北京・胡同窯変

北京。胡同歩きが楽しい。このブログは胡同のあんな事こんな事を拙文と写真で気ままに綴る胡同お散歩日記です。本日も歩きます。

第224回 北京・蘇州胡同(12) 東口からさらに北京駅街まであったのね。

2019-04-26 10:21:56 | 北京・胡同散策
今回は、蘇州胡同の最終回。

どんどん行きます。



可愛らしい自転車が。



これもシェア自転車なのです。
名前は、mebike。


道路幅の狭い胡同には、ぴったり。

少し行くと、



珍しいものがありましたよ。



屋根の上に飛びだした壁。


延焼をくい止めるための防火壁。

さらに行くと、
左手、北側に、路地。
ここは、前にご覧いただいた「北鮮魚巷」、その南口。


前に見ていただいた時とは違い、入口に立体駐車場ができていました。
自動車の路上駐車が増え、住民の方たちも頭を痛めていたようです。そこで、設置されたのが
この駐車場でした。この立体駐車場は胡同西口にもあります。

北鮮魚巷の前は「中鮮魚巷」の北口。



その東隣に飲食店。





清真「蘇州回民飯館」。
回族(イスラム教徒)の方が経営しているお店です。



入口に貼り紙。


女性服務員募集。

その片方には、「串」という文字をかたどったイルミネーション。


夜間はあかりが点ります。

この串という文字に誘われて、ついつい入店。

人形の出迎えに感激。



注文の品物は決まっていたんですが、とりあえず菜単(メニュー)を開くと、
なんと、水郷の街、蘇州の写真が。





この蘇州の写真を見ていて、ハッと我に返り、
「いかん、いかん、ここで飲んだら、この先歩けなくなるかも」
と、急遽、羊肉串とビールは中止。

結局注文したのは牛肉面。


値段は、20元。1元を16.5円ぐらいとして、日本円で330円。


さらに行きます。

清真「蘇州回民飯館」の隣にもお店。



こちらは、公営の「您恵万家」というスーパー。



次の写真の左手は立体駐車場。
その先にあるのは、自動車が無闇に入れないようにと設置された遮断機。




ちなみに、前方を横切るのは、郵通街。


「您恵万家」というスーパーの隣は、国機快捷酒店というホテル。


住所は、蘇州胡同30号。

その隣は、公平巷。


写真向かって左の建物の住所は、蘇州胡同28号。
蘇州胡同で番地があるのは、こちらの28号院まで。1号院から27号院までは消えてしまいました。

公平巷の前は、新誼酒店というホテル。



このホテル、表玄関は郵通街沿いにあります。





いよいよ蘇州胡同の東口にやってまいりました。



目の前にでーんと立っているのは、世紀华联、吉野家、稲香村、永和小吃などなどのお店が
入る商業施設。北京駅が近いので、食事をする人、買い物をする人でいつも賑わっております。





商業施設の北側には、北京郵区中心局(BEIJING POST CENTER)。




さて、さきほど蘇州胡同の住所番地が28号までしかないと書きましたが、
昔は、もちろん、1号から27号まであったのはいうまでもありません。

たとえば、1990年の北京地図で蘇州胡同を探してみると、こんな風になっています。
地図は『北京胡同志』(主編段柄仁、北京出版社、2007年4月)所収のものを使用。



小さいので見づらいかもしれませんが、この地図を見ると、1990年の当時の蘇州胡同が、
現在の胡同の東口から、やや北東方向に延び、現在の北京駅街まであったことが判ります。

ならば、いつ頃、東口から北京駅街まで延びていた蘇州胡同の部分はこの世から消えてし
まったのか。角度を換えていえば、いつごろ「北京市邮区中心局」はここに置かれたのか。

調査不足は否めず、今後より精度を上げる必要があるのですが、とりあえず360百科で「北
京市邮区中心局」を確認してみますと、「中国邮政集团公司北京市邮区中心局」とあり、成
立・営業が「1998年07月02日」と記されていました。

もし、これを正確な情報だとするならば、「北京市邮区中心局」の施設完成までの時間を考慮
して、胡同の一部が消失したのは1996年頃から1997年の半ば頃だったのではなかったのか、と
いうのが現時点でのわたしの見方になっています。

先に書きましたように、とにかく調査不足は否めず、今後もより精度を高めていきたいと考えて
おりますが、今回の記事をご覧くださっている方の中に、もし、より正確な情報をお持ちの方が
おられ、情報提供してくださるならばこの上なき幸いです。ぜひ情報提供をよろしくお願い申し
上げる次第です。



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第223回 北京・蘇州胡同(11) 中華民国臨時政府などのあった場所

2019-04-19 10:39:04 | 北京・胡同散策
しんと静まりかえった洋館のある路地と学校の間から東方向へ。







一帆風順



蘇州胡同さん、これからも一帆風順であっていただきたいなぁ。

護門鉄。


木製の門扉を守るために設えられたといわれる護門鉄。形なんかどうでもよくは、ないのです。


その東隣



旅館です。



記憶に間違いがなければ、前は看板が外に置かれていたような・・・。
これじゃぁ、遠くから見えません。やはり、いろいろとご事情がおありのようです。




さらに行きます。





お次は蘇州胡同61号というアパート。



アパートのゲートのはす向かいに、高い建物が。





しっかりと春聯が貼られています。





三階建アパートのようです。





まだまだ行きます。





こちらは「首都建設報」。





【今から80年ほど前のこと】

今回は、梨本祐平著『中国のなかの日本人』(1969年10月25日発行、同成社)に登場する人物
や舞台地、会社や関連する、あるいは関連していると考えられる機関などの一部を書き出して
みました。

〔扱われている時代〕
昭和3年の夏から昭和22年1月まで。

〔舞台地〕
北京、天津、上海、南京、大連、奉天(現在の瀋陽)など。

〔登場人物〕
有名無名を合わせ60名以上にのぼります。(敬称略)

思いつくままに挙げると次の通りです。

松岡洋右、野田蘭三、荒木五郎、片山民部、土肥原賢二、張学良、吉田茂、
野村一郎、李秋華、大川周明、床次竹二郎、森恪、揚宇霆、石原莞爾、
麻生久、清水行之助、橘樸、朱華、池田純久、殷汝耕、方顕廷、 田中隆吉、
牟田口廉也、河野建治、宮脇賢之助、近衛文麿、岩永祐吉、和知鷹二、
十河信二、中江丑吉、山田純三郎、唐紹儀、田村俊子、横光利一、
汪兆銘、須賀彦次郎、多田駿、影佐禎昭、周仏海、陳公博、陶希聖、高宗武、
梅思平、宇佐美寛爾、加藤新吉、永田久次郎、大沢隼、平田驥一郎、花谷正、
西村平八郎、森川守三、芳春、麗華、揚錦南、呉謙、満鉄調査部の人々、
本渓湖煤鉄公司坑夫の皆さん、華北農村の皆さん、華北交通の皆さん、
梨本美津子、梨本継美、など。

〔関係施設の所在地〕

〇中華民国臨時政府(行政委員会、議政委員会)

外交部街(東単北大街沿い)



中華民国臨時政府の行政委員会や議政委員会があったのは、ここ。
ここに王克敏さんはいらっしゃったのです。


現在遺るのは、このゲートだけですが、見応え十分。臨時政府以前、この場所にどのような施設が
あったのかは省略です。

〇新民会

西長安街。


新民会の下に「電台」と書かれています。これは「北京中央廣播電台」(日本語で中央放送局)。
このラジオ放送局は、1937年に設立、日本放送協会が運営。中国語放送は、毎朝「新民体操」
で始まり、日本語講座やレコード音楽と続き、京劇、相声などの演劇ものが多かったとのこと。
(『老舎事典』中山時子編、大修館書館、1988年12月20日発行を参照)。『北京内外城詳図』
(著作者、王華隆)を使用。

〇北支那開発株式会社

東交民巷。

当日は好天で、東口からぶらぶらと。

次の写真の建物は警察博物館。
もとはアメリカ(美国)の旧花旗銀行(ナショナル・シティー・バンク)
Henry Killiam Murphy設計。1914年。



この建物の西隣に「北支那開発株式会社(支社)」はありました。
次の写真の手前は警察博物館、その奥。



西口(広場側)から入った場合は、旧オランダ使舘(荷蘭使舘)が目安。
ちょっと可愛らしいゲートでしょ。



オランダ使舘から東へほんの少し行ったところ。



この辺りは、置かれている施設が施設なので、以前はちょっとピリピリとした空気が流れていた
こともあったのですが、今回はだいぶゆるくなっていました。

『北支那開発株式会社之回顧』(昭和五十六年十月一日発行、編集者/発行者槐樹会刊行会)
から、会社の場所や社屋の様子などを示す記事を幾つか次に抜いてみました。

まずは、日本が米英と戦争を始めた時の社員の方の体験から。

何も知らずに出社した時の話。会社が「米国海軍駐屯部隊の兵営」の隣で、社屋が四階建
(屋上あり)であったことがわかります。

“車は東交民巷の城門に近づいた。見ると鉄の城門はピタリと閉められ、その前にはバリケード
が築かれ、多くの日本兵が銃剣をこちらに向けて、通せんぼうをしている。その時私は初めて
米英との開戦を知らされたのだった。”

“北支那開発の社屋は、東交民巷又は公使館区域と呼ばれる城壁の内にあり、その隣りはアメリ
カ・マリン(米国海軍駐屯部隊)の兵営である。私は事態の重大さを知ると共に、門兵に私の
職務柄を告げて中に入ることを許されるや、一目散に社屋めがけて走り、同僚達と共に四階建
の屋上に駆け上った。見ると多くの日本兵が、真下のアメリカ兵営の中庭に向って、大砲や機
関銃の狙いをつけ、今にもブッ放しそうに銃座についているではないか。多くの社員達もその
背後に立っていて、早くやらんかなァなどと囁く者もいたが、銃声が起るどころか、いつまで
も無気味な沈黙が続いており、アメリカ兵営の中も妙に静まりかえっている。”

お次も太平洋戦争の時のお話。
記事中の「ナショナル・シティ・バンクの建物」とは、「花旗銀行(アメリカ)」を
指していると思われます。

“大東亜戦争勃発と同時に北京支社に隣接するナショナル・シティ・バンクの建物が接収され、
開発会社がこれを使用することとなり、企画局(?)が入居していた。”

もう一つ、建物関連の話。
中庭もあったそうです。

“中庭では、朝は体操、昼休はバレーボールの試合が行なわれていたのが記憶に残る。”

お次は余談になりますが、社員のお一人が記録なさった、東交民巷の道路についての興味深い
お話です。当時の北京を舞台にした映画に東交民巷が登場した場合、見所の一つとなるかもし
れませんね。

“東交民巷の道路には、数個所道路と直角に大きな蒲鉾を置いた様な盛り上り(bumpと言った
様に思う)があった。日本軍の自動車が疾走するのを防止するために設けられたとか。”

ちなみに、北支那開発の歴代総裁(副総裁については、日を改めて触れる予定)は、
次の各氏。敬称略

初代ーー大谷尊由。
    昭和十三年十一月就任。九ヶ月足らずで病死。
二代目ー賀屋興宣。
昭和十四年八月から十六年十月(東条内閣に蔵相として入閣する)まで。
三代目ー津島寿一。
    昭和十六年十一月から二十年二月(小磯改造内閣に入閣する)まで。
四代目ー八田嘉明。
    終戦まで。


地図の右下。右から「滙理銀行(フランス)」「花旗銀行(アメリカ)」「興中公司」「開発会社」
と並んでいます。上掲書によると、開発会社の北京支社はその当初、興中公司(後述)の事務所に
同居していたそうです。『北京内外城詳図』(著作者、王華隆、時代は1940年頃)を使用。

〇華北交通株式会社(中国名、華北交通股份有限公司)

東長安街。


地図を見ると、北京飯店の東隣にあったのには、ビックリ。『最新北京市街地図』
(東京アトラス社編纂、昭和十三年四月五日発行)を使用。

上掲の『北支那開発株式会社之回顧』から華北交通に関する記事を拾ってみました。

“日華事変が勃発するや、満鉄をはじめ鉄道省から多数の鉄道従事員が華北に派遣され、鉄道
の復旧に拡張に絶大な貢献をしたが、建設の進展と共に新たに単一経営主体による運営の必
要に迫られ、昭和十四年四月華北交通株式会社が誕生した。
同社は資本金四億円、その投資内訳は北支那開発二億三千五百万円、満鉄一億二千万円、
華北政務委員会(中華民国臨時政府を指す。-引用者)四千五百万円である。
華北交通は華北全域の鉄道、自動車、内河水運を綜合的に運営するほか、蒙疆政府から蒙疆
地区の鉄道の運営を委託されていた。その他、塘沽新港の建設及び連雲港の修築工事に当たっ
ていた。”

満鉄、興中公司、華北交通、北支那開発株式会社、以上四社の関係について上掲書に
次のような記事が載っています。人事や経営面で「満鉄」がかなりの力を持っていた
ことが分かる内容です。

“首脳部の人事にも現れているが、北支那開発会社及び関係会社の人事、経営の上に大きく「満鉄」
の影が投じている。すなわち前記の神鞭・山西両副総裁(両者とも北支那開発ー引用者)と言い、
華北交通会社の宇佐美寛爾氏を迎えたこと、及び興中公司(初代社長十河信治二氏)等を通じて
満鉄出身者が多数北支開発及びその関係会社に入っていること。殊に興中公司は日華事変の勃発
に先だち、昭和十年十二月、満鉄の全額出資の下に設立され、当初上海を本店とする日満華三国
の経済提携を促進する機関(日本法人)として発足、華北事変後は軍の華北進出に伴い、華北の
占領地域の重要産業ー交通、電力、石炭、鉱業、鉄鋼、棉花等の事業施設の復旧開発の促進を担
当していたが、北支開発設立後はその傘下に入り、関係会社の整備の進むのに伴って、興中公司
の管理下にある事業施設は漸次それに移管し、資本金も満鉄より北支開発に肩代りされて解消し
てゆく方法をとったので、北支開発の初期においては、興中公司よりの業務の移管がその重要な
仕事となった位である。”

“次に華北交通株式会社(華名、華北交通股份有限公司、中国特殊法人)は昭和十四年華北交通株式
会社法によって設立され、資本金三億円、出資の内訳は北支開発一億五千万円、満鉄一億二千万
円、臨時政府(華北政務委員会)三千万円で、従業員は満洲国人、日本人、中国人の順で、殆どは
日本の鉄道省、満鉄の従業員によって運営されていた。ここでも満鉄色は極めて濃厚で、出資の
割合も高いので、北支那開発の華北交通に対する統制力はなかなか及ばず、殊に鉄道部門は軍事
行動の遂行に伴って、軍の厳格な統制化にあったので、北支開発の関係会社内での独立王国的存
在となった。従って、華北交通会社に対する親会社の制御は歴代総裁の頭痛の種であったことは
疑うべくもない。”

〇満鉄関係の施設

満鉄北支経済調査所。
灯市口の「同福夾道」。


使用地図、同上。

のちほど再び関係機関などをご覧いただきます。

【現在のこと】

首都建設報の建物をあとに、さらに前へ。



右手に路地が。
どうしたって入ってみなければ・・・。







こちらの玄関上には「五好家庭大院」と書かれたプレート。



「五好家庭」って何かな?
以前にも書いたことがあったのですが、ここで再掲。

「五好家庭」は、1950年代から提唱された家庭のあり方。
「五好」の内容は時代によって違いがあるようです。

ここでは、ご参考までに次の五つの項目を挙げておきました。
これら五つの条件を満たしていると「五好家庭」と呼ばれる資格あり、ということになる
ようです。(詳しくは、中国のオンライン百科《360百科》「五好家庭」をご覧ください)

1、爱国守法,热(熱)心公益。

2、学习(習)进(進)步,爱岗(崗)敬业(業)。
   〇「愛崗」とは、職場、持ち場を愛する。

3、男女平等,尊老爱幼。

4、移风易俗,少生优(優)育。
   〇「移風易俗」とは、旧い風俗習慣を改める。

5、夫妻和睦,邻(隣)里团结。
   〇「邻里」とは、隣近所、町内。
以上。


さらに奥へ。


アパートの出入口です。

出入口の脇に、こんな札がさがっていました。


「此院不通! 到此止歩(44号院)」

というのも、こんな、笑うに笑えぬ事情がありました。





「これじゃぁなぁ」と、
変なところで納得しながら、もと来たところへ引き返すと、ワンちゃんが駆け寄ってきました。




再び【今から80年ほど前のこと】

〇日本陸軍武官室

再び、暖かい日差しの中でまどろんでいるような東交民巷をぶらぶらと。

いつ見てもキュートなたたずまいのテラス。



圣弥厄尔教堂(St.Michael’s Charch)
1901年。現役です。






天を目指して、今にも飛んで行きそう。日本や中国のお寺の屋根って、天を受け容れようと
しているみたいかな?

礼拝時間に重なってしまい、中の写真撮影は遠慮しました。

フランスの旧郵便局。



前に訪れた時は四川料理のお店だったのですが・・・。



さらに西へ。

旧横浜正金銀行北京支店(妻木頼黄設計)
1910年。


現在は、中国法院博物館。


この博物館の北側に旧日本大使館。こちらは明治24年(1891)末から。その使舘の中の西の一郭
に「陸軍武官室」はあったそうです。(『北京案内記』昭和十六年十一月一月二十日発行、新民
印書館参照)


使用地図、同上。


『北京旧影』(人民美術出版社、1989年)


〇日華経済協議会、陸軍特務機関

府右街(西長安街沿い)

奇しくも、この二つの施設が明の時代の特務機関「西廠」が置かれていたといわれる
近くの府右街にあったというのは興味深い。

明の時代、東廠、西廠という特務機関がありました。
東廠は、明の永楽十八年(1420)に設立。皇帝直属で、宦官が長官を務めた官僚や人民に
対する監視機構。政治情報ばかりではなく、民衆の日常生活までが調査対象であったそう
です。ちなみに、秘密裡の逮捕、殺害などの特権もあったといわれています。東廠という
機関はもちろん今は残っていませんが、東廠という言葉は、現在も東廠胡同として残って
います。

西廠は、明の成化年間(1465-87)に置かれ、その人数、権力は東廠のそれを越え、活動
地域も北京だけではなく、あまねく各地に及んでいたそうです。西廠の場所は、霊済宮附
近にありました。この寺院はその名が由来といわれる現在の霊境胡同沿いにあったとか。


百度地図を使用。


〇梨本祐平さんのご自宅

范子平胡同(fanzipinghutong/ファンズピンフートン)。
昭和13年2月頃から「干面胡同」に移る昭和18年8月まで居住。


使用地図、同上。

『中国のなかの日本人』にこんな記述がありました。

“この頃、北京、天津はひどい住宅不足で、なかなか適当な家はなかった。内地からくる
商売人や支店または出張所を設けた商社の社員と家族たちで、人口が急増したのである。
二月中旬、駐屯軍司令部は北京に移転して、名称も「北支派遣軍司令部」と改まり、寺
内寿一大将が最初の司令官となった。満鉄もこれまで、北京に北京公所があったが、新
に「北京経済調査所」を設置し、北京公所をこれに合併した。北京はいっそう日本人色
が濃くなった。
私はやっと適当な家を探しあてた。家は東城の哈達門通りを少し奥に入った、范子平胡
同にある手頃な家である。”(注、記事の「哈達門」は俗称で、正式には崇文門)

こちらのお宅には、小説家の横光利一さんや芹沢光治良さんなどの来訪もあり、
立野信之さんや田村俊子さんにいたっては、毎日のように遊びに来ていたそうです。

残念ながら具体的な場所は現在不明。

范子平胡同は旧名で、現在は慶平胡同。
胡同の様子をお知りになりたい方は次の記事をご覧ください。
「第203回、第204回 北京・慶平胡同」。


現在の慶平胡同。

次に引っ越したのは、東単北大街沿いの「乾面胡同」(地下鉄灯市口近く)。
昭和18年8月から昭和22年初め(?)まで居住。



上掲書には「約三百坪はあろうかと思われる広大な邸宅」と書かれています。
梨本さんが、あるキッカケから華北交通の「理事待遇の顧問」になってしまった時に
会社側が用意してくれた住宅でした。

残念ながら、こちらも具体的な場所は現在不明。



終戦時、梨本さんはとんでもない体験をしなければなりませんでした。
その辺のことについては、他日、北京における終戦風景として取り上げる予定です。

今回は、『日本占領下の臨時政府とその要人ノート』の結びとして、臨時政府などの諸機
関、関連会社などの場所を取り上げてみましたが、最後に、『中国のなかの日本人』を読
んでいて印象に残った風景を次に書き留めておきたいと思います。

梨本さんは、范子平胡同で暮らしていた時の体験として、こんなことを書いておられます。

“慣習を尊重する北京人は、いぜんとして、旧正月を祝うことを止めようとしない。
街中から胡同の奥まで、耳を聾するばかりに爆竹が鳴り、硝煙がほの白くただよっ
ている中を、紙に鱗の彩色をしてつくった長い蛇身のなかに、四、五人の男が頭を
突っこんで、まるで蛇がはいっているように蛇踊りを踊って練り歩く。各店舗は七
日間くらい休業し、固く閉ざした大戸の前では、祝酒に顔を赤くした店員たちが羽
根つきをやっている。中国の羽根つきは、足のつま先で羽根を蹴上げるのである。
赤、青、黄などの色とりどりの刺繍を施した長い中国服を着て、刺繍のついた靴を
はいた姑娘が、自分の好きな青年に声援をおくる。そうすると、それをまた傍から
はやしたてて歓声は渦まくばかりである。”



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第222回 北京・蘇州胡同(10) 日本占領下の臨時政府とその要人ノート(その五)

2019-04-08 11:00:23 | 北京・胡同散策
では、おじゃましてみたいと思います。



緊張感とワクワク感がないまぜになっております。







左側に通路があったので、まずは行けるところまで行ってみたいと思います。



まだまだ行けます。







突き当たり。



ここまでやって来たところで、住民のお一人とばったり。

拙い中国語でお訊ねしたところ、洋館は短くとも100年は経っているとのこと。
わたしは、目を輝かせながら、「そうでしょ、そうでしょ」とご機嫌。

「不通」と書かれた文字が気になっていたので、中に入って写真を撮りたい旨を伝えると、
「大丈夫、大丈夫」という言葉をニコニコ顔で返してくださった。

わたしもニコニコ顔で、いよいよ洋館へ。

ワクワクしてます。




【今から80年ほど前のこと】

梨本さんの『中国のなかの日本人』によりますと、1938年(昭和13年)に「北支那開発会社法」
なるものが内閣から発表されたそうなんですが、その業務目的を同書から写してみると次の通
りなんですよ。

「 1、交通運輸及び港湾に関する事業
2、通信に関する事業
3、発送電に関する事業
4、鉱産に関する事業
5、塩の製造、販売及び利用に関する事業
6、前各号の外北支那に於ける経済開発を促進するため、特に
統合調整を必要とする事業。
と華北の経済のほとんど全般にわた」っており、しかも、この業務目的を遂行するために、
「華北交通、華北電信電話、竜煙炭礦、華北塩業、北支産金、(以下略ー引用者)」などの子会
社62社を設立することになっていたそうです(注1)。

梨本さんはこの「北支那開発会社法」について「私は憤懣に堪えなかった」と同書の中で
書いているんですが、理由は次のようなものでした。

「国家を興すためのもっとも主要なる条件は、その民族産業を興すことにあることはいう
までもないが、この北支那開発会社法が実施されるとするならば、華北の民族産業どこ
ろの話ではない」とし、続けて、かなり激しい語調で、
「史上、征服国家が被征服国家を圧迫した例においてもこんなにはげしい収奪はけっして
なかったであろう」
と書いていらっしゃるんですね。

先に梨本さんの「私は憤懣に堪えなかった」という感想を書きました。しかし、この会社法
を知った時の臨時政府の中心人物だった肝心の王克敏や王蔭泰にしてみれば梨本さんの「憤
懣に堪えなかった」どころの話ではなかったはずです。

それは、単に、この会社法が実施されれば華北の重要産業のほとんどを日本が掌握してしま
うから、という理由からだけではなく、この会社法を中華民国臨時政府のあずかり知らぬと
ころで、日本政府が計画してしまったからなのです。

梨本さんによると、1938年(昭和13年)3月に日中提携による華北経済開発の最高機関として
「華北経済協議会」なるものが設置されていたんですが、日本政府はこの協議会をまったくの
蚊帳の外において会社法を計画してしまったんですね。しかも、この協議会について調べてい
る内に分かったことなんですが、この協議会の会長を務めていたのは、なんと、中華民国臨時
政府行政委員長の王克敏さんその人だったんですよ(注2)。

これじゃ、王克敏やその右腕だった王蔭泰にとっては、たまったもんじゃありません、踏んだ
り蹴ったりだったんじゃないでしょうかね。

では、王克敏や王蔭泰のこの時の反応は具体的にどうだったのか。『中国のなかの日本人』は
次のように伝えています。

“ある日、行政部秘書科長周大慶から、王委員長が至急お会いしたいといっている旨の電話が
かかってきた。さっそく出てゆくと、王克敏は、
「華北交通は作戦中ですからやむをえなすとしても、北支那開発会社に対して、あなたは
どうおかんがえですか?」
と声は怒りにふるえている。また顔の色も青ざめている。
私は仕様もなく、ただ沈黙しているより外はなかった。王克敏は言った。
「これでは、私たちは本当の漢奸(売国奴ー引用者)です。政府は必要ありません」
私には彼の怒りをなだめる策はなかった。しかし、彼は冷然として顔色を少しもほぐそうと
しない。私はくれぐれも、彼に隠忍を求めて、早々に辞去した。”

辞去した後、梨本さんは続けて実業部に王蔭泰を訪ね、王克敏の怒っていることを伝え、彼
になだめ役を頼むのですが、対する王蔭泰は次のように言ったそうです。

“「王委員長の怒るのは当然です。経済部門は全部開発会社の傘下に入り、地方には特務機関、
新民会、合作社、宣撫班が地方行政を遮断する。--これでは政府の必要がない。私も今
まで隠忍してきましたが、これ以上この政府にとどまっていることはできない」”

続けて梨本さんは次のように書いています。

“これでは王国敏をなだめるどころではなく、自分が辞表を出す心算でいる。私は王蔭泰引っ
ぱり出し役として、まことに相すまぬ気持がいっぱいになった。
「あなたを上海から無理に引っぱり出してきて、こんな状態の中に苦しませることは、私
としては何とも申し訳がない。あなたに会わす顔もない」
と私は頭を下げた。すると彼は、
「いや、そんなことは問題にしていない。私も自分で考慮した結果決心をしたのだから、そ
のことは少しも心配はいらない。ただ、政府の了解もなく、華北の産業機構のすべてを開発
会社に経営させて、中国人の企業も許さないということは、実質的には日本が中国を経営す
ることとしか思えません」
と言う。”

ちなみに、梨本さんは同書のなかに、「北支那開発会社案」について、北支派遣軍参謀長
山下奉文少将との興味深いやりとりを載せていますので、次に写してみました。

“翌朝(王国敏や王蔭泰と会った翌日を指すー引用者)、北支派遣軍参謀長山下奉文少将を訪ね
た。(中略)今の華北の状況について、彼の意見をたたいたり、場合によっては王克敏、王蔭
泰と話し合ってもらおうと思ったのである。山下少将は口を開くなり、
「梨本君、北支那開発会社案はひどいなあ。あれじゃ、王克敏としては立つ瀬がないだろう」
と彼の方から切り出した。私は少し意外に思いながら、
「現地軍は開発会社案には関係なかったんですか?」
と問い返すと、
「現地軍は、華北経済協議会以外には何も知らない。あれは内閣だけでやった仕事だろう。
もちろん、陸軍も参加しているだろうが、計画は全部内閣だ。軍もあれでは宣撫工作なんか
できなくなる」
と言った。”

“私は王克敏、王蔭泰の憤慨が常ではなく、二人とも辞表を出して引退する決意であることを説
明した。じっと聞いていた山下参謀長は、沈痛な語調で、
「今、華北で一番肝要なことは治安を維持することだ。この時、臨時政府が紛糾したのでは、
すべてが滅茶滅茶だ。しかし開発計画については、現地軍としてはどうしようもない。事前
に相談があったのなら、あんなことは絶対させなかったのだが、今となってはどうも方法が
ない」
と言い、困惑した顔をしている。”


(注1)日中戦争当時、北支那開発株式会社の社業に従事していた社員有志の皆さんが当時の
ことを書き綴った貴重な記録『北支那開発株式会社之回顧』(昭和五十六年十月一日発行、
編集者/発行者槐樹会刊行会)に、「北支那開発株式会社設立の経緯」という 記事が載っ
ています。次に写してみました(引用に当たって、一部表記を改めています)。

“昭和十二年七月七日に勃発した日華事変を契機として日本の大陸政策は日満華ブロック経済へ
の発展を目標として遂行された。
特に華北蒙彊の地は日満両国と一体化した新たな総合計画経済の中に組み込まれる事となった。
昭和十三年三月十五日閣議決定の北支那開発株式会社設立要綱には次のように述べられている。
「帝国政府決定の北支那経済開発方針に基き日満北支経済を緊密に結合して北支那の経済開発を
促進し以って北支那の繁栄を図り併せて我国国防経済力の拡充強化を期する為北支那開発株式
会社を設立するものとす」
又、設立趣意書は当社設立の事情を次のように述べている。
「・・・抑も北支那の地域たる広大肥沃の土地と一億の人口とを擁し極めて豊富なる鉄、石炭、
塩、電力等の資源を未開発なるが儘に包蔵す。今之と我国の資本及技術を緊密に結合するに於
いては、支那民衆の生活を安定向上し、日支提携長久の基礎を確立すると共に我国防資源の供
給を豊富にし、我国経済力の補強拡充に資すること甚大なるものあるべし。之を以て北支那に
於ける経済開発は緊急の要事にして、就中交通運輸、港湾、通信、発送電、鉱産及塩等の基礎
産業乃至国防産業の如きは最も速に之が開発を促進し、其の統合調整を図るの要あり。ここに
当会社は北支那経済建設の先導者として此等事業に対する投資及融資を行い以て其の経営を統
合調整せんとす。(以下省略ー引用者)」
北支那開発株式会社は前述したような経緯により誕生したのである。即ち第七十三議会を通過し
た北支那開発株式会社法(昭和十三年四月三十日法律第八十一号)に準拠し、郷誠之助氏を設立
委員長とし、同年十一月七日の創立総会によって設立されたものである。”

(注2)「華北経済協議会」関連の記事を次に掲げておきました。北支那方面軍の行政顧問、湯澤
三千男さんが「北支那協会」の定例会で語った言葉です。ただし、「華北経済協議会」が
「日華経済協議会」となっています。引用は次の論文より。『「華北分離工作」以降の中国
における「傀儡政権」の財政構造』〔平井廣一、北星学園大学経済学部北星論集第50巻第
2号(通巻第59号)(2011年3月)抜刷〕電子版。

“経済の発展、それをどうしてやるかという問題です。支那側では現在金を出せない。そこで金は
大部分日本から出さなくてはならないということになります。経済の開発、これは日本の意思で
出来る丈け実行する・・・そこで考え出したのが日華経済協議会といふ合作機関であります。
・・・これは、根本は何処迄も日本の指導であらうと云ふのでありますから日本に実権を与えて
貰はなければならない。面子上王克敏氏が委員長〔会長〕になっておりますが、副委員長〔副会
長〕の平生氏が実権を握るといふ訳であります。結局は何うしても日本側が発案して、それをや
って行く・・・そのために軍内に経済委員会といふものを別に拵へて、それには各方面の専門家
が参加する・・・極端に申しますると、日華経済協議会といふものは、私は支那政府以外の政府
であらうかとも思ふのであります。・・・〔支那〕政府以外の政府で経済開発を主管する処の別
の政府があるのだと思ふ。”
 

【現在のこと】

いよいよ中へ。

ワクワクしすぎて、もう倒れそう。



中は意外と明るく、ほっとしました。

西方向に通路がのびています。



足元に敷きつめられたタイル。



向きを変えて南方向。



傷んではいますが、素敵な木製の手すりがありました。



階段。
手すりのカーブの美しさにしばし見惚れる。

静かに、そして丁寧に一段一段あがっていきます。



靴底を通して伝わる柔らかい感触といい、古さゆえに放つ軋む音といい、
忘れがたい階段に出合えてよかった。

踊り場で。

壁沿いに穿たれた窓から射し込む陽射しがまぶしい。





やはり静かに、そして丁寧に階段をくだり、一階へ。



出入口の足元には、やはりタイル。



タイルを跨いで、外へ。



ご覧いただいているのは、南方向の様子です。



突き当りまで行くと、東方向と西方向にそれぞれ通路がありました。

東方向。



西方向。



洋館の裏側。





元に戻り、玄関の裏側。



再び、北京国際職業教育学校の門前に戻ってきました。




【今から80年ほど前のこと】

北支那開発会社ならびにそれに関連した出来事について、『中国のなかの日本人』は
次のように伝えています。

“日本の国家資本と独占資本の混成児である北支那開発会社は、交民巷(大使館地域)に
看板を掲げ、さっそく製鉄、石炭、塩等の資源開発を開始した。この会社は確実な利益
配当が保証され、払込資本金の十倍までの社債の発行権が与えられていた。その強力な
資本をもって、中国系の大会社を次々に子会社として統合し、中国人の所有者たちは、
事業の経営から除外された。中興、大同、保晋、井陘、宣化等の諸炭礦をはじめとして、
石景山の製鉄所、宣化の鉱山等も後に開発会社の参加に入った。開発会社が積極的に事
業開始に乗り出すと、鐘紡、東洋紡、日清製粉、大同電力、大倉組、浅野セメント、小
野田セメント、王子製紙、トヨタ自動車等が巨大な資本を擁して、中国人の工場を買収、
統合に乗り出した。彼らの先頭には、常に銃と剣とが立っていた。昭和十三年は、こう
して終った。
日本の経済支配は確立された。王克敏の怒りもむなしかった。”

王克敏を首班とする中華民国臨時政府は、たとえ彼らの思惑がいかなるものであれ、
こうして傀儡政権および漢奸という汚名の泥沼の中に沈んでいったのです。



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