出てみました。



当日は、まだ五月の中旬だというのに高気温で、ワンちゃんたちもつらそうでした。



健康増進のための運動用具。
この日は暑さのため、ご覧の通り。



しかし、卓球施設には卓球ファン。
ここは誰でも自由に卓球を楽しめる施設です。



かつて日本のテレビ番組内で、福原愛選手が北京の上のような卓球場で一般の人たちと卓球を
楽しんでいる場面を拝見したことがありました。福原選手によれば「中国の人たちは、卓球の
上手な人が多い」とか。その言葉を「うん、うん」とうなずきながら拝聴する。

その番組では、福原選手が北京の胡同を歩いている場面もあった。選手の昔からの大ファン
だという、胡同にお住まいのお年寄りに愛ちゃんが再会するするため訪ねていくという内容。

愛さんの胡同を歩く姿を拝見して、この方は胡同について詳しいんじゃないかな、と思ったり、
愛さんと一緒に胡同を歩いてみたいなぁ、などと勝手なことを思い描くも、福原選手は有名人
なので胡同を歩くとちょっと困ることもあるかな、などとやはり勝手なことを考えたりする自分
が、可笑しかった。

この広場を訪れる人々の目を楽しませてくれる花々に、一時暑さを忘れる。
数年前までのこの辺りをご存知の方は、その変貌ぶりにビックリなさるのでは。











この広場の東側にある地下鉄7号線「珠市口駅」D西南口出口。



この界隈の胡同を訪れるため、すっかりお世話になった地下鉄の駅。
天橋地区には興味深い胡同がまだまだあるのですが、校尉営胡同まで無事に歩くことができたので、
次回からは他の地区の胡同を歩く予定です。再びこの地域に舞いもどるまで、この駅ともしばしの
お別れ。ありがとうございました、珠市口駅さん。また会いましょう。



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第190回 北京・校尉営胡同(前) 周家楣と宜興会館など

2018-05-19 10:20:19 | 北京・胡同散策
校尉営胡同(XiaoweiyinHutong/シアオウェイインフートン)

今回おじゃましたのは、前回ご紹介した鋪陳市胡同の北端を東西に走る“校尉営胡同”。
当日は、商店街留学路沿いの西出入口より入りました。



昨年の春頃から改修工事が行われていたのですが、今年2018年の春前には工事もひとまず終了
したようです。

北側の塀沿いには、立派な表示板と説明版。
説明板の前の、生活感溢れる光景が素敵です。



改修前とは変わり、整然とした家並み。





こんな立派なレリーフも。



レリーフのあるお宅を過ぎると、以前にご紹介した九湾胡同の出入口。



レリーフや九湾胡同の出入口の向かい北側の塀沿いには、やはり生活感の溢れる光景がありました。



振りかえれば、かつてはこの生活感溢れる風景のあちら側にも多くの住宅が東西方向に並んでいて、
この胡同の一部だったのです。現在は、天都広場という公園になっており、素敵な花壇あり、卓球
施設などもあり、道行く人たちや胡同住民たちの憩いの場に変貌しています。地下鉄7号線「珠子口
駅」のD出口を出てすぐのところ。

ついでに書いておきますと、この胡同に現在残っている家並みの住所番号はすべて偶数番号です。
これは、かつて現在残る家並みとは反対側にも住宅が並んでいたことを示すあかしのひとつとなっ
ています。



胡同関係の本によりますと、この胡同、明の時代にはすでにあり、その頃の名は「校尉営」。清の
時代になると、「前校尉営」と「後校尉営」にわかれ、民国期に統一され、再び「校尉営」になって
います。現在名になったのは、1965年だそうです。



明代、校尉営だったと先に書きましたが、その名を見てもお分かりのとおり、当時、ここには
校尉の兵営があったことに由来しています。

肝心の「校尉」について簡単に書きますと、これは近代以前の官名で、漢代、軍職のなかでも、
将軍につぐ武官でしたが、時代がぐっと下って明、清の時代になると宮中や軍中を守る「衛士」
などのことも指していたようです。

この点と関係があるのかどうかは不明ですが、清の乾隆帝の1750年『京城全図』では、「校尉営」
の「尉」が同音の「衛」とあり、「校衛営」と記されているのが目をひきました。



防災のための消火設備もしっかり設えられました。



門構えの立派な建物。



ここは、周家楣(ヂョウジアメイ)さんの旧宅で、のちに会館になったところ。(文字化け
した場合のために書いておきますと、「メイ」は木扁に眉)

周さんは、アヘン戦争の起こる五年前の道光十五年(1835)に生れ、清仏戦争の終わる、ほぼ
二年前の光緒十三年(1887)に亡くなりますが、その間には太平天国の乱などもあり、まさに
内憂外患に苦悩する時代を生きた人。

清の光緒時代には順天府の長官(現在の北京市市長に相当)や総理各国事務衙門(当時欧米との交
渉を担当した役所)の大臣などをつとめ、北京地方史『順天府志』編纂にも参加しました。

周さんは人望のある人であったようで、その没後、その業績を称える意味で順天府の人々の出資
により、その故居の跡地には「宜興会館」が建てられ、そこには祠堂もあったそうです。住所は
44号院。

ちなみに「宜興会館」は、周家楣さんの出身地、江蘇省宜興に由来した名称です。









傷んではいるものの、力の籠った門墩が印象的です。





おじゃましてみました。



かつて住んでいた住民たちはすでに引っ越し、現在は今後行われる改修工事関係者だけが住んで
いる、といった様子です。







残念ながら、これ以上は中に進むことができず、戻りました。



長い時の流れがしみとおったような、門洞の側壁。



同じく、門楼の屋根裏。



やはり同じく、門扉。









瓢箪のレリーフ。



朝顔のレリーフ。



瓢箪も朝顔も蔓もので縁起ものです。

立派な屋根。



ここは、理髪店。



そう言えば『フートンの理髪師』という味わい深い映画がありましたね。





理髪店のシンボルマークがさかさまに取り付けられているため、“HAIR”という文字が逆立ち
していました。

でも、きっと、こういう細かいことをこせこせと気にしたりする方はいないのでしょうねぇ。
なにせ中国は広いですから。





こちらのお宅は36号院。



保護院落と書かれたプレートが貼られていました。



おじゃましてみました。



写真奥にレンガで造られた物置のようなものがあり、その先には建物の側壁。
その壁の一部がたいらになっているのがお分かりになるでしょうか。



これは、昔この壁が魔除けの働きを持った「影壁(インピー)」の役目を果たしていたことを
示していると思われます。





正面奥に昔の建物らしきものが見えてきました。
今回は、ほんの一部をご覧いただきます。



足元には、味わいのある石段。







先にご紹介した「影壁」のところに戻った時、「影壁」の横に、清楚、涼しげ、繊細、しなやかな力強さ、
そんな言葉たちが似合うかと思われる植物模様の彫り飾りを見つけました。





どうやら、おじゃました時には「影壁」に気をとられてしまい、うかつにも見逃してしまったようです。



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第189回 北京・鋪陳市胡同(後) 地名の由来など

2018-05-08 10:22:04 | 北京・胡同散策
右手塀越しにプレハブ。



これは、現在建設中の地下鉄八号線工事関係者用の施設。



地下鉄八号線は、2008年に開催された北京オリンピックに合わせてつくられた路線で
すが、現在、北は昌平区の朱辛庄駅と南は南羅鼓巷の間を走っています。
2018年末から2020年にかけて、南羅鼓巷から大興区の五福堂駅まで開通予定。

ご参考に八号線の路線図の一部を貼っておきました。
この胡同のすぐ近くには「天橋駅」もできるんですよ。







少し行くと左手に路地がありました。





前に、1965年以前、この胡同内には、天匯夾道、十八寓、小眼鏡、任家頭といった小胡同があり、
1965年の地名整理の折、鋪陳市胡同に編入されたことを書きました。

断定はできないので保留としておきますが、この路地はひょっとすると「小眼鏡」という胡同では
なかったかと考えています。







あまりに画一的とも思える改装後の胡同のなかにあって、玄関脇に何気なく置かれた腰掛けが
不思議にわたしの胸に迫ってきました。



少し歩くと貼り紙。







さらに行くと門墩(mendun/メンドン)がありました。











路地を出て、ふたたび歩き出すと、



看板に「天尚粮油供应站」と書かれたお宅。



天尚はメーカー名。粮油は、日本語で書きますと糧油で、穀類と食用油。
供应站は、供應所で、提供するところ。



実は、アヒルのヤヤを見つけたのは、このお宅の玄関でした。



「今回も会えるかな」。
そんな期待を胸にここまでやってきたのはよいものの、残念なことに今回はアヒルのヤヤに会う
という期待を実現することはできませんでした。でも、今回はダメでも次の機会もあるんじゃな
いかな、そう自分に言い聞かせて先へ。

隣はちょっとした本屋さん。





少し行くと、薬屋さん。





「天天平価」。毎日廉価なのです。





左手前の建物のこちら側は、以前にご紹介した「九湾胡同」の出入口です。

糧油取扱店、本屋、クスリ屋、洗濯屋さんと、お店が続きます。





お次は、理髪店。





さて、この胡同名に「鋪陳(ブーチェン)」という漢語が使われ始めたのは民国期(1912年)に
入ってからですが、旧時この胡同は、棉織物などの使わなくなった布キレや布くずの集散地で
もあったようです。

もちろんここに集められた布キレや布くずは購買者によって加工されて使われるわけで、たと
えば、布靴の靴底などに利用されていたとのこと。そして肝心の鋪陳という言葉ですが、これ
はこの布キレや布くずのことを指す言葉であったそうです。

現在この言葉は名詞としては枕や布団など寝具を意味する言葉として使用されていますが、こ
の「鋪陳」という言葉は、こんな意味にも使われていたんですね。布製の靴がごくごく一般的
であり、生活必需品であった昔、靴底を作るための布キレなどを求めて、たくさんの人たちが
この胡同に集まったのではないでしょうか。ここは、多くの庶民の生活に密着した胡同でした。







あと少しで、この胡同も終点です。
写真奥に見える高い建物は、北京市基督教会珠市口堂です。



キリスト教のプロテスタント諸教派のひとつ、メソジスト派の教会です。
修繕されているのはもちろんですが、建てられたのは、一般的に反キリスト教、排外主義運動
といわれている義和団事件(中国では義和団運動)が起こった1900年から4年後の1904年でした。
中国にとっても、中国に進出した西洋にとっても重い歴史を担った教会です。



レトロな看板のかかったお店。
こちらは、国営鋪陳市副食店。



思わず自宅に持って帰りたくなってしまう、ぜひ雨児胡同の古物件博物館に収蔵していただきたい
看板です。



新中国成立後の歴史が堆積した味わいのある看板をあとにすると、いよいよこの胡同の
北端。



右手にレンガ塀が見えますが、民国期の地図によりますと、この塀のあちら側に北から南にかけて
1965年にこの胡同に編入された天匯夾道、十八寓という二つの胡同が並んでいた模様です。



北端を左折すると見えてきますのは、東西に走る“校尉営胡同”です。



北端からもと来た道を戻っていくと、わたしは目が点になりました。
行く手前方に今回は会えそうもないと決め込んでいたアヒルのヤヤが、おしりをフリフリ歩いている
姿を見つけたからです。

「えっ・・・ヤヤだ」

世の中には不思議なことがいっぱいありますが、やはりそういう不思議なことに出会ってしまうと、
ある種の驚きととまどいを禁じ得ません。

「こういうことって、ありますよね」
誰にいうともなく心の中で言いながら、自然と急ぎ足になって、でも、ヤヤを驚かさないように
気をつけながら、ヤヤに近づいてみました。

ヤヤは、泥んこ遊びに興じたあとだったらしく、その美しい羽には泥がついていました。





ヤヤは、わたしがカメラを持って近づいても、近くを道行く人が通りかかっても、まったく物怖じ
せず自宅前の道路をおしりをフリフリ歩いています。その散歩姿は、すっかりこの胡同になじんで
いるようでした。



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第188回 北京・鋪陳市胡同(中) 観音禅寺と『乾隆京城全図』における寺廟数

2018-05-01 13:52:07 | 北京・胡同散策
鋪陳市胡同を南口から入ってしばらく行くと“観音禅寺”というお寺の跡地がありました。



創建がいつなのかは分からなかったのですが、1750年頃に作られたといわれる乾隆『京城
全図』を見ますと「観音庵」(地図では旧字体)という寺院があり、仮にその観音庵を観音
禅寺の前身だとすると、その時からでもすでに250年以上は経っていることになります。

今回は、この観音禅寺におじゃましてみました。



住所は、鋪陳市胡同115号。



“保護院落”と書かれたプレートが貼ってありました。



ちなみに「院落」とは、屋敷、中庭という意味ですが、ここでは屋敷のこと。


おじゃましました。



奥が深そうです。







おじゃましたのはよいものの、内部が複雑でどちらに行ってよいやら手探りならぬ目探り状態。

この自転車の置かれているお宅の前を右折。



うえの写真奥に見えます建物の屋根が、かつて観音禅寺の一部であったのではないかと思われます。

道沿いに前進してみました。









よかった、見えてきました。





「おめでとう!!」
ワンちゃんが歓迎してくれました。



保護の対象であることを示す“保護院落”と印刷された青色のプレート。
このプレートが北京の内城外城にはじめて登場したのは、2003年7月16日。場所は、東四十二条39号
でした。







私の目にした2007年の報告では、2003年の11月末までに658ヵ所の院落にこのプレート
は貼られています。







保護院落のプレートの貼られた658ヵ所の内訳を区域ごとに見ますと次の通りになっています。
東城区 333
西城区 154
宣武区 91
崇文区 80
以上、『北京胡同志』(主編段柄仁。北京出版社)など、胡同関係の著書を参考にしました。

次の写真は、直前の場所を角度を換えて撮ったもの。
右の軒が、昔のお寺の名残りです。





この辺になりますと、どうやってここまで辿り着いたのやら、まったくといっていいほど
わからなくなっている状態です。







先にこの観音禅寺が、乾隆十五年(1750)『京城全図』では観音庵という名称であったことを
書きました。そこで、ついでといってはなんですが、『京城全図』にはどのくらいの数の寺廟
があったのかを調べたところ、次のことが分かりましたのでご報告。

『北京城市歴史地理』(主編/侯仁之。北京燕山出版社)によりますと、『京城全図』に記載のある
寺廟数は、1320。

比較的多い寺廟名とその数を次に書いておきました。
関帝廟(116)、観音庵(108)、土地廟(42)、真武廟(41)、火神廟(30)、白衣庵(27)
伏魔庵(26)、天仙庵(24)、五聖廟(23)、地蔵庵(22)、三官廟(20)、五聖庵(18)
三元庵(11)、娘娘廟(10) 

上の数字を見ますと、「関帝廟」と「観音庵」が他の寺廟数を圧倒していることがわかります。
なお、「伏魔庵」とありますが、祀られていたのは「関羽」、「白衣庵」には「観音菩薩」が祀ら
れていました。

ほかに名称は違いながら祀られている神仏が同じものをあげますと、次の通りです。
「天仙庵」と「娘娘廟」、「五聖廟」と「五聖庵」、「三官廟」と「三元庵」。



次回は、鋪陳市胡同の北端まで歩きます。
もう少しお付き合いいただけたら嬉しいです。



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