北京・胡同窯変

北京。胡同歩きが楽しい。このブログは胡同のあんな事こんな事を拙文と写真で気ままに綴る胡同お散歩日記です。本日も歩きます。

第225回 北京・麻线胡同 民国期の政治家の邸宅や“カフェー”があったとか。

2019-05-03 10:50:21 | 北京・胡同散策


上の写真は、北鮮魚巷の北口前から西方向を撮ったもの。

地図は省略しますが、麻线胡同は、蘇州胡同の一本北側、現在の北鮮魚巷の北口
前から西方向に崇文門内大街まで走っています。

この胡同の北側には、東から英大国際大厦、北京日報社・北京晩報社、民生銀行
などの現代的な大型ビルが立ち並んでいて、ちょっと胡同らしくないなぁ、とい
う声も聞こえてきそうです。


この胡同の東側には、英大国際大厦。



その西側には北京日報社・北京晩報社の社屋。




その西側には、民生銀行。


この民生銀行の南側には、ファミリーマートも。


現在、改修中なのか閉店なのかは不明。


次の写真の奥を南北に走っているのは、崇文門内大街。





しかし、それら現代的な大型ビルの南側の一画には、
「確かにここは麻线胡同なのだ」
と実感させてくれるたたずまいが実につつましく残っているのです。



右手の手前は麻线胡同18号院。



正面は、16号院、14号房と書かれていました。



左側(東側)に向きを変えて。
奥へ行ってみたいと思います。





こちらは16号院。



さらに奥へ。





右手のお宅は14号院。



行き止まりは、12号院。




ところで、この胡同内3号院には、清末から民国期にかけての政治家・唐紹儀、梁敦彦のお二人
が住んでいたとか。

〇この二人に関するエピソード

1911年辛亥革命がおこり、翌12年1月、孫文を臨時大総統とする中華民国が南京に樹立。
同年2月、清朝最後の皇帝宣統帝が退位。紆余曲折を経て、3月孫文に代わって袁世凱が
中華民国臨時大総統に就任すると同時に国務総理の地位についたのが唐紹儀でした。

この唐さん、その在任が、なんと2、3ヶ月という短い期間で辞表を出し、北京を離れて
しまいます。袁世凱が1915年に皇帝に即位すると退位を促す電報を打ったといわれてお
り、1917年、広州に革命軍政府(大元帥孫文)が成立すると参加し、軍政府の財政部長に
指名され、翌年には、軍政府が大総統制から7総裁制の集団指導制に移行すると、唐さん
も総裁の1人に任ぜられているのて、当時臨時大総統であった袁世凱と唐さんとの間には
政見をめぐって大きな隔たりがあったのかもしれません。

その後、3号院に住んだのは梁敦彦という、唐紹儀と同じく政治家。
この人は、1917年7月に起った張勲らによる清朝復辟(位を失った君主が復位すること)の
際の協力者の一人で、内閣議政大臣兼外交部尚書に任命されるのですが、クーデターはわ
ずか12日間で失敗。失敗後は天津へ逃亡しています。(この張勲らによる復辟事件の裏事情
が、元皇帝、溥儀さんの『わが半生 上』筑摩書房、原題は『我的前半生』には書かれていて
おもしろい)。

この人の時に邸宅は改築され、邸内には伝統劇や踊りなどの出来る東屋などもあり、かなり
贅を凝らしたものであったあったとか。

この3号院邸宅は、1984年東城区文物保護単位となりましたが、2004年に解体、その後移築
(移築された年月日は不明)、現在はその一部が東四五条に残っています。

さて、次に日本占領下の麻线胡同の様子を少し覗いておきたいと思います。

当時、この胡同内には二軒の日本旅館があったというから日本人のわたしとしては驚き。
部屋数や料金は次の通り。

〇松風舘
部屋数ー十三。
宿泊料ー七円から八.五円。

〇増田旅館
部屋数ー十六。
宿泊料ー七円から九円。

宿泊施設あれば娯楽施設あり、というのが通例ですが、この胡同内には大人の娯楽施設
「カフェー」もありました。カフェーといっても、もちろん、現在の喫茶店のことでは
ありません。当時の言葉で言えば「女給さん」のいる酒場のこと。夜な夜な鼻の下を長
くした殿方たちの顔が目に浮かびますね。

当時出版された北京ガイド本の記者さんは「カフェー」についてこんなことを書いて
います(引用に当り、一部表記を変えています)。

“日本の所謂カフェーなるものは支那人にとつては実に奇異なるものであらう。支那側
にも八大胡同にカフェーに相当する妓院があるが、彼女らは芸妓であり、娼妓である
のだから別として、芸妓でもなく、娼妓でもないカフェーの女給なるものは、女招待
の訳語があっても一般の支那人には不可解な存在である。”

“ところで北京には三十数軒のカフェーがある。栄枯盛衰の烈しい商売ではあるが、事
変後林立し消滅した数は幾何に上るだらうが、夜毎の胡同にネオンの毒々しさを投げ
つけて、勇壮な軍歌流行歌のメロディーに一瞬ほのかな郷愁を誘はれてふらふらと扉
を押すものもなきにしもあらずと云ふわけで相当の繁盛だ。”

“一流カフェーと云はれる、北京會館、新興、富士、太陽、聚和等は設備に於て美人女
給を揃へて居る点で内地のそれに決して劣らない。”(『北京案内記』昭和十六年一月
発行、新民印書館から引用)

ということで、麻线胡同にあったカフェーの名前と住所は次の通り。

〇店名は、緑水
 住所は、麻线胡同十三号。
(今行ってもダメですよー、今はもうありませんよー)

麻线胡同。



明の時代は、麻縄胡同(MashngHutong/マーションフートン)。
清の時代に麻线胡同(MaxianHutong/マーシエンフートン)。
その名は民国期を経て現在に及ぶ。

「麻线胡同はもうなくなってしまったのよ」という住民のお一人の言葉が今も耳の奥に
残っています。



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