栄光胡同。
当日は、前にご紹介した趙錐子胡同沿いにある北出入口から歩き始めました。
一見すると、ごくごく普通の胡同ですが、新中国が成立する1949年以前、ここは
後述するように三等妓院がひときわ多い場所でした。
胡同関係の本によりますと、清の時に“蓮花玉河”、民国以降“蓮花河”となりました。
なぜ“蓮花玉河”あるいは“蓮花河”という名前であったのか、その美しい名前の由来が
知りたくてわたしなりに調べてみたのですが、残念ながら胡同関係の本には書かれていま
せんでした。清の朱一新『京師坊巷志稿』にも“蓮花玉河”という地名は載っていますが、
その由来までは書かれていません。
この美しい名前の河をめぐってはわたしなりにいろいろ考えているのですが、未だ納得の
出来る答えが出せず、只今思案中といったところです。
なお、現在の栄光胡同になったのは、1965年のことでした。
気になる地名の書かれた郵便番号を示す札がありました。
栄光胡同ではなく、小光栄胡同と書かれています。
後ほどご覧いただきますが、もう少し歩いたところでも小光栄胡同と書かれた札に遭遇。
推測に過ぎませんが、昔、現在の栄光胡同の一部分に「小光栄胡同」という地名があったのかも
しれません。
ただし、実際の門牌(住所表示板)を確認すると、どれも次の写真のようにちゃんと「栄光胡同」
となっていました。
木製の門扉。
胡同を歩いていると、どうしても目が行ってしまいます。
たとえ古くなって傷んでいても、大切にしていただきたいなぁ、と思っております。
干した布団を取り込んでいる女性。
嬉しいじゃぁありませんか、写真を撮っているわたしを見かけたこの女性、
「こちらにいらっしゃいよ、よく見えるから」
幸いにも、そんな言葉をかけてくださった。
お言葉に甘えて、さっそく階段を上がり、撮ってみました。
北西方向。
二階を増築したお宅が目立ちます。
西方向。
西南方向。
写真を撮ったのは、このアパート。
アパートの名前なのかどうか確認はしませんでしたが、
栄光二柚(ロングアンアルヨウ)と書かれていました。
「柚」とは、ザボンのこと。
アパートの横の通路。
ほんの少し行くと左手に路地。
元に戻って、大きな福の字。
他の住宅とは、ちょっと造りの違うお宅がありました。
玄関まわりは、ほかのお宅とそう変わってはいないのですが、塀の高さが低い。
出来るだけ長い時間、部屋に陽の光を採り入れるための工夫なのかもしれません。
ちなみに、塀の向こう側の部屋は東向き。
こじんまりとしてはいますが、門扉といい、丈の低い塀越しに見える窓枠といい、実にいい
雰囲気。いつまでも大切にしていただきたいなぁ。
二階には、鳥籠がいっぱい。
再び小光栄胡同と書かれた札。小栄光胡同なら分かるのですが、なぜに小光栄なの?
一見何気ない場所であるにもかかわらず、ほんの少し調べてみると芋づる式にいろいろな
ことが見えてきます。今回の栄光胡同はそのひとつ。
今回の記事のはじめにこの胡同には三等妓院の多かったことを書きました。
以前にも挙げたのですが、ここで再び民国18年(1929年)の北京における妓院と妓女の調査
を三等妓院までご覧いただきます。
一等妓院(清吟小班) 妓院数45軒、妓女数328人。
最多は「韓家潭」(現在名、韓家胡同)、次は「百順胡同」と「陕西巷」。
二等妓院(茶室) 妓院数60軒、妓女数528人。
最多は「石頭胡同」、次は「朱茅胡同」。
三等妓院(下処) 妓院数190軒、妓女数1895人。
最多は「河里」(現在名、栄光胡同)、次は「四聖廟(現在名、四勝胡同)。
三等妓院(下処)のところをご覧になるとお分かりの通り、最も多かった場所として「河里」、
すなわち現在の栄光胡同の名が挙っています。「河里」とは、当時の地名であった蓮花河の
俗称でした。
ちなみに、1929年とはどういう時代であったのか。
世界大恐慌の始まった年ですが、中国国内に目を向けてみますと蒋介石などによる「北伐」
は前年の1928年には終わったといわれるものの、実際にはまだまだ軍閥間の戦争はつづいて
いたようで、しかも、悲しいかな、1928年から数年間、西北・華北地方では大飢饉があった
そうです。
当時、蓮花河と呼ばれた胡同に三等妓院が具体的にどのくらいの数あったのか残念ながら
分かりませんが、現在の栄光胡同の長さがおよそ120メートルほどしかないことを考えると、
蓮花河とは、三等妓院の怖ろしいほどの密集地帯ではなかったかと想像されます。
中国でも人気者のキティちゃん。
余談になりますが、キティちゃんで思い出したことを書いておきますと、熊本地震(2016年)
以降、くまモンの縫いぐるみをスーパーマーケットや喫茶店などでよく見かけるようになった
と感じるのはわたしの気のせいか。
ちなみに熊本の友好姉妹都市は、中国の場合、風光明媚な桂林市です。
あとわずかで栄光胡同の南端。
ここからそれぞれ魅力に富んだ三本の胡同(儲子営胡同、大喇叭胡同、霊佑胡同)に
わかれています。
最後になりますが、ご参考に新中国成立以前、三、四等妓院の多かったといわれる場所の中から三
箇所ほど有名どころを次に挙げておきました。
楽培園
現在、楽培園胡同。場所は、広安門内大街沿い北側にある「報国寺」の東側。
黄花苑
現在、新生巷。場所は、磁器口大街沿い東側。
忠恕里
現在も同じ。場所は、天壇公園西側にある自然博物館の北側。
今回は、今からけっして遠くはない90年ほど前に三等妓院の多かったといわれる栄光胡同、かつ
て蓮花河と呼ばれた胡同を歩いてみました。
思えば、貧しさゆえに苦界に身を沈めた妓女たちですが、その妓女たちと蓮花河という美しい地名
の取り合わせが、あまりに悲しい。せめて、彼女たちを蓮花河の闇夜に咲いた美しき蓮の花と思い
たい。
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当日は、前にご紹介した趙錐子胡同沿いにある北出入口から歩き始めました。
一見すると、ごくごく普通の胡同ですが、新中国が成立する1949年以前、ここは
後述するように三等妓院がひときわ多い場所でした。
胡同関係の本によりますと、清の時に“蓮花玉河”、民国以降“蓮花河”となりました。
なぜ“蓮花玉河”あるいは“蓮花河”という名前であったのか、その美しい名前の由来が
知りたくてわたしなりに調べてみたのですが、残念ながら胡同関係の本には書かれていま
せんでした。清の朱一新『京師坊巷志稿』にも“蓮花玉河”という地名は載っていますが、
その由来までは書かれていません。
この美しい名前の河をめぐってはわたしなりにいろいろ考えているのですが、未だ納得の
出来る答えが出せず、只今思案中といったところです。
なお、現在の栄光胡同になったのは、1965年のことでした。
気になる地名の書かれた郵便番号を示す札がありました。
栄光胡同ではなく、小光栄胡同と書かれています。
後ほどご覧いただきますが、もう少し歩いたところでも小光栄胡同と書かれた札に遭遇。
推測に過ぎませんが、昔、現在の栄光胡同の一部分に「小光栄胡同」という地名があったのかも
しれません。
ただし、実際の門牌(住所表示板)を確認すると、どれも次の写真のようにちゃんと「栄光胡同」
となっていました。
木製の門扉。
胡同を歩いていると、どうしても目が行ってしまいます。
たとえ古くなって傷んでいても、大切にしていただきたいなぁ、と思っております。
干した布団を取り込んでいる女性。
嬉しいじゃぁありませんか、写真を撮っているわたしを見かけたこの女性、
「こちらにいらっしゃいよ、よく見えるから」
幸いにも、そんな言葉をかけてくださった。
お言葉に甘えて、さっそく階段を上がり、撮ってみました。
北西方向。
二階を増築したお宅が目立ちます。
西方向。
西南方向。
写真を撮ったのは、このアパート。
アパートの名前なのかどうか確認はしませんでしたが、
栄光二柚(ロングアンアルヨウ)と書かれていました。
「柚」とは、ザボンのこと。
アパートの横の通路。
ほんの少し行くと左手に路地。
元に戻って、大きな福の字。
他の住宅とは、ちょっと造りの違うお宅がありました。
玄関まわりは、ほかのお宅とそう変わってはいないのですが、塀の高さが低い。
出来るだけ長い時間、部屋に陽の光を採り入れるための工夫なのかもしれません。
ちなみに、塀の向こう側の部屋は東向き。
こじんまりとしてはいますが、門扉といい、丈の低い塀越しに見える窓枠といい、実にいい
雰囲気。いつまでも大切にしていただきたいなぁ。
二階には、鳥籠がいっぱい。
再び小光栄胡同と書かれた札。小栄光胡同なら分かるのですが、なぜに小光栄なの?
一見何気ない場所であるにもかかわらず、ほんの少し調べてみると芋づる式にいろいろな
ことが見えてきます。今回の栄光胡同はそのひとつ。
今回の記事のはじめにこの胡同には三等妓院の多かったことを書きました。
以前にも挙げたのですが、ここで再び民国18年(1929年)の北京における妓院と妓女の調査
を三等妓院までご覧いただきます。
一等妓院(清吟小班) 妓院数45軒、妓女数328人。
最多は「韓家潭」(現在名、韓家胡同)、次は「百順胡同」と「陕西巷」。
二等妓院(茶室) 妓院数60軒、妓女数528人。
最多は「石頭胡同」、次は「朱茅胡同」。
三等妓院(下処) 妓院数190軒、妓女数1895人。
最多は「河里」(現在名、栄光胡同)、次は「四聖廟(現在名、四勝胡同)。
三等妓院(下処)のところをご覧になるとお分かりの通り、最も多かった場所として「河里」、
すなわち現在の栄光胡同の名が挙っています。「河里」とは、当時の地名であった蓮花河の
俗称でした。
ちなみに、1929年とはどういう時代であったのか。
世界大恐慌の始まった年ですが、中国国内に目を向けてみますと蒋介石などによる「北伐」
は前年の1928年には終わったといわれるものの、実際にはまだまだ軍閥間の戦争はつづいて
いたようで、しかも、悲しいかな、1928年から数年間、西北・華北地方では大飢饉があった
そうです。
当時、蓮花河と呼ばれた胡同に三等妓院が具体的にどのくらいの数あったのか残念ながら
分かりませんが、現在の栄光胡同の長さがおよそ120メートルほどしかないことを考えると、
蓮花河とは、三等妓院の怖ろしいほどの密集地帯ではなかったかと想像されます。
中国でも人気者のキティちゃん。
余談になりますが、キティちゃんで思い出したことを書いておきますと、熊本地震(2016年)
以降、くまモンの縫いぐるみをスーパーマーケットや喫茶店などでよく見かけるようになった
と感じるのはわたしの気のせいか。
ちなみに熊本の友好姉妹都市は、中国の場合、風光明媚な桂林市です。
あとわずかで栄光胡同の南端。
ここからそれぞれ魅力に富んだ三本の胡同(儲子営胡同、大喇叭胡同、霊佑胡同)に
わかれています。
最後になりますが、ご参考に新中国成立以前、三、四等妓院の多かったといわれる場所の中から三
箇所ほど有名どころを次に挙げておきました。
楽培園
現在、楽培園胡同。場所は、広安門内大街沿い北側にある「報国寺」の東側。
黄花苑
現在、新生巷。場所は、磁器口大街沿い東側。
忠恕里
現在も同じ。場所は、天壇公園西側にある自然博物館の北側。
今回は、今からけっして遠くはない90年ほど前に三等妓院の多かったといわれる栄光胡同、かつ
て蓮花河と呼ばれた胡同を歩いてみました。
思えば、貧しさゆえに苦界に身を沈めた妓女たちですが、その妓女たちと蓮花河という美しい地名
の取り合わせが、あまりに悲しい。せめて、彼女たちを蓮花河の闇夜に咲いた美しき蓮の花と思い
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