北京・胡同窯変

北京。胡同歩きが楽しい。このブログは胡同のあんな事こんな事を拙文と写真で気ままに綴る胡同お散歩日記です。本日も歩きます。

第114回 通州・頭条胡同(その四) 節水規制、計画生育委員会、沢野ひとしさんの「石」

2016-10-31 11:49:01 | 通州・胡同散歩


散歩中のワンちゃんたちを見送って。
伏せた甕が置いてありました。



このタイプは一般的に金魚缸(jinyugang)として使用されるものですが、
こちらのお宅では、腰掛け兼クルマ除けとして使っていらっしゃるようです。



布団が気持ち良さそうに干されています。
その背後には、公衆トイレ。



中国では「公共厠所(gonggong cesuo)」ですが、最近は「公共衛生間(gonggong weishengjian)」
と表記したり呼んだりするようになりました。

現在私が歩いている胡同内のトイレも「「公共衛生間」と胡同入り口の案内板
には書かれています。

入ってみます。



男子小用が3つ。
しゃがみ式大用が3つ。



洋式が1つ。



冷暖房設備有り。



中国の公衆トイレを拝見して常々「おもしろいなぁ」と感じることが2つ。
1つは、どうして扉がないの?
2つ目は、通路側に向かってしゃがむのは、どうしてなの?
いつか納得のいく答えを見つけたいなぁと、ひそかに目論んでいます。

日本や世界のトイレ事情について、ディープなものではありませんが、こんな記事が
ありました。

『最新の便器で一回に流す水の量は何Lくらいですか?』(トイレナビ・一般社団法人
日本レストルーム工業会)によると、1990年頃までは「13リットル」が主流で、最近
は大6リットル、小5リットル以下になっているそうです。

『大便器の節水・CO2削減-トイレでエコ』(同上)に載っている東京都水道局の調査
(平成24年)によると、トイレでの水使用は風呂についで2番目に多くなっているそう
です。具体的には次の通り。

風呂44%、トイレ22%、炊事17%、洗濯15%、その他。

『日本のトイレの常識は、海外の非常識? 』(トイレ・All About)には、ドイツ、アメ
リカ、インド、中国のトイレ事情が簡単に紹介されているんですが、中国にはトイレ
の洗浄水量を6リットル以下に抑えるという「節水規制」があるんだそうです。知り
ませんでしたよ。

それぞれのお国柄や国情が色濃く反映されているトイレ事情。そんなトイレに目を注い
でいると「人間はなんだか素晴らしいなぁ、世界中の人たちが友だちなんじゃないか」
と思えてきてしまいます。





この建物の様子を見て「今は使われていないんじゃないかなぁ」とつぶやいてしまったん
ですが、実際のところは不明。



ここに見られる「北京市通州区人口と計画生育委員会」「北京市通州区計画生育協会」は、
中国の人口政策の一環として設立された組織。

「北京市通州区人口と計画生育委員会」の元締めは、人口政策の監督省庁「国家人口と
計画生育委員会」。この委員会は2003年2月に設立されたのですが、前身は1981年3月に
設立された「国家計画生育委員会」。

2013年3月、「国家人口と計画生育委員会」は、「衛生部(日本の旧厚生省に相当)と合併
し、現在は「国家衛生計画生育委員会」となっています。

ですから、この看板に見られる「北京市通州区人口と計画生育委員会」という名称は
今では使われていないのでは?と思うのですが、地域によって違いがあるのかも。

上に見た三回の名称変更の背後を見ると、人口問題と格闘するこの国の姿の一端を垣間
見ることができることは、いうまでもありません。



横切っているのは、この界隈の胡同の南北を貫く「中街(胡同)」。

左角に石とセメントを棒状に固めたもの。



イラストレーター・エッセイストの沢野ひとしさんは『北京食堂の夕暮れ』(本の雑誌社・
2014年刊)の中で、こんなことを書いています。

「人はなぜ山に登るのかー単刀直入に言うと、そこに石があるからだ。」
「この宇宙の中で、石ほど不変で美しいものはない。冷静で沈黙を保ち、そのうえ
水晶や瑪瑙のように輝く。」
「思慮深い人は平素から石を信じ石にかじりついて人生を全うしていく。」

このように書く沢野ひとしさんは、胡同歩きのよく似合うお方なのです。

左側に塀の上に飾りのあるお宅を発見。







花飾りが、いっぱい!
数えてみたら15個もありました!!



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第113回 通州・頭条胡同(その三) トイレの話で恐縮です。

2016-10-23 10:22:13 | 通州・胡同散歩


このワンちゃん、私の姿を見て顔をそむけた、と前回書きましたが、実はそうでは
ありませんでした。
少しの間、入り口で横向きのままじっとしていたワンちゃん、やがてもと来た所に
戻っていき、さらにお座りまでして何かを待っている様子。



どうやら飼い主さんと散歩のようです。



飼い主がやって来るのを大人しく待っていたんですね。



ワンちゃん、オシッコしてる。

ワンちゃんのあの時のスタイルにご興味をお持ちの方は『イヌはそのときなぜ
片足をあげるのか』(今泉忠明著・TOTO出版)をご覧ください。

たしか昨年のこと、ニュース(電子版)で北京の公衆トイレをめぐる記事をいくつ
か読んで「ヘェ~!!」と思ったことがありました。

ある記事によると、北京の公衆トイレにWiFi、光熱費の支払い、ATM、携帯電話
や電気自動車の充電設備、さらには血圧や心肺測定、尿検査といった身体検査の
できる設備を設置するというもので、このような設備が充実した公衆トイレを「
第五の空間」と呼ぶのだそうです。(「人民網日本語版」2015年10月12日・『北
京の公衆トイレにWiFiとATMを設置へ 携帯の充電も可能に』)

ほかのニュースには、(北京の)房山区に登場した「第5空間」には、老人や子供
連れの利用者を補助する設備があるほか、冷暖房も完備され、さらには清掃員用
の休憩室やシャワールームまで付いている、とありました。
同記事によると、「第5空間」とは、仕事、生活、余暇、ネット空間に次ぐ第5
番目の空間という意味なんだそうです。(「レコードチャイナ」2015年11月21日
『「中国のトイレは汚い」は昔のこと? 北京にスゴい公衆トイレが登場』)

上の記事の他に次のような記事もありました。上記二つの記事は昨年のものです
が、これは今年半ばごろのもの。

その記事によると、北京市では今年中に新たに800か所もの公衆トイレを建設し、
中国全土では来年までに計5万7000所で公衆トイレを新設・改築するほか、農村部
での水洗トイレ導入を急ぐなど、世界第2位の経済大国にふさわしいトイレ環境を
整えることを目的にしているそうです。なお、同記事によると、通州区には一挙に
100ヵ所の豪華トイレが建設される予定とか。(「NEWSポストセブン」2016-5-14・
『北京市が800か所でWi-fi完備公衆便所建設 トイレ革命目指す』)

これらの記事を読んだとき、いろいろな思いが心に浮かんだのですが、取り急ぎ
その内から3点を書くと次の通りです。

一つは、利用者に便利さ・快適さを提供しようとしている当局の取り組み姿勢に
「中国もなかなかやるなぁ」という、いささか楽天的で好意と感動のこもった思
い。二つ目は、「そんな豪華なトイレって必要なの? 他にお金をかける所はない
の?」という当局者たちにとっては大きなお世話。そして三つ目。私にはこれが最
も重要なことだったのですが、それは「記事に見られる便利さ・快適さって、多
くの人たちの目につき易い感動的なものばかりだと思うんだけど、多くの人の目に
見えない地味な部分は一体どうなってるの? 何か問題はないの?」という好奇心
とおそらくは私の杞憂に過ぎないであろう、気がかり。「杞憂」と書きましたが、
気がかりな点については後ほど再び触れたいと思います。

先にご紹介した記事を読んで昔の北京のトイレ事情を思い出しました。

清の嘉慶時代以降に書かれたと思われる『燕京雑記』という本には当時の北京の道
路やトイレ事情に関して次のような記事が載っていました。

“京師溷藩、入者必酬以一銭、故當道中人率便溺、婦女輩復傾溺器於當衢、
 加之牛溲馬勃、有增無減、以故重汚疊穢、觸處皆聞。”
 (迷訳:北京のトイレは利用者が一銭を払う必要があり、だから道行く
  人たちは路上で大小便、ご婦人たちは便器の中身を道路にぶちまけ、
  それらに牛馬の糞尿が加わり、増えることがあっても減ることはなく
  汚れる一方である、と聞いている。)

そして、清の末期のトイレ事情を窺わせる夏仁虎の『旧京瑣記』には次のような
記事。

“行人便溺多在路途、偶有風厲御史、亦往往一懲治之、但頽風卒不可挽。”
 (迷訳:通行人は路上で大小便をし、役人さんがしばしば取り締まり
懲罰を与えても、悪習はなかなか無くならない。)

これらの記事を読んで驚きと共に凄まじい路上風景が目先にちらついてしかたが
ないという方、中には驚きを通り越して「なんとおおらかなんだ!感動したぁ~」
とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、こんなことで驚いたり感
動したりしていてはいけません。私が驚愕とともに看過できなかったのは、胡同関
係の本に載っていた数字。

“清宣統三年(1911年)、北京城区有官建公厠3座、私建公厠5座。”
(『北京胡同志』段柄仁主編・北京出版社)

1911年の段階で官設の公衆トイレが3つ、私設が5つ。当時、北京城内にどの位
の人たちが居住していて、仕事などで地方からどの位の人たちがやって来たのか
分からないのですが、当時の人口に比べて公衆トイレの数が圧倒的に少なかった
ことは想像に難くありません。

もし“文明人”たる“日本人”である私が当時の北京にタイムスリップしたとしても、
きっと道端の老若男女に混じって嬉々として大小便をしているでしょう。もち
ろん、はじめは抵抗を覚えるかもしれません。でも、この生理現象だけは皇帝で
あろうが庶民だろうが文明人たる私だろうが止められません。しかも、習慣は第
二の本能。一度身に付けてしまった習慣は毎日食事をするようなものでお役人が
どんなに厳しく取り締まったところで、そう易々と改められる訳がないのです。

この辺で少し話題を変えて皇帝とトイレのお話。中国にはこんな「笑い話」があ
るそうです。

宋太祖・趙胤が四川を平定すると、後蜀皇帝・孟昶の皇宮の宝物は全部宋太祖の
ものになったわけですが、持ち帰った品物の中に瑪瑙や翡翠を嵌めこんだ素敵な
器があり、その器をたいそう気に入った太祖は部屋にその器を飾っていたとか。

ある時、太祖が孟昶の寵愛していた花蕊婦人を招いて踊りを踊らせた時、婦人は
太祖に告げたそうです。「その器は孟昶が使っていた便器」と。すると太祖は「
こんな便器を使って、国が滅びない道理があろうか!!」と怒ってその器を叩き壊し
たそうです。

なお、室内用携帯便器を日本語で「おまる」と言いますが、漢字で書くと「御虎
子」。「虎子」とは昔の中国では大小便の容器のこと。「おまる」の「まる」は
中国語「馬桶児(マートル)」が語源だと言う説があります。前にご紹介した尚秉和
『歴代社会風俗事物考』(秋田成明編訳『中国社会風俗史』)によりますと漢の皇帝
は行幸の時に玉製の「虎子」を侍中(帝の側近に侍って諸事を弁ずる官)に持たせて
お出かけになっていたそうです。「瑪瑙や翡翠を嵌めこんだ便器」や「玉製」の
便器。いずれも豪華なものですが、孟昶を罵った宋太祖はいったいどんな便器を
使用していたのやら。興味津々です。

ここで話を再び公衆トイレに戻しますが、昨年の7月に全国レベルの公衆トイレに
関する次のようなニュース(電子版)記事を目にしました。

その記事は、中国国家観光局は「全国観光工作会議」(2015年1月開催)において、
「全国観光トイレ建設管理大行動」を全国規模で展開することとしたというもの。
その半年後の7月における事業の進展状況はといえば、事業主体の国家観光局の担
当者によると、この「観光トイレ革命」は、全国各地で大きな評価を得ていて、「
今のところ、各地のトイレの新設・改造工事は、全体的に、順調に進展している」
そうです。
(「人民網日本語版」2015年7月20日・『中国「トイレ革命」実施スタートから半
年すでに5千ヵ所の新設・改造完了』)

ただし、この記事には次のような問題点が3点挙げられていて、これらの問題点が
大きな障害となった場合、これらの障害をいかに克服するか、その辺りのことが
今後の中国のトイレ事情を左右するのではないかと思われます。もちろん、北京
の公衆トイレ事情に関しても例外ではありません。

その3点とは次の通りです。
第1は「資金不足」、第2は「管理不行き届き」、第3は「技術的問題」。

記事には続けて次のような文言がありました。「国内の高地、寒冷地、山間部、水
資源に乏しい中西部地区では、トイレ建設にはまだまだ大きい困難が伴い、『生態
系トイレ』『便のメタンガス化』などの技術も、広い実用化が実現していない。」

鈴木了司さんの『寄生虫博士の中国トイレ旅行記』(集英社文庫・1999年10月25日)
には今挙げた問題を含め、単に中国だけではなく、日本におけるトイレ事情に関連
する話も載っており、興味がつきず、しかもこの本は人間とほかの生き物と自然と
の関係を私に考えさせてくれました。その中で著者の鈴木了司さんは、こんな事を
書いています。

“水洗トイレは、ボタンを押すことによって水道の水が糞便を、あっという間に流し
てしまうのだからたしかに便利である。
したがって、水洗トイレ・イコール文明と思い、水洗トイレがどれほどあるかは
衛生状態を示すバロメーターの一つと関係者は思いこんでいるが、それは正しく
ない。糞便を処理する方法の一つにすぎないのだ。
私は水洗トイレを悪いとは言わないが、流せばすべて終わりと考えるのはあまり
に早計だ。下水道がなく、終末処理施設が未整備の場所では、糞便まじりの水が
川に入れば飲料水が、海に流れこめば魚貝類がそれぞれ汚染されて、結局は人に
戻ってくる。汚染ばかりか、海で富栄養化の犯人となるリンや窒素が赤潮の発生
をおこす。したがって、処理する浄化槽なり、下水処理施設が完備し、機能する
ことが水洗 トイレの設置条件だ。なお、一応の処理はできるとしても、現在の科
学では種々な薬剤や設備を使っても100%完全な浄化処理はできないことも承知
しておくべ きだろう。”

“さらに水洗トイレは水を使う。生活用水すら満足でない所では水洗トイレは作れ
ない。また、水洗で流す水は、飲んだり料理に使う量にくらべればきわめて多い。
コップ一杯にも満たない尿や糞便のために、製造に金がかかる浄水処理された水
を10リットル前後使ってしまう。そのうえ、下水設備などの終末処理にも莫大な
費用がかかる。つまり、水洗処理には金がかかる。だから、水洗化によってトイ
レの使用は快適にはなるが、環境面からも、経済面からも、諸手(もろて)を上げ
ては賛成しがたい。”

私などは、どうしても目に付きやすい所ばかりを見てしまいがちですが、「それっ
て、どうなの?」と考えさせられてしまいます。

排泄は人間の体にとって重要な営み。その営みの場所であるトイレや便器。その上、
トイレは話題の泉です。でも、多くの人からいとわしい存在として白い目で見られ
がちなトイレや便器。それらに関心を寄せること、それは取りも直さず「大小」の
“製造元”である人間自身に関心を持つことなのでは?と私個人は思います。今回はそ
んなトイレや便器をめぐって、香り高いお話を熱くご紹介させていただきました。


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第112回 通州・頭条胡同(その二) 犬の話 ~「鼠退治」「陸機と黄耳」~

2016-10-10 10:08:05 | 通州・胡同散歩
春聯の貼られた家の前から胡同正面。



左側を見ると気になるお宅がありました。



例によってヘチマなどの蔓巻き用の棚。
「一見の価値あり」とばかりに、早速中に入って「写真を撮らせていただこうかな」と思っ
ていると・・・・



なにやら奥に生きものの気配。入るのをやめて、玄関前で待機していると奥から
やって来たのは手入れのよく行き届いた白い毛がふさふさの大きな犬。

日本スピッツのルーツといわれるジャーマン・スピッツ。



ワンちゃんたら、前々回ご紹介したワンコ先生と違い、私の姿を見ると顔をすぐにそらせて
しまいました。
この犬種は、明るくて活発、飼い主には従順だと言われているようですが、それ以外の人に
は警戒心が強いのだとか。

ワンちゃんと言えば、50年ほど前の文化大革命の時代には「ペットはインテリの暇つぶしだ」
「犬を飼うのは贅沢だ」などと言われていたこともあったのですが、今年に入ってから見た
ニュース(電子版)などでは今や中国における猫の飼育数5810万匹で世界第2位、犬はというと
2740万匹で世界第3位なんだそうで、「暇つぶしだ」「贅沢だ」などと白い目で見られていた
時代から比べるとイヌやネコ自身はもちろん、イヌやネコが大好きすぎて困っている人たちに
とってみれば現在はとても生きやすい時代。

胡同を歩いていてもこれは実感として伝わってきて、まさに今は「イヌも歩けば棒」ならぬ
「人も歩けばイヌに当たる」といった時代です。そこで、今回はイヌに関するお話を二つ
ご紹介させていただきます。

まずは、イヌが「鼠退治」用に飼われていたというもの。犬好きの方からはブーイングが
聞こえてきそうですが、どうかお許しを。

“周ではまた犬に鼠を捕らえさせていて、そのために、犬の能力を見分ける専門家さえ
 現れている。『周礼』に設けられた犬人の官もそれである。斉に犬の見分け方のうまい
 者がいて、隣人がたのんで良犬を買ってもらったが、数年たっても鼠を取らないので
 その理由をきくと、これは良犬であるために、鹿や猪に心が向いて鼠を取らないのだか
 ら、足を縛ればよろしいというので、後足を縛ると果して取ったという。”

これは前回もご紹介した尚秉和『歴代社会風俗事物考』(民国27年・1938年刊。引用は秋田成明
編訳『中国社会風俗史』)からの引用ですが、文中にある「犬人の官」とは、犬の養育・調教など
を司る役職で「犬人」とは官名。この「犬人」という役職名は、周王朝の周公丹が書き残したもの
とされながら、実際には前漢(B.C.202~A.D8)末から後漢(A.D.25~A.D.220)にかけての時代に
記されたのでは? と考えられている『周礼』という本に見られるものですが、その時代は不確か
ながら、今からすれば時代的にはかなり古い。やはり文中に見られる後ろ足を縛ったら鼠を取った
という良犬のお話も戦国時代(B.C403~B.C227)末期の『呂氏春秋』に見られ、これまた古い時代
のこと。
この本は犬によって鼠を捕えた例として他に「吾常に狗を相(み)る」(『荘子』徐無鬼)「狸と犬、
鼠を守る」(『参同契』)「犬既に能く獣を搏(う)ち鼠を殺す、何ぞ損ぜん」(『晋書』劉毅伝)など
を挙げています。

つぶやき・・・・ワンちゃんは人間がオオカミを改良して猟に使うようになって以来、人間にとつ
て良きパートナーだった訳で、好景気だから犬を飼い、不景気になれば山野に捨ててしまう、かつ
て日本で見られたような、そんな悪夢の二の舞を踏むことだけは人間の誇り、中国の方々のメンツ
にかけて演じないでいただければと思います、ワン。
そして、もう少しつぶやくならば、現在見られるペット愛好家の増加が、単に抑圧されていた過去
への反動に過ぎなかったり、盲目的な付和雷同による一時の流行に過ぎないものであるとすれば、
それはもう笑うに笑えぬ茶番を演じることと紙一重。一つ間違えれば山野に犬や猫が溢れるばかり
です、ニャー。犬や猫が好きですか、それとも茶番が好きですか???

もう一つは、『陸機とその飼い犬・黄耳の話』。

このお話は、唐の640年代成立と言われる晋王朝(A.D265~A.D.420)について書かれた歴史書『晋書』
に見られるもので、陸機(A.D.261~A.D303)は三国時代から西晋にかけての文学者、政治家、武人。
今回は、その『晋書』のものと唐代(A.D618~A.D.907)初期成立と言われる『藝文類聚』(巻九十四・
獣部の狗)に『述異記』(南朝梁の時代か)から引用された二つのお話をご紹介いたします。なお、この
お話は宋代成立と言われる『太平廣記』『太平御覧』などにも載っています。

ここに描かれていることは、動物の実用的価値などといった枠をはみ出しており、ましてや「忠犬」など
と言った凡庸な言葉では決して括りきれない、時代を超えて訴えかけてくるものがあるような気がして
なりません。奮発して迷訳を付けてみました。

『晋書』より

“初機有駿犬、名曰黄耳、甚愛之。既而羈寓京師、久無家問、笑語犬曰
 我家絶無書信、汝能齎書取消息不、犬揺尾作聲。
 機乃爲書以竹筩盛之而繋其頸、犬尋路南走、遂至其家、得報還洛。其後因以爲常。 ”

迷訳:陸機は飼っていた「黄耳」という名の名犬をとても大切にしていました。
  すでに都で仮住まいをしていて、長らく実家とのやり取りもありませんでしたから、
  犬に向かって「我が家から絶えて便りがないが、お前に手紙を頼んだなら返事を
  もらってくることが出来るだろうか」と笑っていうと、犬はシッポを振ってワンと
  応えました。
  陸機が手紙を書き、竹筒に入れ、首にかけてやると、犬は道を探して南に走り、つ
  いに実家にたどり着き、返事をもらって洛陽にもどってきました。その後は、いつ
  もこのようにしていました。


『藝文類聚』より

“述異記曰、陸機少時、頗好獵、在吳、豪客獻快犬、名曰黃耳、機後仕洛,常將自隨、
 此犬黠慧、能解人語、又嘗借人三百里外、犬識路自還、一日至家、機羇旅京師、久無家問、
 因戲語犬曰、我家絕無書信、汝能賚書馳取消息不、犬喜、搖尾作聲應之、
 機試為書、盛以竹筒、繫之犬頸、犬出驛路、走向吳、飢則入草、噬肉取飽、每經大水、
 輒依渡者、弭毛掉尾向之、其人憐愛、因呼上船、裁近岸、犬即騰上速去、
 先到機家口、銜筒作聲示之、機家開筒取書、看畢、犬又伺人作聲、如有所求、
 其家作答書、內筒、復繫犬頸、犬既得答、仍馳還洛、計人行程五旬、犬往還裁半月、
 後犬死、殯之、遣送還葬機村、去機家二百步、聚土為墳、村人呼為黃耳冢。”

迷訳:陸機は若い頃より猟を好み、呉で暮らしていた時、ある勢力家から素晴らしい犬を
  贈られました。その犬の名は「黄耳」といい、陸機が洛陽に赴いた時にはその犬も
  いつものように着いてきました。
  その犬はかしこく、人の言葉がわかり、かつて三百里も離れた人に貸した時などは、
  犬は道がわかり、自分ひとりでもどり、しかも一日でたどり着いたのでした。
  陸機は都で仮住まいをしていて、長らく実家との手紙のやり取りがありませんでした。
  犬に向かって「我が家からたえて便りがないが、お前に手紙を頼んだら返事をもらって
  来ることができるだろうか」と笑いながら言うと、犬は喜んでシッポを振りワンと応え
  ました。
  陸機が手紙を書き、竹筒に入れて犬の首にかけてやると、犬は街道に出て、呉に向かっ
  て走り、腹が減れば草中にはいり肉を食らい、大きな川があるとその川を舟で渡る人の
  ところに行き、毛が抜け落ちてしまうのではと思われるほどシッポを振りましたので、
  そんな犬を可愛らしく思った舟人は黄耳を船に乗せてあげるのでした。しかし、岸近く
  になると犬はたちまち陸に上がり、行ってしまいました。
  そして真っ先に陸機の実家の入り口にいたり、竹筒をくわえて鳴いてこれをしめすので、
  陸機の家の人は筒を開けて手紙を読みました。手紙を読み終わると、犬はまた家の人を
  見て鳴き、どうも返事を求めているようなので家の人は返事を書き、竹筒に入れ首にか
  けてやりました。
  黄耳は返事をもらえたので洛陽にもどりましたが、人が五十日かかるところを、半月で
  往復したのでした。
  その後、犬が死ぬと、「かりもがり」し、送り還えして陸機の村に葬り、陸機の家から
  二百歩行ったところに土を盛って墓をつくり、村の人たちはこれを「黄耳塚」とよびま
  した。
  



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第111回 通州の胡同・頭条胡同(その一) 春聯と門神、桃符など。

2016-10-03 10:56:24 | 通州・胡同散歩
今回は前回歩いた「白将軍胡同」から一本南に行った所の「頭条胡同」をご紹介いたします。


(写真は、かつての通州城のメインストリートの一つであった南大街から東方向)

入り口左側。
牛乳販売店。お店のイメージにふさわしく健康的な色使い。



右は理髪店。
一般的に入り口の上に看板がかかっているお店が多いのですが、ここはなし。
お客さんはすべて地元の人たちなので看板をかける必要などない、といったところです。
なお、こちらは純粋混じり気なしの「理髪店」。間違えても「床屋さんかな?」などと
思ってはいけません。



「南街奶站」と書かれた看板が置かれています。「南街」とは南大街の通称。



より良い採光のための工夫がなされたお宅。ガラス部分が多いので開放的な雰囲気を出しています。
ガラスとレンガの取り合わせもなかなか。ガラスもそうですが、ドアもツヤがあり、まだ新しい。
この界隈の胡同ではここ一、二年の間にこのように改築されるお宅が増えているようです。



電信柱。



歩き始めたばかりだというのに、こんなもの↓が目に飛び込んできました。これだから胡同は
油断ができません。



赤地に白で書かれた「通県電信局」のプレート。どこかノスタルジックで、それでいてなぜかモダン。
この「通県電信局」の現在名は「北京市通州区電信局」。新しい電信局は1998年1月7日に成立して
います。

ここで「通州」という地名の変遷を細かい説明は抜きにして新中国成立前後からご紹介。

1949年9月(中華人民共和国成立のほぼ一ヶ月前)
  「通州市」を「通県鎮」に改称。
1950年5月13日
  「県」と「鎮」を合わせて「通鎮」となる。
1951年11月
  「県」と「鎮」が再度分けられ、「通県」「通県鎮」。
1954年4月19日
  「通県鎮」が「通州市」(県級)となる。
1958年4月
  「通州市」と「通県」とが合併し「通州区」となる。
1960年2月
  「通州区」を「通県」と再び改称。
1997年5月
  「通県」が再び「通州区」となる。

前に書きましたように新しい「北京市通州区電信局」の成立は1998年1月7日。この名称変更はおそらく
1997年5月の「通県」から「通州区」への改称と連動したものであったと思われます。

さらに進むと植え込みにオシロイバナの家。





自転車を見送って、胡同正面。



北側の壁が改修されています。ひょっとして以前には窓がいくつかあったのかもしれません。
もしそうだとすると改修時に防寒のため窓を塞いだ可能性があります。
この北側の壁を見て、今から十年ほど前に同じ通州区の農村地帯に行った時のことを思い出しました。
目に映る家という家がすべて南向きで、北側の壁にはどの家にも窓らしきものがいっさいありません。
それは、東京から通州に来た私には北京の冬の厳しい寒さを想像させるにあまりある光景でした。



左側に路地。



路地の先に大きな木が立っています。これほど路地の幅は狭くなかったと思うのですが、いつかどこかで
見たことのあるような、私にはなぜか懐かしい風景。



その懐かしい風景を後にして・・・。



夏の陽を浴びる布団。



「春聯」「横批」の貼られたお宅がありました。






中国には年の瀬になると二枚の赤い紙に吉祥文字を対句(対聯とも)に書いて門の左右に貼る風
習があり、このおめでたい対句を「春聯」と呼んでいます。

春聯というと私などはすぐにおめでたい言葉とともに赤い紙を思い浮かべるのですが、例えば
清末の敦崇『燕京歳時記』(小野勝年訳註)を見ますと「唯だ宮廷及び宗室王公等は白紙を用ふ
るのが常例である。白紙には紅や藍を以て縁をつける。宗室に非ざるものはほしいままに用ふる
ことは出来ない」、その「註」には「普通の家では紅い紙を用ふるが、寺廟では黄紙を用ひて居
る」とあり、身分や職業によって春聯に使用する、あるいは使用が許される紙の色が違っていた
ことが分ります。

それでは、多くの一般庶民と春聯として使用される赤い紙との関係が成立するのはいつ頃なのか?
調べてみたところ残念ながらそれが「赤い紙」であったのかどうかは分らなかったのですが、私
たちが現在「春聯」と呼んでいる対句が門に貼られるようになったのは、どうやら清朝の前の明
の時代からであったようで、断言は出来ませんが、ひょっとしてその時の春聯が赤い紙であった
のかもしれません。

明の陳尚古『簪雲楼雑説』という本には「春聯之設、自明太祖始。帝都金陵、除夕前忽傳旨、公
卿士庶家、門口須加春聯一幅、帝微行時出現。」という一説があるそうで、ここに書かれたことが
事実だとすると、春聯という対句を門に貼るようになったのは明の太祖が金陵(南京)に都を定め
た大晦日に太祖が突然下した命令(「公卿士庶家、門口須加春聯一幅」)以来ということになりそ
うです。朱元璋が応天府(南京)で皇帝に即位し、国号を明と定めたのは1368年(洪武元年)だと
言われていますから、中国の人たちは、なんと、650年ほどの長きに渡って「春聯」を門に貼り続
けてきたわけです。

ところで、上に書いたように庶民が春聯という対句と付き合い始めた時期はどうやら明の初め頃か
らであったようなのですが、清の梁章鉅『楹聯叢話』には「楹聯之興、肇於五代之桃符。孟蜀、余慶
長春十字、其最古也。」という記事が載っていて、「楹聯(えいれん)」すなわち対句・対聯の興りが
五代の桃符(桃木の板で現在の春聯に当たる)に始まり、五代十国の一つ後蜀(934年~965年)の時の
「余慶長春」などと書いた十字が最も古い例であることがわかります。

ちなみに、この「余慶長春十字」の対句の全容がどんなものであったのかが知りたくて、さらに調べ
てみますと、なんと、「余慶長春十字」なる対句は二種類あり、しかも作者が二人いるという事実、
『楹聯叢話』が最古と記す対句や作者はいったいどちらなのか? という嬉しい「謎」に逢着してしま
いました。

そこで、その二種類の作品と二人の作者名を記すと、一つは「新年納余慶、佳節号長春。」という
十字で、作者は後蜀の第2代皇帝・孟昶(もうちょう・919年~965年)の先生であった辛寅遜。載っ
ているのは宋の楊公文『談苑』。もう一つは「新年納余慶、嘉節号長春。」の十字で、作者はという
と皇帝だった孟昶自身。載っているのは『宋史』。清の梁章鉅はいったいどちらの作品・作者を思い
浮かべて『楹聯叢話』に「其最古也」と書いたのか?

なお、その字数が「十字」ではなく「八字」なのですが、やはり後蜀の時代に書かれ、作品の中に
「余慶」「長春」という言葉が使用されているものが二種類あり、これらも「余慶長春十字」に
かなり近しい位置にありますのでついでに次に挙げておきます。一つは「天垂余慶、地接長春。」で
作者は孟昶の子の孟玄喆。載っているのは宋の『古今詩話』。今一つは「天降余慶、聖祚長春。」で
作者は孟昶 、載っているのは宋の『洛中記導録』。

ここで話しを現在私たちが春聯と呼んでいるものに戻しますが、『燕京歳時記』は「春聯」について
次のように書いています。

“春聯は即ち桃符のことである。”

「桃符」とは『楹聯叢話 』について書いた時に少し触れたのですが、「註」を見ますと「桃木の板
で、古くはこれに門神を描いたり、或は聯語を書いたりし、それを門の旁に懸けて、避邪の意味に
使用した。桃の木が悪鬼を畏れしめると云ふ思想は古代から行はれ、それが門に飾られて桃符となり、
後は唯だ紙を以って代へるに至った」とあり、どうやら春聯の由来を辿るとこの「桃符」に行き着く
ようなのですが、今、先に書いたように孟昶なども対句を書いたという「桃符」についてはさておい
て、以下に上の「註」に見られる、現在も目にし、かつては桃木の板にも描かれたという「門神」に
ついて簡単に触れておきたいと思います。

門神とは、ことわるまでもなく春聯と同じく年の瀬に門扉に貼る護符で、甲冑をつけ、矛を持ち剣
を帯びたいかめしい一対の神様。この二神については「神荼(しんと)と鬱塁(うつりつ)」という二
神だという説や勇名を馳せ、唐の太宗にも仕えた「秦瓊(しんけい)と尉遅敬徳(うつちけいとく)」
だという説など色々あるのですが、先ほどから挙げる『燕京歳時記』の「註」には「神荼・鬱塁」及
び「秦瓊・尉遅敬徳」が門神だと言われるようになった経緯が書かれていて、その内容が実におもし
ろく、ご存知の方も多いかと思いますが次にご紹介。

まずは、『燕京歳時記』の註が挙げる後漢(A.D.25年~A.D219)末の蔡邕(さいよう)『独断』に見
られる「神荼と鬱塁」二神の話。

“海中有度朔之山。上有桃木。蟠居三千里。卑枝東北有鬼門。萬鬼所出入也。神荼與鬱塁二神居其門。
 主閲領諸鬼。其害悪之鬼。執以葦索。食虎。故十二月歳竟。畫荼塁。併懸葦索於門戸。以禦凶也。”
  (拙訳:海中に度朔という山があり、その上に大きな桃の木があった。その木は大きく枝を広げて
   いて、その枝の東北に鬼門があり、さまざまな鬼が出入りするところであった。神荼と鬱塁と
   いう二神がその門にはいて、害をなす鬼を葦縄で捕らえ、虎に食わせていた。それゆえ十二月
   の年の瀬にはこの二神を描き、あわせて葦縄と門戸に懸ける。災いを防ぐためである。)

このお話と同様なものが同じ時代の『風俗通義』『論衡』などにも載っていると「註」にあり、調べて
みたところ、『山海経』からの引用という王充の『論衡』巻二十二「訂鬼篇」に見られる「神荼と鬱塁」
二神の話には『独断』とはほんの少しですが部分的に違っていて、その中の一箇所が私にはとりわけ興
味深く思われました。

“滄海之中、有度朔之山。上有大桃木、其屈蟠三千里、其枝間東北曰鬼門、萬鬼所出入也。
 上有二神人、一曰神荼、一日鬱塁、主閱領萬鬼。悪害之鬼、執以葦索、而以食虎。
 於是黃帝乃作禮、以時驅之、立大桃人、門戶畫神荼鬱塁興虎、懸葦索、以禦凶魅”

文中終わりの方に『独断』には見られない「大桃人」なるものが登場し、門の前か脇か具体的にその場所
は分らないのですが、その大桃人(桃木で作った大きな人形のようなものか?)を中原各族の共通の祖先と
される伝説上の人物・黄帝が立てていて、「大桃人とは何だろう?ひょっとして度朔之山の上にあるとい
う大きな桃の木そのもののことか?」と思ったりするのですが、この大桃人については日を改めて考えてみ
ることとし、ここでは、桃の木で作ったであろう大桃人に関連して、桃の枝を門に挿して魔除けとしてい
たことがあったという話をご紹介しておきます。


尚秉和『歴代社会風俗事物考』(民国27年・1938年刊。引用は秋田成明編訳『中国社会風俗史』)には、
「魔除けに桃の木」を使っている例の一つとして「桃の枝を戸に挿して、葦の灰を下におけば、鬼も畏れる
と考えている」とあり、その出所として注記には『荘子』が挙げられていて、これを読むと鬼退治のための
方法として、神荼などの神様を門に描いたり、神荼などの神様を描いた桃木の板を門に懸けたりする以前に
もっと素朴な形として「桃木」や「桃の枝」自体が使用されていた時代のあったことが推測される次第です。
その時代をあえて書きますと先に見ました蔡邕(さいよう)『独断』が書かれた後漢(A.D.25年~A.D219)
より時代を遡って『荘子』の作者荘子その人が生きたと言われる戦国時代(B.C.403~221年)以前というこ
とになるようです。

話しを神荼と鬱塁に戻しますが、その神荼と鬱塁ついて南朝梁(502年から557年)の宗懍『荊楚歳時記』は
次のように書いています。

“造桃板著戸、謂之仙木。絵二神貼戸左右。左神荼右鬱塁、俗謂之門神。”

神荼と鬱塁は、宗懍の生きた時代には、その配置までがすでに決まっており、しかもこの二神がはっきりと
「門神」と呼ばれていたことが分ります。

さて、『燕京歳時記』の「註」は神荼と鬱塁の話に続き、秦瓊・尉遅敬徳が門神になった経緯を紹介してい
ますが、実在したこの二人が門神だと言われるようになったのは唐代以後のことだそうで、紹介されている
お話は唐の太宗(在位期間626年~649年)にまつわるもの。

“太宗が夜、鬼魅に悩まされて安眠できないので、此二臣を門に立たしめたところ、効験があった。そこで
 遂に画工に命じて彼等の像を描かしめ、これを宮門に懸けた。それを後世沿襲して居るのだと云ふのであ
 る。”

秦瓊・尉遅敬徳が太宗のために鬼を追い払うというお話は『西遊記』に載っていて記憶にもあったのですが、
ここに書かれている話の出所は『西遊記』ではなく他の本のようなので調べてみますと、どうやら道教関係の
『三教捜神大全』という本らしいのですが、残念ながら未見なので書名だけを挙げておきました。

今回は胡同で見かけた「春聯」をきっかけに主に『燕京歳時記』に即しながら春聯や門神、桃符などについて
不備な点、不確かな点が多いことを承知の上で書いてみました。今後これらをめぐってもう少し掘り下げる
ことができればと思っています。

次に春聯と門神について今回書いた範囲内のことをもとにそれらの移り変わりを書いておきます。

〇春聯について

1.桃木が桃符(桃木の板)となる。(年代不明)
2.桃符と呼ぶ板に対句・対聯が書かれる。(後蜀934年~965年頃から)
3.春聯と呼ぶ対句・対聯を門に貼るようになった。(明初1368年以降)

〇門神について

1.桃の枝を門に挿しておく。(戦国時代B.C.403~B.C.221年頃またそれ以前)
2.神荼と鬱塁が描かれ、門に懸けられる(材料は桃符か?)、
 あるいは門戸に描かれる。(後漢A.D25年~A.D.219以降)
3.神荼と鬱塁が桃板(桃符)に描かれ、「門神」と呼ばれている。(南朝梁502年から557年)
4.秦瓊・尉遅敬徳が描かれ、宮門に懸けられ門神となる。(唐太宗の在位期間626年~649年以降)




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