北京・胡同窯変

北京。胡同歩きが楽しい。このブログは胡同のあんな事こんな事を拙文と写真で気ままに綴る胡同お散歩日記です。本日も歩きます。

第198回 北京・(続)暁順胡同 “1940”という刻印と名のない路地

2018-07-26 15:03:18 | 北京・胡同散策
前回ご紹介した暁順胡同の南側の奥には一本の路地があります。
名前はありません。

今回はこの路地を散策してみました。







左手に見える建物には「同仁医院伝統医学科」という看板がかかっていました。



この建物の入口前の道を北方向へ。



すると、華風と洋風とが合体したような建物が目の中に飛び込んできました。



蔓性植物、蔓巻き用の棚、植え込みの植物。





蔓性植物、蔓巻き用の棚、植え込みの植物を見ていると、
「やっぱりここは胡同なんだな」
という思いが胸の奥からこみあげてきます。

それはそうと、華風と洋風とが合体したような建物はいったいなんでしょうか。





建物の外壁に“1940”という刻印がありました。



横道にそれますが、この刻印の斜め前には、キャットフードなどが置かれていました。





正面のゲートごしに見えるのは、教会「亜斯立堂」の南隣にある「第125中学」。
左手の建物は「怡然堂薬店」という薬局。



この薬店の方たち数名にこの建物が何かを訊いてみたのですが不明ということでした。
しばらくして姿をあらわした、やはりこの薬店勤務のベテランとおぼしき女性にも
お訊きすると、ここが「亜斯立堂」の附属の施設だったことが判明しました。残念な
がらそれ以上のことを伺うことはできなかったのですが、今後、この知識が役に立つ
のでは、と思っています。


(ベテランの女性は、この建物が教会附属の施設であったことを説明するため、親切にも
わたしをわざわざ「亜斯立堂」の見える先ほどのゲートのところまで連れて行った。なお、
先ほどのキャットフードはこの薬店に勤務している人たちが用意しているものなのだそう
です。)



建物の外壁に刻まれた“1940”。



この年は、盧溝橋事件(中国では七七事変)のあった1937年以降、日本が無条件降伏する
1945年8月まで、北京が日本の占領下におかれていた時期。

そこでその当時の同仁医院がいったいどうなっていたのかが気にかかり、同病院のホーム
ページを調べてみると、次のことがわかりました。

〇1942年、当時日本の傀儡であった北京特別市公署衛生局(注)が同仁医院の資産を接収。
 名前を「市立第二医院」と改名。
〇1945年5月、日本の開発医療組合が医院を接管、名前を「開発医院」と改名。
〇1946年1月、「同仁医院」という名称に戻る。

(注)「北京特別市公署」について
歴史的な複雑な経緯は省略して書きますと、盧溝橋事件以降、日本占領下の北京におかれた
日本傘下の北京市政府の役所名。

北京が日本の占領下におかれていた1941年(昭和16年)に発行された『北京案内記』(新民印
書館)には、「北京特別市公署」の解説として次のような記事が載っていました。長くなりま
すが、次に書き写してみました。
なお、旧字体などを新字体に改めていること、カッコ内は引用者の加筆したものであること
をお断りしておきます。

「北京に市政が布かれたのは民国三年(1914)六月で当時京都市政公所が西長安街の今の
建設總署の所に設けられ、市政督弁が全市の行政を処理したに始まる。其後十七年(1928)
六月国都南遷と共に之を北平と改め特別市として、市政府を旧国務院跡の集霊囿に移した。
二十六年(1937)七月日支事変勃発するや、江朝宗(こうちょうそう)北京治安維持会を組織
し暫時市長を代理し、二十七年一月現余晋龢(よしんわ)市長となり新興北京の建設に努力し
現在に至つている。
その組織としては、秘書処、自治事務監理処、社会局、警察局、財政局、工務局、衛生局、
教育局、公用管理總局の二処六局が設置されている。」


(上の写真は、昭和十七年三月一日八版『北京案内記』の「北京特別市公署」についての
解説部分。)


(昭和十三年四月五日発行『最新北京市街地図』複製 東京アトラス社編纂の一部。「中海」
の左、西側に「北京市政府」とあります。なお、地図は掲げませんが、「京都市政公所」は
新華門の対面あたりにありました。)


再び同仁医院伝統医学科の建物の入口前に戻り、今度は写真奥に見える路地へ行ってみました。



やはり洋館がありました。
いまも住んでいる方がいらっしゃるようです。



「どんな方が住んでいらっしゃるんだろう」
「いつごろ建てられたんだろう」
「この建物の用途はなんだったんだろう」
いつしか思いは日中戦争時代へ。
「戦時中は、どうだったのだろう」

そして、奇妙なことにやがて思いは子供の頃に観た映画の一場面に紛れ込んでいきました。
それは、1950年代辺りの暑い日のニューヨークを舞台にした作品だったような気がします。

何気なく入ってみた路地、意外にも重い時間旅行をしてしまった路地、そして名のない路地。

この名前のない路地を、今は、

“1940”という刻印のある路地

あるいは、

シネマの小径

と呼んでいます。




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第197回 北京・曉順胡同 小さな胡同にて

2018-07-17 10:16:24 | 北京・胡同散策
第192回でご紹介した北京基督教会崇文門堂(亜斯立堂)、その正門対面に「こんなところにも!?」
と思わずつぶやいてしまいそうな一本の小さな胡同があります。



その北側の門牌(住所表示板)は1号から4号まで。











南側には、門牌の見当たらない中華風の屋根を持つ二層の大きな建物が一棟あるだけ。



名前は曉順胡同(XiaoshunHutong/シアオシュンフートン)。



名づけられたのは今から四十四年前の1974年とそれほど古い話ではありません。しかし、それは
あくまで名前のことで、『北京胡同志』所収の地図を見ると、すでに明の時代にはこの胡同があった
ことが分かります。

ただし、その時の名前は「孝順牌胡同」、しかもその長さも現在の何倍もの長さがありました。
青色とオレンジ色の矢印の部分が当時の「孝順牌胡同」。現在は青色の部分の三分の二くらいの長さ
になっています。


『明北京城街巷胡同図 万暦ー崇禎年間(公元1573ー1644)』(『北京胡同志』主編段柄仁より)

以下、現在分かっている範囲でこの胡同の名前の変遷をたどってみました。

清の乾隆帝の時代。
名前が記されていません。
上図と同じく、青色とオレンジ色の矢印の部分が当時の胡同。


『清北京城街巷胡同図 乾隆十五年(公元1750年)』(同上)

清末の朱一新(1846-1894)によって光緒年間に書かれた『京師坊巷志稿』。
名前は「孝順胡同」。残念ながら、地図はありません。

民国三十年代(1941-1949)に作られた地図。
名前は「孝順胡同」。

この地図を見ると当時の胡同が現在のように短くなっていることが分かります。


『北平市全図』(蘇甲榮編製、日新輿地学社出版)複製より。

では、いったい、いつ頃からこのようにその長さが短くなってしまったのか。
断定はできないものの、とりあえず結論めいたことを書いておきますと次の通り。

直前地図中「耶蘇教堂」とあるのは、「北京基督教会崇文門堂(亜斯立堂)」のことを指しています。
「亜斯立堂」の説明板によればこの教会がアメリカの「衛理公会(美以美会)」(英語名「Methodist
Episcopal Mission」)によって建てられたのは清の同治九年(1870)ですから、この年以降、教会
並びにその関係施設が設立されていく過程で、徐々に直前の地図のように短くなっていったのでは、と
思われます。なお、地図の右に「滙文学校」とありますが、この学校も「衛理公会(美以美会)」が設立
した学校でした。

次の写真は、この胡同の西端から東方向を撮ったもの。
写真正面奥に見えますのが「北京基督教会崇文門堂(亜斯立堂)」の正門。



ここで再び今回の記事冒頭に掲げた写真をご覧いただきます。



写真奥に見える大きな建物、これは北京で知らない人は皆無と言ってよいほど有名な“北京同仁
医院”の東院、写真に写っているのはその裏側です。

次の写真が玄関のあるおもて。


(ちなみに、ここは、もと「金朗大酒店」というホテル。今世紀の初めごろに医院が購入、病院施設と
して改造したものです。同仁医院に関しては「北京同仁医院」のホームページを参照、以下同じ)


さて、今回、この小さな胡同を訪れることによって、多くの驚き(収穫)がありました。
その内の主なものを二点書き出してみると以下の通りです。

一つは、この同仁医院の始まりが、清の光緒十二年(1886)に「亜斯立堂)」と同じくアメリカの「衛理
公会(美以美会)」が開いた中国名「同仁医院」という眼科診療所であり、しかも、その診療所の置かれ
た場所が、なんと、今回ご紹介した「曉順胡同」の前身である「孝順胡同」内であったことでした。そ
れまでのわたしには「キリスト教系の病院“北京同仁医院”が初めて開かれたのは、旧使館区の東交民
巷の中だろう」という思い込みがあったのですが、今回の「曉順胡同」訪問がその思い込みをありがた
いことに見事なまでに粉々に打ち砕いてくれました。

二つ目は、あの悪名高きアヘン戦争、より具体的には第二次アヘン戦争(アロー戦争/1856-1858)以
降の北京の変動のあり様の一端をこの目でリアルなかたちで確認することが出来たことでした。

さてさて、この小さな胡同とその周辺の様子は、たとえていえば、まるで西洋渡来のパンの間に中華
料理をはさんだサンドイッチのようなもの。どうやら、これからもこの複雑でデリケートな味わいを
持ち、しかも栄養たっぷりなサンドイッチをじっくりと味わっていく必要がありそうです。

今回訪れた小さな胡同、それは小さくなってしまった胡同でした。


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