今回は、外城は先農壇の北側、天橋地区におじゃましました。
まず歩きましたのは“鷂児胡同”。
胡同関係の本などによりますと、ここには、山西省の「平介会館」「浮山会館」、清末、犯罪
者の捜査逮捕にあたった官署「外城巡警庁」(前身は清代の「都察院中城正指揮衙門」)があっ
たそうで、それらの跡地が現在どうなっているのかを自分の目で確認してみたくて歩いてみま
した。
名称について簡単に記しておきますと、明の時代は「要児胡同」という名前でしたが、清の時
代に「要(yao)」が同音の「鷂」に変化したそうです。
ちなみに、「鷂」は肉食の猛禽ハイタカ(雀鷹)のこと。ここは、けっこう恐ろしい名前の胡同
なのです。
なお、当日は庶民的で人出の多い商店街「留学路」沿いの西入り口から歩き始めました。
傷を負った門墩。
ミシンの修理屋さんがありました。
ご主人のご厚意で、店内に置かれていたミシンを拝見することができました。
置かれていたのは、飛人牌、蝴蝶牌など、いずれも中国の有名ブランド。
蝴蝶牌は1960年代中ごろに出現したブランドですが、その前身は1927年国産第一号として誕生した
“金獅牌”。
なお、1970年代の末から80年代、蝴蝶牌あるいは蜜蜂牌縫紉機(ミシン)、永久牌自行車(自転車)、
上海牌手表(腕時計)は、当時の青年男女にとって、結婚のための“三大必需品”といわれていたとか。
後日お伺いすると看板が出ていました。
こちらの門敦も凄いことになっていました。
痛ましい姿を人目にさらしていますが、その時代を語る場合に欠かすことのできない存在なのです。
左手のお宅の外壁、屋根瓦とも新しく改修されたばかりといった雰囲気。
大きな剪紙(切り絵)。
次のお宅は31号院。清末から民国期に建てられたものでしょうか、背後に見える洋風の建物が
しゃれています。はたしてどのような方が住んでいらっしゃったのか、単なる個人住宅であっ
たのかどうか、いろいろと考えさせられた物件です。
後日知ったことなのですが、こちらには指揮者の李徳倫さん(1917-2001)が住んでいらっしゃった
そうです。
お隣の29号院。
他日見かけた時には門扉が開いていたので覗いてみると、門扉が二重になっていました。
住居棟が少し低い位置にあることが分かります。
29号院の南側は、30号。
胡同関係の本などによりますと、ここがかつて山西省の「平介会館」(「平遙」「介休」の二県の合
建。ここを「三晋会館」と呼ぶ胡同本もあり)のあったところ。また、一説には28号院もこの会館の
一部であったといわれています。
かつては戯楼などもあったそうで、大きな会館ではなかったかと思われます。
次の写真は「平介会館」の一部であったといわれる28号院。ここは30号院のすぐ隣。
そして、お次は「浮山会館」のあったところ、と、はっきり書きたいところなのですが、「浮山会館」
の所在地について14号院という説と16号院という説の二説があり、ただいま思案中というのが正直な
ところです。そこでここでは、ご参考にその二箇所の写真を挙げておくことにいたしました。
まずは、14号院。
お次は、16号院。ここは、14号院のすぐ隣になっています。
なお、民国初年に作られたのではないかと思われる『北京地図 MAP OF PEKING』(複製)には「各省
会館基地」として各省の会館名と所在地が載っていまして、それによると確かにこの胡同には山西の
「平介会館」(「平遙」「介休」の二県の合建)と「浮山会館」があったこと、そして、安徽省の「徽
州会館」のあったことが分かりました。ただ、残念なことはこの地図では具体的な番地が分からない
こと。そのため胡同関係の本や中国人ブロガーの記事などを調べてみたのですが、今なお安徽省の「
徽州会館」の跡地がどこなのか不明です。
今回、この胡同にあったといわれる会館について、今後さらに調べてみる必要があると痛感した
次第です。
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まず歩きましたのは“鷂児胡同”。
胡同関係の本などによりますと、ここには、山西省の「平介会館」「浮山会館」、清末、犯罪
者の捜査逮捕にあたった官署「外城巡警庁」(前身は清代の「都察院中城正指揮衙門」)があっ
たそうで、それらの跡地が現在どうなっているのかを自分の目で確認してみたくて歩いてみま
した。
名称について簡単に記しておきますと、明の時代は「要児胡同」という名前でしたが、清の時
代に「要(yao)」が同音の「鷂」に変化したそうです。
ちなみに、「鷂」は肉食の猛禽ハイタカ(雀鷹)のこと。ここは、けっこう恐ろしい名前の胡同
なのです。
なお、当日は庶民的で人出の多い商店街「留学路」沿いの西入り口から歩き始めました。
傷を負った門墩。
ミシンの修理屋さんがありました。
ご主人のご厚意で、店内に置かれていたミシンを拝見することができました。
置かれていたのは、飛人牌、蝴蝶牌など、いずれも中国の有名ブランド。
蝴蝶牌は1960年代中ごろに出現したブランドですが、その前身は1927年国産第一号として誕生した
“金獅牌”。
なお、1970年代の末から80年代、蝴蝶牌あるいは蜜蜂牌縫紉機(ミシン)、永久牌自行車(自転車)、
上海牌手表(腕時計)は、当時の青年男女にとって、結婚のための“三大必需品”といわれていたとか。
後日お伺いすると看板が出ていました。
こちらの門敦も凄いことになっていました。
痛ましい姿を人目にさらしていますが、その時代を語る場合に欠かすことのできない存在なのです。
左手のお宅の外壁、屋根瓦とも新しく改修されたばかりといった雰囲気。
大きな剪紙(切り絵)。
次のお宅は31号院。清末から民国期に建てられたものでしょうか、背後に見える洋風の建物が
しゃれています。はたしてどのような方が住んでいらっしゃったのか、単なる個人住宅であっ
たのかどうか、いろいろと考えさせられた物件です。
後日知ったことなのですが、こちらには指揮者の李徳倫さん(1917-2001)が住んでいらっしゃった
そうです。
お隣の29号院。
他日見かけた時には門扉が開いていたので覗いてみると、門扉が二重になっていました。
住居棟が少し低い位置にあることが分かります。
29号院の南側は、30号。
胡同関係の本などによりますと、ここがかつて山西省の「平介会館」(「平遙」「介休」の二県の合
建。ここを「三晋会館」と呼ぶ胡同本もあり)のあったところ。また、一説には28号院もこの会館の
一部であったといわれています。
かつては戯楼などもあったそうで、大きな会館ではなかったかと思われます。
次の写真は「平介会館」の一部であったといわれる28号院。ここは30号院のすぐ隣。
そして、お次は「浮山会館」のあったところ、と、はっきり書きたいところなのですが、「浮山会館」
の所在地について14号院という説と16号院という説の二説があり、ただいま思案中というのが正直な
ところです。そこでここでは、ご参考にその二箇所の写真を挙げておくことにいたしました。
まずは、14号院。
お次は、16号院。ここは、14号院のすぐ隣になっています。
なお、民国初年に作られたのではないかと思われる『北京地図 MAP OF PEKING』(複製)には「各省
会館基地」として各省の会館名と所在地が載っていまして、それによると確かにこの胡同には山西の
「平介会館」(「平遙」「介休」の二県の合建)と「浮山会館」があったこと、そして、安徽省の「徽
州会館」のあったことが分かりました。ただ、残念なことはこの地図では具体的な番地が分からない
こと。そのため胡同関係の本や中国人ブロガーの記事などを調べてみたのですが、今なお安徽省の「
徽州会館」の跡地がどこなのか不明です。
今回、この胡同にあったといわれる会館について、今後さらに調べてみる必要があると痛感した
次第です。
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