北京・胡同窯変

北京。胡同歩きが楽しい。このブログは胡同のあんな事こんな事を拙文と写真で気ままに綴る胡同お散歩日記です。本日も歩きます。

第26回 熊家胡同2・道端の「五講四美」

2015-04-30 11:10:40 | 通州・胡同散歩
かつてはなかったにもかかわらず今はあり、かつてはあったにもかかわらず今はなくなっている、と
いうことがある。

胡同を歩いていてもそんなことに出会うことがある。

次の写真は前回もアップしたものだが、右側奥の壁に赤地に白で何やら書かれた看板のようなものが
ある。



この看板なようなもの、次の写真をご覧になってもお分かりのように、具体的には2013年10月にこの場を
訪れた時にはなかったものである。




看板に近づいてみる。




さらに接近。

壁に向かって左から。

一つ目



二つ目



三つ目



四つ目



五つ目




看板に見られる言葉から何を読み取るかは読む人の立ち位置によって違ってくるにちがいない。しかも、
その抽象度の高さゆえにその違いははなはだしいものになる、ということも十分に考えられる。
たとえば、「共産党」「社会主義」「人民」などの漢語から日本と中国の言語交流史に思いを馳せる人
だっていらっしゃるかもしれない。中には看板に見られる言葉から遠く離れて、かつての日本で見られた「鬼畜
米英」「贅沢は敵だ」などの標語を思い浮かべる人がいたっておかしくはない。さらには、「贅沢は素敵だ」と
つぶやきニヤリとする方だっているかも、だ。


ところで、上に見た看板はかつてはなかったにもかかわらず今はあるものの一例だが、次にご紹介する
のは、かつてはあったにもかかわらず今はなくなってしまったものの例である。



この玄関は前回ご紹介した門墩(mendun)のある家のとなりで、上に見た看板の前にある家のものだ。
撮影は、2015年1月14日。


次の写真をご覧願いたい。これは同じ家の玄関を2013年の10月に撮ったものである。



玄関右側に文字の書かれた紙が貼られているのがお分かりだろう。

正面から見るとこうなる。



廃業してしまったのかどうか理由は分らないが、2年前、この家の玄関には「院内理髪」と書かれた看板があった。
それが今年はなくなっていたというわけだ。

ちなみに今年4月23日にこの家の前を通った時も看板はなかった。




胡同を舞台にした二種の看板によるドラマをご覧いただいた。そのドラマから何を読み取るかは観客の力量
しだいということになってしまうが、どちらの看板が主役でどちらの看板が脇役だなどとということはここでは
どうでもよい。ましてやどちらの看板の演技が上か下かなどといったことが重要なのでもない。とりあえず私に
とって大切なのは、それぞれの看板が同時代をそれぞれの役柄、使命や夢を背負って、ひとつは今もその役を演
じていること、はたまたもうひとつはいかなる看板であったとしてもかつてその役を演じていたことはまちがい
ないということだ。


胡同をさらに歩いてみたい。

次の写真は、かつて「院内理髪」という看板がかかっていた家の進行方向となりの家。



次は上の家の玄関前あたりから撮った胡同正面。



さらに進み、正面。

右側の壁の奥にやはり看板らしきものが写っているが、この看板らしきものについてはのちほど触れたい。



少し進み、左側の家。



上の家の玄関正面。



上の家の前の壁。



少し進み、左側の家。



玄関正面。



2013年10月10日に撮影した時には、こんな感じだった。
秋になりその葉が散りはじめ、この季節ならではの独特の味わいがあった。




時間をもとに戻して・・・
隣の家。



正面。
壁に色違いのタイル壁が貼ってある。



前の壁。



壁にかかっている看板を見てみよう。




この看板を見たとき、まっさきに目に飛び込んできたのは「文明」という言葉だった。おそらく、北京、広くは
この国の各地で見かける言葉なので気になっていたということなのだろう。

そして、この言葉から思い出す。
「五講四美」。

文化大革命時、この国では「礼節」は人民を縛りつけるもの、人民を蝕むものとされ、革命の対象だった。
四人組が倒されると、この国には季節の移り変わりのような変化があった。

「五講四美」の「講」とは「重んじる」ということ。
具体的には、「文明を重んじる」「礼儀を重んじる」「衛生を重んじる」「秩序を重んじる」「道徳を重んじる」
の五つ。

「四美」とは、「美しい心」「美しい言葉」「美しい行為」「美しい環境」の四つ。

ある人々からすればごく当たり前のことでも、歴史的環境が違えば身につけている習慣も違ってしまう。
文革期だけにその要因を求めるのはどうかと思うが、中国の人々はある時期、いろいろなものを失った。
たとえば好ましいと思われる習慣を身に付ける機会を失ってしまった、と言ってはいいすぎだろうか。


「五講四美」。たとえそれが理想だとしてもそれはかつてこの国にあったにもかかわらずある時期に失われてしまっ
たものだ。その失ってしまったものを取り戻すには時間がかかるにちがいない。習慣を身につけるとはそういうことだ。
失ったものをなんとか取り戻さんとする、そんな悲願を背負って自己の役柄を演じているのが、この「文明」と
いう漢語なのかもしれない。


胡同歩きを続けたい。

少し進んで、正面。


右側の壁にやはり看板があるが、これはこの胡同についての説明書き。日本人の私にとっては重い言葉が書かれて
いた。回を改めて触れる予定だ。

なお、前を横切っている通りは、中街(胡同)。


もう少し進み、進行方向。




写真左側の家に謎の物体を発見。

写真奥をご覧願いたい。



謎の物体に接近すると、こうなる。
生れてこのかた初めて目にした物体だ。
どこをどのように見、どのように考えてよいのか分らず、目がグルグルしてしまった。◎◎!!





この妙に存在感のある謎の物体についてあれこれ考えていると、三枚前の写真に写っているこの物体の横に置かれた
板や重石のようなものまでが謎に思えてきた。いったいこれらの下にはなにがあるのか。


人の気配がしたので振り返ると、自転車に乗った男性に「やあ!」と声をかけられた。顔見知りだ。



この男性がこれからどこへ行くかは分っている。以前ご紹介した回民胡同の愛鳥家のお仲間のところだ。
次の写真の向かって左がそれだ。




お仲間のところに向かう愛鳥家の背中を見送っていると、うら若き乙女が二人、私を追い越したかと思うと話しかけ
てきた。「どこから来たのか」「どこに住んでいるのか」と聞かれた。つたない中国語で日本から来て、通州に住んで
いると告げると二人そろって口をアルファべットの「O」の字にしていた。



そして別れ際に「再見」のかわりに私に向かって投げかけられたピースサイン。私は喜んで受け止めた。


二人の乙女が姿を消した後、先ほどの謎の物体のある家の横にも謎がならんでいた。



しかし、この時、私の興味を惹いたのはこの横並びの謎以上に子供たちが遊んでいたことだ。




次の写真、両脇の二人は姉と弟。もう一人はその友だち。

私がどこの小学校に行っているのか尋ねると、民族小学とはきはき教えてくれた。



やはり「どこから来て」「どこに住んでいる」のか聞かれた。前と同じ返事をしたら、三人とも驚いたような感心
したような声を出し、そして私に関心を抱いたような顔をしていた。

礼儀正しい、というのがその立ち居振る舞いから抱いたこの三人に対する忌憚のない感想である。おそらく、
親御さんや学校の先生方のふだんの躾のたまものなのだろう。上の写真からもその一端をうかがい知ることが出来る
かもしれない。三人のきちんとそろえた足がなんとも言えずかわいらしい。

子供ながら彼らに他者を尊ぶ他者への思いやり、心のゆとりのようなものを感じた。私などがふだん忘失してしま
いがちな美徳だ。負うた子に教えられるとはこのことだとあらためて実感した次第である。

自転車に乗った愛鳥家、ピースサインのうら若き乙女、そして子供たち。年齢・性別の違うこれらの人々から、私は
パブロ・カザルスのことを書こう。

カザルスが楽器店(あるいは古本屋とも)でバッハの「無伴奏チェロ組曲」の楽譜に初めて出会ったのは13歳の時だという。
初めて公開演奏したのは14年後の27歳。名盤といわれるレコード録音したのは1936年から39年にかけての、60歳から
63歳の時だった。その楽譜に出会ってからほぼ50年後のことだ。
彼がその愛奏曲「鳥の歌」をニューヨーク国連本部において演奏したのは94歳。その時彼は「私の生まれ故郷カタルー
ニャの鳥は、ピース、ピースと鳴くのです」と語ったそうだ。

        
次の写真は今年の4月23日に撮ったもの。

あの謎の物体がなくなっていた。また、板や重石のようなものもなくなっていた。
そのかわり、土の中から植物が幼くたよりない顔を出していた。



おそらくアヤメ科だろう。
板は土の中の植物の球根を厳しい寒さから守っていたというわけだ。
何事もそうなのだろうが、あることなりものを大切に育てようと思うならば、こまやかな愛情と時間が必要だ。
そんなことをあらためて考えさせられた道端の花壇だった。



この家の横側の謎も解けた。
鉢植えだったのだ。




4月29日、近所まで行ったので、ついでに「熊家胡同」に寄ってみた。




すると謎の物体の一部があるではないか。





使いみちは分らないが、どうも風力発電のための道具のようだった。


その横の植物たちも大きくなっていた。







家の横側の鉢植え。







再びアヤメ科とおぼしき、まだ幼いが前より逞しさの感じられる植物。



それぞれがどのような花を咲かせるかは分らない。しかし、やがて咲くであろう花々が緑の葉とともに道行く人々の
心に潤いを与えその目を楽しませるであろうことはまちがいない。


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第25回 熊家胡同1 ・岩本公夫さんの本のことなど

2015-04-13 16:33:20 | 通州・胡同散歩
朝晩はもちろんのこと、終日まだ寒い日もあるが北京はすでに春を迎えている。
道行く人の装いも厚手のものから心持ち軽快なものへと変わり、沿道や公園、アパートの庭などには、
桃や木蓮、ライラック、海棠、そして桜などが競うように咲き乱れ、人々の目を楽しませてくれている。

そして「清明節」。
「清明」は二十四節気の一つ。「春分」の次に位置している。今年は4月5日だった。先祖の墓参りなどを
する日。その「清明」をはさんで、4,5,6日の三日間が連休。

元の呉澄という人の『月令七十二候集解』という本では「清明」のことを
 「万物ここに至りて皆潔斎にして清明なり」
と書かれているそうだ。
この「清明節」。いかにも春という季節にふさわしい年中行事の一つである。

そこで、そんな季節にふさわしい胡同写真をと考えていたのだが、計画倒れになってしまった。

本日から数回に分けてご紹介する「熊家胡同」の写真は冬の真っさい中の1月14日に撮ったものがメインとなるが、
時に以前に撮った画像やこれから撮るであろう写真なども織り交ぜてご紹介したい。


次の写真は、熊家胡同の西側の出入り口。私が立っているのは、旧通州城のメイン通り「南大街」だ。




次は2013年の10月10日に撮ったもの。左側に「緑」が見えるが、「緑」の有無によって胡同の表情がだいぶ
違ってくるようだ。



「緑」という言葉から思い出したことを忘れてしまう前に書きとめておきたい。

胡同関係の本を読むと、そのほとんどが胡同の壁を「灰色(またはカタカナでグレー)」と書いてあるようだ。
たしかに「灰色」であることに間違いはないのだが、「灰色」と言っても私の目に映じる胡同の壁の色は、
底光りのある青味がかった灰色である。ひとくちに灰色と言ってもいろいろあることを考えてみる必要がある
のでは、と思う。私の目がおかしいと言われればそれまでだが・・・(^^)


プレート。



ずいぶん年季の入ったものだが、侮ってはいけない、その理由は秘密だが。
欲を言えばこれ、琺瑯びきのものだったらなぁーなんて、思ってしまう。


少し進んで、正面。




左の家。




さらに進んで、正面。




左の家。




上の家の正面の壁。




さらに進み、やはり正面。




左側の家の壁の、子供の落書き。その1。




子供の落書き、その2。




落書きのある家の壁と玄関。




玄関に接近。




正面。


三輪車が置いてあり、玄関の下を写すことができなかった。


門墩(mendun)。玄関正面に向かって右側。




玄関正面に向かって左側。




次の写真は日を改め1月22日に撮ったもの。この時は幸いにも玄関前になにもなかった。



この門墩(mendun)、太鼓のような形をした部分が、この界隈で見かける同形のものよりやや小振りだが、太鼓の
部分に厚みがあり、全体的に張りのようなものが感じられる。小さいながら力強さのこもった一品だ。

以前にもご紹介したが、岩本公夫さんの『北京門墩』(「門」は簡体字、「墩」は石偏。北京語言文化大学出版社)
によれば、「門墩(mendun)」は、獅子型・抱鼓型・箱型・柱型・特殊型の五つに分類できるようだ。

この分類に従えば写真のものは「抱鼓型」ということになる。

なお、同書で著者は一つの仮説として、「抱鼓型」の門墩の置かれている家の主人の身分を「武官」、「箱型」の
それが置かれている家の主人の身分を「文官」と書き、次のように推測していらっしゃるのは興味深い。

 「鼓は武官に必要な軍用の太鼓・箱は文官に必要な文箱・彫飾の無い箱は時の政権に貢献し朝廷から頂いた勲章
  か賞状を入れた箱ではないでしょうか?」

ちなみに、当ブログでも何回となくご紹介した門墩(mendun)にも当てはまることだが、門墩の上の動物の頭や周囲に
施されていた彫り飾りなどが削りとられ、そのいたましい姿を目にすることがある。
やはり同書によれば、これは文化大革命時に門墩が「四旧」の一つであったからだそうだ。
門墩はこの国の歴史を背負って今なお胡同に息づく時代の証言者のようなものだ。



次の写真は上に見た門墩のある家の壁の前から進行方向を写したもので、数枚前にアップした写真と同一のものである。



向かって右側の壁に横長の何か書かれた看板のようなものがかかっている。
これは次の写真でも分るように2013年10月にここを訪れた時にはなかった。



なんだろう。


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