北京・胡同窯変

北京。胡同歩きが楽しい。このブログは胡同のあんな事こんな事を拙文と写真で気ままに綴る胡同お散歩日記です。本日も歩きます。

第231回 北京・船板胡同(後) 「 故きを温ねて」とは言うけれど。

2019-06-11 12:37:30 | 北京・胡同散策
北京基督教会崇文門堂(亜斯立堂)のある後溝胡同の北口から見た東方向も舗装工事中。



少し前へ行くと左手に「西鎮江胡同」なのですが、こちらも工事中。



寄り道せずに前へ。





シンプルで現代的造りの建物は「漢庭酒店」。



結構人気があるらしく、昨年7月に内部を拝見した時には
女性のグループ客が多かったのが印象的でした。











いい雰囲気の玄関がありました。




日本や中国の建物のこういう細部が好きで、ついついシャッターを押してしまうんですよね。



門墩(メンドン)をご覧いただきます。





門墩(mendun)について、当ブログのブックマークにあります門墩研究家・岩本公夫さん
のWeb版「中国の門墩」をご覧いただけたらうれしいです。




思えば文革の時に傷を負いながらも今に残る門墩の強さや逞しさ。わたしも見習わないと。

それはそうと、玄関の脇には貼り紙。


期間は5月8日から5月15日まで。舗装工事にともない、住民の皆様にはご不便を
おかけいたしますが、ご協力のほど何卒よろしくお願い致します。ちなみに
わたしがおじゃましたのは5月10日でした。



「おいで、おいで」と人を誘惑してやまない細い路地。


今回はそんな誘いをふりきって前進。この路地はのちほどご覧いただきます。



斜め前に青空自転車修理屋さん。





まるで現代美術館の展示室に紛れ込んだよう。



肝心の修理屋さんがおりませんが、四枚前の写真左に写っているのがそれ。
工事中なのでお客さんから預かった自転車を修理する場所がないのです。

昨年撮った写真。


胡同入口に店をひろげる修理屋さんは、みんなの人気者。

今回は、修理屋さんの隣に、こんなボックスが。
でも、現在は工事中なので中に係員はおりません。



いつ設置されたのかなと思って確認すると、どうやら数ヶ月前。







貼り紙を見ていたら、今まで休憩中だった工事がすぐ近くで再開。





目を東口の北側に移すと、こんな旅館。



天賜旅館。





昨年は「有客房」と書かれた、味わいのある木の板でしたよ。



写真を横切っているのは北京站西街。
次の写真奥に見える蒲鉾型の建物は北京駅の荷物受取所の一部。


後ほど接近してみたいと思います。

まずは、北京站西街の南方向へ。



こちらのお宅は、船板胡同旁2号。



ここで北方向へ戻ります。



次の写真に見える路地。後ほどおじゃまいたします。





大賜順興賓館の前を過ぎると船板胡同21号院。





もとへ引き返し、先ほどの路地を散策。











足元を見ると胡同の道端につきものの路上菜園でしょうか。





次の写真の突き当りを、まずは右へ。







二階にもシェア自転車が。





手前と奥に出入口が二つ。



まずは奥へ。



壁に鏡が取り付けられています。


この鏡は、人と人とがゴツンコしないための工夫でした。

引き返すと29号院。



写真左手を、よーくご覧ください。



住居の壁から木が。



もとへ戻ります。



次の写真の奥に見えるのは、工事中の通りです。




さて、以上が現在残る船板胡同ですが、ここで次の地図をご覧いただきます。
1938年(昭和十三年)4月に発行された「最新北京市街地図」(東京アトラス社編纂)
という地図(複製)の一部です。



緑色矢印の部分に「滙文学校」とあるのがわかりますが、この学校並び関係施設の
あった場所は現在北京駅並びにその関係施設になっています。

そこで、これから船板胡同の東口から移動して、一般人が近づくことのできる範囲内
の風景を次にご覧いただきます。

前にご覧いただいた蒲鉾型の建物から。


撮影は昨年7月。写っているのは北京駅の荷物受取所の一部。
この施設の周辺一帯に、昔、滙文学校の関係施設があったのです。

上の写真の建物から北方向へほんの少し移動。
すると、こんな簡易建物が。



上の設備の奥が「中鉄快運北京站到達提取処」。



そうして、今ご覧いただいた施設の北側には「北京市滙文第一小学」という小学校。
この小学校、先にご覧いただいた「滙文学校」の名残りの一つなのです。


この学校の構内には、当時の面影を今にとどめる建造物が残っているようです。
残念ですが、現在はもちろん関係者以外は立ち入り禁止。
ついでに書いておきますと、この小学校の名称は、もと丁香胡同小学。
由来は丁香胡同にあったことに基きます。
この胡同も現在は消失。「丁香(ディンシャン)」という綺麗な名前の胡同だったん
ですけどね。

上にご覧いただいた蒲鉾型の建物の並びには、こんな洋館の姿を
見ることもできます。



憶測に過ぎないかもしれませんが、地理的にみて、この洋館なども元は昔あった
学校関係の施設だったのでは、と思っております。もし、そうだとすれば、一般
に開放されていないのが残念すぎる。


撮影後、頭を垂れ、両肩を落としてとぼとぼと引き揚げましたよ。


ちなみに、「滙文学校」の沿革をざっとですが次に書き出してみました。
ただし、年代などに異説のあることをお断りしておきます。

〇1871年(清同治十年)、小規模なアメリカの教会附属の学校として出発。
この教会は「北京基督教会崇文門堂(亜斯立堂)」。
〇1885年(光緒十一年)、学校を拡充。小学、中学、大学をあわせ「懐理書院」
と命名。懐理(ファイリー)は教会関係者の名。
〇1888年(光緒十四年)、「滙文書院」と改名。文、理、神、医、芸などの科が分設
される。
〇1900年義和団事件(庚子事変)の際、学校の設備が破壊されるも、のち再建。
〇1904年(光緒三十年)、「滙文大学堂」と改名。
〇1918年(民国七年)、滙文大学部と他の教会関係大学とが合併、燕京大学となり、
海淀に移転。中学と小学は残留し、「滙文中学」と改名(改名は1927年か)。
〇1947年(民国三十六年)、学生宿舎が火災に遭遇。
〇1959年、北京駅建設のため、崇文門外の培新街に移転。
(略歴作製にあたり『北京地名典』王彬、徐秀珊主編、中国文聯出版社を参照)。

地図上に見つけた「滙文学校」。このキリスト教系の学校がその母体となる教会とともに
今から170年ほど前に起った、あのアヘン戦争、とりわけ第二次アヘン戦争(1856ー1860)
と深い関係にあることはいうまでもありません。

思えば、“鴉片”が“洋薬”と名を変え、その輸入が合法化されてから以降の中国の歴史は、ア
ヘンという“毒”といかに上手く折り合いをつけていくか、もう少し書けば、アヘンという“毒”を
いかに“薬”に変えていくか、そんな苦悩に満ちた休みない試行錯誤、闘いの連続の歴史だった
んじゃないか、その歴史は今も続いているんじゃないか、ふとそんなことを柄にもなく考えること
があるんですね。

今回で船板胡同に関する記事はとりあえず終了です。
この胡同がもと水路であったこと、その水路が元の時代の「通恵河」の一部であったかもしれない
ことや、金の時代の「金口河」などに関係しているかもしれないことを書こうと思っていたのです
が、不確かな点があり、今回は控えました。機会を見つけて再チャレンジしたい。

そうそう、ここで書き漏らせないことを一つ。
日本占領期のこの胡同内には日本の「北京カフェー組合」があったそうです。
名称は、北京カフェー組合
住所は、船板胡同四六。


写真は船板胡同の東口で昨年の5月下旬に撮ったもの。

飼い主さんが修理屋さんに自転車を修理してもらっている間、うつらうつらしながら
待っているワンちゃん。今年の5月には合えなかったな。



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第230回 北京・船板胡同(前) 「 故きを温ねて」とは言うけれど。

2019-06-04 12:26:22 | 北京・胡同散策
船板胡同(ChuanbanHutong/チュアンバンフートン)。

当日は、崇文門内大街沿いの西口から入ったのですが、なんと、舗装工事中。



明の時代から現在まで名前は変わらず「船板胡同」。
しかし、今は東側の一部(北京駅西街以東)がありません。

明の時代の地図

上の地図を見ると、今の崇文門内大街から崇文門東順城街沿いまであったのがわかります。
地図は『北京胡同志』(主編段柄仁、北京出版社所収「明北京城街巷胡同図 万暦ー崇禎年間
公元1573ー1644年」)を使用。

2003年の地図

赤色部分、現在北京駅附属の荷物受取所(「中鉄快運北京駅到達提取処」)。
地図は同上書所収「2003年」。

西口の北側の立体駐車場。出来たてホヤホヤ。





食堂。
家常菜(家庭料理)。



その隣は「天隣旅館」。



昨年5月下旬には上の食堂や旅館の前辺りに「焼き芋屋さん」がいたのですが、
本年は出合いませんでした。残念。





大きな双喜文字がどーんと貼られています。



傾いた新しい門牌の背後から古い門牌が顔を出しています。


新しい門牌も悪くないのですが、古い門牌の字体が良いのです。

上の前辺りの風景。





昨年はクルマ止めの所にも造花。





こちらの門扉上には門牌が二枚。



スーパーがありました。





「便民生活超市」。
でも、何かが違うんですよね。

帰宅後、調べてみたら昨年5月下旬の時には「您恵万家」の看板でしたよ。



調べついでに、さらに時間をさかのぼってみました。
次の写真は2014年10月に東から西方向を撮ったもの。
今からすると信じられない風景が当時はひろがっていました。


写真向かって左に写っているのは、信じられないかもしれませんが、先ほどご覧い
ただいた超市とその東隣。写真に電信柱が写っていますが、その電信柱とその後ろ
の屋根の形に注目です。するとそこが前にご覧いただいた造花の飾られていた家辺
りであることがわかります。はっきり見えませんが、写真奥に写っているのは胡同
西口を入ってすぐのところにある掲示板。


時計の針を戻して、
いい雰囲気のお宅がありました。





その隣は公共トイレなのですが、只今改装工事中。





中華風装飾で凝ったトイレに仕上がっているようです。



トイレの隣は「東交民巷小学」。


こちらは南門。正門は北側の小報房胡同。

小学校の前には、面白い建物が。





意味は不明なんですが、牛の飾り。



船板胡同で欠かせないのが、こちら(↓)。



東側から撮ってみました。


建物前面は洋風ですが、その背後は中華風であることがわかります。

そして、注目していただきたいのは、左から二番目の窓の下方。


この建物には以前出入り口があったんですね。
そのことを示す出入口を塞いだ痕跡と今も残る石段。

ここで昨年5月に撮った写真をご覧いただきます。


昨年には、ここが出入口であったことがはっきりわかります。
しかも、窓のサイズが現在より小さく、外壁にはお洒落な外灯も。

時計の針を今に戻し、上の楽しい洋風からほんの少し東方向には「欣燕都酒店」というホテル。



このホテルの前辺りに来た時、「何か変だなぁ」という気持ちになったので、しばらく
立ち尽くしていると、前方から毛を短く刈ったワンちゃんがやってきました。

舗装工事中の道に慣れていないためか、おどおどびくびくと散歩です。



飼い主さんの指示でやっとこちらに顔を向けてくれました。



2014年10月に撮った写真を確認するとありました。


写真向かって左に出入口の一部が写っていますが、ここは上にご覧いただいたホテル。
ただし、当時、現在のホテルであったかは不明。それはそうと、ホテルの隣に当時は
お店が並んでいたなんて、その凄まじい変貌ぶりが怖い。

さらに前へ。



年輪を感じさせる大きな木。









ブタさんの前を通り過ぎると、国営仁分旅店。



2014年の写真を調べてみると、ありました。
次の写真は、上の「国営仁分旅店」の前を通り越した東側から西方向を撮ったもの。


やや傾いた電信柱が当時と変わらずそのまんま。

現在の国営仁分旅店からさらに東方向に歩くと、便民超市。


このスーパーの前の電信柱を右折すると以前ご覧いただいた「北京基督教会崇文門堂(亜斯立堂)」
のある「後溝胡同」。

次の写真は、上のスーパーの斜め西寄りのところにある「永楽賓館」。



お次は、やはり以前にご覧いただいた「南八宝胡同」南口とその東にある
楽しい建物。



昔は商店だったようです。



外壁上部をご覧ください。

建物向かって右から「文興」。



次は、初めの一字がはっきりしません。
二字目は「油」、三字目は「紙」。



次は、残念ながら判読不可。


いずれにしても、かなり古くからの建物だと思われますので、一見の価値ありでは
ないでしょうか。

さて、ここで時間をさかのぼって2014年の写真をご覧いただきます。

次の場所は、後溝胡同の北口前から船板胡同の西方向を写したもの。
写真向かって左手に「超市」という看板のある辺りが現在の「便民超市」のある位置
だと思われます。


写真右側に小さくて見えづらいかもしれませんが、交通標識と「船板胡同」のプレートが
見えます。そのプレートの手前が「「南八宝胡同」。ついでに書きますと、プレートの
向こう側には「旅館」と書かれた看板。これは先にご覧いただいた「永楽賓館」。

次の写真は昨年5月に「南八宝胡同」の南口を撮ったもの。
当時は南口の西側に木製の電柱があり、そこに交通標識と「船板胡同」のプレートが
掛けられていました。


今回訪れた時にはこの木製の電柱は取り払われていました。結構味わいのある
電柱だったのですが。

そうして、次の写真は2014年10月に撮った「後溝胡同」の北口正面。
この北口から西方向を写したのが先きにご覧いただいた写真です。
現在の写真は省略しますが、今からは信じられない光景にわが目は点。
ちなみに、写真左手のお店の住所は船板胡同51号。


現在、数年前に飲食店があったことを示す痕跡などまったくありません。

昔の賢者曰く「故きを温ねて新しきを知る」と。賢人ではないわたしは情けなくも
「古きを訪ねて驚きで言葉を失う」といった感じです。



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第229回 北京・洋溢後巷 賄賂政治ならお任せを。

2019-05-30 11:40:39 | 北京・胡同散策
洋溢後巷(Yangyihouxiang/ヤンイーホウシアン)

その名を見てもおわかりのように、前回ご紹介した洋溢胡同の一本北側にあった胡同。

明の時代は、冠帽胡同(GuanmaoHutong/グアンマオフートン)。
次の清の時代は、「冠」が「官」となり、官帽胡同((GuanmaoHutong/グアンマオフートン)。
民国期も官帽胡同。

日本占領下の官帽胡同には、日本料理店がありました。
名前は、登喜和
住所は、官帽胡同五
(『北京案内記』昭和十六年一月発行、新民印書館から引用)

新中国になってもそのままだったのですが、1965年に洋溢胡同に編入された際、洋溢後巷と
改名され、1990年以降に消えてしまいました。


この胡同、冠帽胡同、官帽胡同と呼ばれていたその由来が楽しい。

中国史上、賄賂政治でその名を馳せる一人、明朝の権臣、厳嵩(げんすう)が住んでいて、
貢物をもった富豪や貴族が官位欲しさにわんさか彼の邸宅を訪れた、という言い伝えが
由来。(『北京地名典(修訂版)』王彬、徐秀珊主編、中国文聯出版社)

厳嵩(1480年ー1567年)は、道教に狂信するあまり国政をかえりみなくなった世宗(嘉靖帝、
在位1521年ー66年)に代わり、子の厳世蕃などを手先として国政を専断し、賄賂政治を繰り
広げていたそうです。1562年(嘉靖41年)、官位を剥奪され獄に入れられた時に没収された
財産は、土地数万頃(けい、一頃は約6ヘクタール)、金銀財宝、書画骨董の数は人々を驚か
せるに十分であったとか。(『モンゴルと大明帝国』愛宕松男、寺田隆信、講談社など)


うえの写真は、建国門内大街沿いにある「中国農業銀行」の入るビル。
下の写真。
向かって左に英大国際大厦(ビル)、その前にある平屋の建物は于謙祠と北側の塀。
中国農業銀行や于謙祠の塀の前に緑地帯があり、そしてその北側に歩道があるので
すが、洋溢胡同と洋溢後巷は、この緑地帯と歩道のあたりに並んでいたのではない
かと思われます。


明、清の地図で見ると、次の通り。

明代

地図は、『北京胡同志』(主編段柄仁、北京出版社)所収のもの。以下同じ。

清代


ところで、先にご覧いただいた冠帽胡同並びに官帽胡同の由来には、ちゃんと“落ち”が
ついているから、可笑しい。

厳嵩が住んでいた胡同の西端には南北に走る胡同があった。その名は銀碗胡同(地図に
よっては南銀碗胡同、北銀碗胡同とも)。

由来は、厳嵩が官位を剥奪された後、落魄した彼が銀製のお碗を持って、その通りの出入
口で乞食(おもらいさん)をしていたからなのだそうです。

この“落ち”には、悲しいまでに時代を超えてあとからあとから地の底から湧いてくる黒い
笑いが息づいているような。



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第228回 北京・洋溢胡同 開国大典、天安門楼上の大灯籠

2019-05-23 12:04:32 | 北京・胡同散策
前回ご紹介させていただいた“于謙祠”。ここには正門である南門のほかに西側に
も出入口があるのですが、その西門から北方向へほんの少し行ったところには、
一枚のプレートが貼られていました。


上の写真は西門ですが、普段は閉ざされているようです。

住所は、西裱褙胡同甲23号。


この西門沿いには、次のプレート。



今は消え失せてしまった胡同名が書かれていました。
「街巷名称、洋溢胡同」。

名前だけでも、よくぞこうして残ってくれたものだと思わず洋溢胡同という文字を
指先で触れてしまいました。
名前だけでも残ったのは、ひょっとして于謙パワーの効能か?
そんなことも心によぎったのも確かなのですが、しかし、同時に心のどこかに次の
ような思いもあったことは間違いありませんでした。

ワガママな物言いで恐縮ですが、この界隈に、昔、洋溢胡同や西裱褙胡同などの胡同
があったことをこれこれしかじかとそれなりに記した(決して材質の豪華なものでなく
ともよいので)説明板を貼って欲しい。


洋溢胡同(YangyiHutong/ヤンイーフートン)。
前回ご覧いただいた西裱褙胡同の一本北側にあった、崇文門内大街から北京站街
まで走っていた胡同。

明の時代は、揚州胡同。

地図は、『北京胡同志』(主編段柄仁、北京出版社)所収のものを使用。以下同じ。

次の清の時代に、羊肉胡同と改名されています。


民国期に、洋溢胡同。


1990年、同じく洋溢胡同。


そうして、2003年には、消えてしまいました。


ここで、今は消え失せてしまった洋溢胡同に関係するエピソード一つをば。

今から70年前の1949年10月1日、天安門楼上で毛沢東さんによって中華人
民共和国の成立が宣言されました(開国大典)。

その時、楼上の柱と柱の間には、巨きな提灯(大灯籠)がさげられていたのですが、この
装飾を依頼され、考案したのは、華北軍区文工団に所属する劇団、抗敵劇社で舞台装置
を担当していた二人の日本人であったそうです。(注)

しかも、このお二人、住んでいたのは、なんと洋溢胡同。

ちなみに、大灯籠を制作したのは、昔、紫禁城で宮灯つくりに携わっていた、老人とその
お弟子さんだったそうです。(竹内実『北京 世界の都市の物語』文藝春秋などを参照。)

けっして一筋縄でいかないのが歴史理解てすが、上のエピソードはわたしにとって、歴史
のもつ奇奇怪怪さや重層性をつくづく思い知らせてくれる大切な一コマになっています。
そして、たとえ今は地上から消失してしまった胡同であったとしても、調べてみると驚き
で目をみはるような物語が秘められているのだということを再認識させてくれるきっかけ
を与えてくれたのがはじめにあげた洋溢胡同と書かれたブレートでした。于謙祠にお出か
けの際、プレートもご覧いただければ、嬉しいです。

(注)さげられていたのは、春節などで見かける丸い灯籠をさらに大きくしたもの。
この灯籠の形状は、伝統的なものではなく、この時の2人の日本人の影響によ
るもの、という説があり、中国の灯籠の歴史について調べてみるのも面白いの
ではないでしょうか。書きもらしにより、5月24日追記。胡同窯変。


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第227回 北京・西裱褙胡同 明代ロマンチズムと地名の名残り“于謙祠”

2019-05-20 10:02:45 | 北京・胡同散策
明の時代、表背胡同(BiaobeiHutong/ビアオベイフートン)という、西は崇文門内
大街から東は現在も残る古観象台の北側まで走る一本の胡同がありました。

地図を見ると、現在の崇文門内大街が当時は「崇文門里街」と呼ばれていたことが
わかります。古観象台とは、現在の天文観測所に該当。


地図は、『北京胡同志』(主編段柄仁、北京出版社所収「明北京城街巷胡同図
万暦ー崇禎年間 公元1573ー1644年」)を使用。

表背(のち裱褙)業者(日本語では表具師)が多くいたというのが地名の由来。当時の官吏
登用試験「科挙」の試験場「貢院」が近く、書画を売買する人が多かったというのが、表
具師の多かった理由なのだそうです。

ところで、昆曲(昆劇)ファンにはおなじみの『牡丹亭』ですが、その作者、湯顕祖がこ
の胡同に一時仮住まいしていたそうで、ここはなんともロマンチズムの香気漂う場所なの
です。

湯顕祖《とうけんそ。1550年(嘉靖29年)ー1616年(万暦44年)》は、江西臨川の出身で、
万暦11年(1583年)の進士。明代劇作家の第一人者と目され、『牡丹亭』(『還魂記』と
も)はその代表作。

江蘇南京や浙江遂昌などで官途についたのち、江西臨川沙井巷(させいこう)の清遠楼玉
茗堂に隠棲し、演劇、詩文を執筆。『牡丹亭(ぼたんてい)』『紫钗記(しさいき)』『邯
鄲記(かんたんき)』『南柯記(なんかき)』を合わせて《玉茗堂四夢》または《臨川四夢》
と呼ばれているそうです。

ちなみに、彼は、26歳の時に第一詩集『紅泉郵草』、翌年第二詩集『雍藻(ようそう)』
(散逸)を刊行し、さらに詩賦集『問棘郵草(もんよくゆうそう)』を刊行。若い頃に陽明
学に親しみ、引退後は思想家李卓吾とも交際があったとか。

〇『牡丹亭』の内容

南安太守杜宝(とほう)の娘杜麗娘(とれいよう)が夢の中で書生の柳夢梅(りゅうぼうばい)
と密会し、彼を思うあまり病いの床に伏して、自画像を形見に残す。嶺南の秀才柳夢梅は
たまたまその杜麗娘の自画像を入手し、夢で彼女の魂と密会する。のち杜麗娘は蘇生し、
2人は結ばれて夫婦となり、さらに曲折を経て幸福な結末を迎える。
(以上、参照、引用は、『中国文学史・明清近代』主編張俊、北京師範大学出版社、『中
国歴史文化事典』主編孟慶遠、訳小島晋治、立間祥介、丸山松幸、新潮社など)


この表背胡同、次の清の時代になると表記が変わり「裱褙胡同」。


地図は、『北京胡同志』(主編段柄仁、北京出版社所収「清北京城街巷胡同図
乾隆十五年 公元1750年」)を使用。

裱褙胡同と表記されていた時代、具体的には1903年(光緒29年)、この胡同内に言語
学者王照によって「官話字母義塾」が設立され、「字母拼音官話書」が出版されまし
た。

王照さん《1859年(咸豊9年)-1933年(民国22年)》は、康有為らの変法運動失敗後日本
に渡り、帰国後日本語の仮名にならって官話字母を作るなど、近代漢語拼音(ピンイン)字
母研究に尽力した言語改革運動の先駆者。

続いて、清の最後の皇帝宣統帝の時代(1908年ー12年)になると、この胡同は東と西に
分かれ、その状態のまま次の民国期に。


『最新北京市街地図』(東京アトラス社編纂、昭和十三年四月五日発行、複製)を使用。

「西裱褙胡同」と改名されたこの胡同には、梅蘭芳の芸に手を加え、その芸を世界に
認めさせることになる劇作家、演劇理論家の斉如山《1875年ー1962年》さんが住んで
いたことがありました。住所は、西裱褙胡同31号。

日本関係のことを書きますと、日本占領下(1937年ー1945年)の「西裱褙胡同」には、
喫茶店と食堂を兼ねた日系のお店や組合がありました。

名称は、「大国」
住所は、西裱褙胡同三八

喫茶店と食堂を兼ねている状況について、『北京案内記』(昭和十六年一月発行、新民
印書館)の記者は次のように書いています。
「北京の喫茶店は東京のそれの様にお茶を呑ませて閑談とする様なところは
極く少ない。殆んど喫茶店であり食堂でもあるのは現地的特質と云つてよい。」

組合の名称は、「北京日本料理店組合」
住所は、西裱褙胡同四六

そうして、1990年頃から2000年代の初めにかけて、裱褙胡同は東西ともに北京の胡同
から姿を消えてしまい、その代わり現在は現代的なビルが立ち並んでいます。

ところで、それらビルの谷間に“于謙祠”があるのをご存知の方は意外と少ないのでは
ないでしょうか。





于謙《1398年(洪武31年)-1457年(天順元年)》は、銭塘(浙江杭州)の出身で、明の
時代、モンゴル軍の攻撃から北京城を守った人。




銭塘(杭州)の故居の紹介がありました。浙江省杭州にも于謙祠があるということなので、
杭州にお出かけの際には、ぜひお立ち寄りください。


于謙さんは、山西、河南地方で巡撫をしていたこともあり、黄河治水工事に
あたったこともあったそうです。上の写真は、鎮河鉄犀の写真。

鎮河鉄犀が展示されていました。


展示されているのは、レプリカだと思うのですが、仮にそうだとしても
気しない、気にしない。

可愛らしい顔なので、アップ。



火銃も展示されています。




説明書に「レプリカ」と明記されていますが、これも気にしない、気にしない。

敷地内に建物は4、5棟あるのですが、展示室は現在三室。門を入ってすぐの建物の一階、二階、
そして裏に一室。


写真は、裏側の展示室と二階に行く階段。

于謙さんや当時の時代状況を知ることができ、充実した時間を過ごすことが出来ました。
近くに出かけた際には、再訪したい建物です。

〇于謙について

1449年(正統14年)、モンゴルのオイラート(瓦刺)の首領エセン(也先)が侵攻。正統帝
英宗は当時権力をほしいままにしていたといわれる王振の勧めで親征するのですが、土
木堡(河北省懐柔県)で大敗を喫し、明軍は玉砕、肝心の皇帝英宗は捕虜になってしまう
という大失態を演じてしまいました。

この敗報が北京に伝わると明廷は騒然となり、危機感に包まれた朝廷には、南京遷都を唱
える者もいたものの、于謙は北京籠城を主張。于謙の意見によって北京籠城と決まり、皇
太后の令旨により、英宗の弟郕(せい)王を帝位につけ、于謙は残された軍隊によって北京
城を死守、北京城を包囲したエセンの兵を一歩も城内に入れなかったそうです。

1450年(景泰元年)、エセンは和を願い、英宗を返還。英宗は帰還後、上皇となるのですが、
紫禁城の東南にある南宮に幽閉され、不遇をかこつ身となってしまいます。

1457年(景泰8年)、クーデターが勃発。それは、将軍石亨(せきこう)、官僚徐有貞(じょゆ
うてい)、宦官曹吉祥(そうきっしょう)らが景泰帝の病いに乗じ、英宗を皇帝に復位させる
というもの。その時、景泰帝を擁立した于謙は北京城を敵から守った名臣であったにもかか
わらず、反逆罪のかどで逮捕され、死刑に処せられてしまいました。当時の重罪人の通例と
して、妻子は辺地に流され、財産は没収。清貧に甘んじていた于謙の財産は、景泰帝から賜っ
たもののほか、家財らしいものはなにもなかったそうです。

英宗没後、皇太子見深(けんしん、憲宗成化帝)が位をつぎ、この時代に于謙は復権をはたし
ています。


昔、西裱褙胡同のあったあたりは、現在、住所は建国門内大街。しかし、“于謙祠”の
住所名は、西裱褙胡同となっています。門牌号は23号。

今から570年ほど前に于謙が北京城を守ったように、やはり于謙さんが西裱褙胡同と
いう地名を守ってくれているのかもしれませんね。



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