北京・胡同窯変

北京。胡同歩きが楽しい。このブログは胡同のあんな事こんな事を拙文と写真で気ままに綴る胡同お散歩日記です。本日も歩きます。

第156回 北京の胡同・春雨二巷(前) 鼻の短くなった象の話

2017-08-31 10:33:15 | 北京・胡同散策
前回ご紹介しました春雨胡同の南端角を東に曲がりますと、そこには東西に走る一本の小胡同が
ありました。春雨胡同と同じく、名前がやはり粋なのです。その名も春雨二巷。





その粋な名前の胡同南側は、北京市政協会議中心というモダンなホテルの裏側。



昔、ここには春雨二巷の南側の家並みが軒を並べていました。



ところで、この胡同はたんにその名が粋なだけではありません。

胡同関係の本を調べてみますと、清の乾隆年間(1735年ー1795年)には、その名も“象鼻子胡同”。つまり、
象の鼻胡同。時代が下って宣統年間(1908年ー1912年)に“象鼻子坑”、あるいは“象鼻子坑胡同”と改名。

これらの胡同名を初めて見た時、その形状が、象の鼻に似ていたのかな?あるいは、象の鼻の形をした池でも
あったのかな?と単純に思ったのですが、わたしの調べた胡同関係の本にはその由来も記されていて、それは、
ここには清朝皇家の象の飼育所があり、そこに象を洗ったり、水浴びさせるための池があったと伝えられてい
る、というもの。

この名前の由来については、出所も分からず、その真偽のほどは分からないものの、わたしには真偽などとい
ったこととは別に実に興味深く、面白く感じられるのです。もう少し書きますと、象という言葉が使われてい
る地域の地域性のようなものに注目すると誠に興味深いのです。

が、そのことについては後ほど再び触れることとし、さらに話しを進めますと、時代が下って民国期の1947年、
象鼻子坑(胡同)が三分割され、象鼻子前坑、中坑、后(後)坑となり、新中国成立後の1965年には前坑と中坑が
合併して春雨一巷に、后坑は春雨二巷と改名されました。なお、前坑と中坑とが合併してできた春雨一巷は現在
はもう残っておらず、その跡地には先にご紹介いたしましたように北京市政協会議中心などが建っております。

ご参考に地図を三枚載せておきましたので、ご興味をお持ちの方はご覧ください。


(青線部が象鼻子胡同。『清北京城街巷胡同図 乾隆十五年
(公元1750年)』。『北京胡同志』より)


(オレンジ色の線部。南から象鼻子前坑、中坑、后坑となってい
るのが分かります。『北平旧城街巷胡同図(1949)』。同上)


(現在の地図。オレンジ色の線部が現在の「春雨二巷」。なお、地図
に載っていないのですが、春雨胡同の左側(西側)には病院が建ってい
ることをお断りしておきます。)


次の写真の左側が現在残っている春雨二巷の北側の家並み。



次の写真のお宅はこの胡同の西端。



春雨二巷。47号。



上のお宅の前を東方向に行きますと・・・







ここは、春雨二巷、45号。



45号と47号のお宅の門牌(住所表示板)の字体が違いますが、ご覧のみなさんはどちらの字体がお好きですか?
ということはさておいて、ここで余談になりますが、時と場合によって便利なこともありますので、住所番号
の配列について少し触れさせていただくと、

たとえば、この春雨二巷のように胡同が東西方向に走っている場合、先の二例をご覧になってもお分かりのよ
うに、番号は東を起点としていて、北側が奇数、南側が偶数となっております。では、南北方向の場合はどう
かといいますと、北を起点として、西側に奇数番号、東側に偶数番号が並んでいます。

それならば、たとえば、東北方面から西南方向に走っていたり、西北方面から東南方向に走っている胡同の場
合は、どうなるの? 百聞は一見に如かず、ということで、ご自分の足で確認していただければこの上なく嬉し
いです。とはいうものの、ヒント:先に挙げましたように胡同が東西方向ならびに南北方向に走っている場合の
番号配列が基本になっております。ええっ?








門牌が見当たりませんが・・・



でも、没問題。ちゃんと写真を撮っておきました。こちらのお宅は、43号。


上の写真を撮った日は、たまたま門扉の修理や外壁の塗装をやっていて、幸いにも関係者の方たちの
お仕事ぶりを拝見することができました。




久しぶりのような気がいたします。
門墩(mendun)がありました。





久しぶりだな、と思っていたら、
こちらの門墩(mendun)、凄いことになっていました。



いったい、どうやったらこういう形にできるのでしょうか。





上の正面の模様について。
四角い穴の開いた古銅銭に帯が通されています。この場合、削られてしまっており、はっきりとはいえません
が、もとはその帯を蝙蝠がくわえていたのではないかと思われます。もし、そうだとするならば、このような
模様を“福在眼前”というそうです。

「古銭に開いた四角い穴を“銭眼” qianyanと言います。蝙蝠はbianfuと言います。fuは“福”、qian
yanは“前眼”です。 そこでこの図柄は「福は目前にある。」の吉祥図なのです。 また、蝙蝠が逆さまに
成っているのは“倒蝙蝠” で、倒=dao=到で、“到蝙蝠=到福”(福が来る)の吉祥図です。」(門墩研
究家岩本公夫さんのWEB版『中国の門墩』より。WEB版『中国の門墩』は、当ブログのブックマークにもあり
ますので、ご興味をお持ちの方は、ぜひご覧ください。)



かつて深い傷を負った門墩をあとにしてさらに進みます。



こちらのお店は、39号。




上の出入口は、お店の勝手口のようです。

下はなぜか山肌のような凹凸のある外壁。





まったく予想していなかったのですが、なかなか趣きのある細道がありました。



次回は、この細い路地内部の様子と胡同の東端まで、そして、先に少し触れました“象”という言葉が使わ
れている地域の地域性といったことについて、やはりかつて北京の宣武門内外に存在した象とかかわりの深
い施設などとからめなからご紹介させていただく予定です。もし、お時間がございましたら、次回もぜひお
付き合いください。



 
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第155回 北京の胡同・春雨胡同 火神廟に春雨は降る。

2017-08-21 10:29:15 | 北京・胡同散策
胡同には、その名前だけを眺めていても楽しくなってしまうものが多数あります。
前回ご紹介した后椅子胡同もその一つですが、ほかにもズバリ、椅子胡同。椅子といえば「美
人靠(びじんこう)」、これは邸宅の周りに設えられた、寄りかかるための外側に傾いた欄干つ
きの椅子ですが、美人で忘れられないのは、何といっても美人胡同(ここは秘密にしておきたか
った)。

白菜や駱駝好きのわたしにはたまらない、白菜湾(これは一巷から五巷まであった)。駱駝湾には
南駱駝湾と北駱駝湾の二本。アルコール好きには、焼酎胡同、その肴に大豆腐胡同をどうぞ。虫
好きには螞螂胡同(螞螂はトンボの一種)。今やすっかり観光地になった門頭溝には、なんと電話
胡同。可愛らしいのは金魚胡同。これはキレイだ! 百花深処、月光胡同、丁香胡同(丁香はライラ
ックで、ディンシャンと読む)に甘雨胡同。雨と言えば、今回ご紹介させていただく“春雨胡同”。
キレイなだけではなく、何度眺めても「粋だなあ」とつくづく思ってしまいます。



まずは、この胡同周りのモダンな環境からご紹介。
胡同沿い西側には、こんな現代的な病院。





南側に広がる風景。



上の写真左側は北京市政協会議中心、右側にもホテル。
なお、かつては写真奥の建物辺りまでが春雨胡同でしたが、現在その面影はまったく残っておりません。

次の写真は、北京市政協会議中心ですが、ちなみに一階にある中華レストランは料理が美味しく、
おすすめです。



もう少し南に行くと中国婦女児童博物館。
写真は南側の正面を撮ったもの。



このように西側と南側にモダンな建物をひかえた春雨胡同ですが、当日は北側の胡同口から
歩きはじめました。



左角にはジュースやアイスクリーム、その他ちょっとした雑貨類を売っている可愛らしいお店。



このお店には、近所にお住まいの方はもちろん、近所にお勤めの方や学校の生徒さんも立ち寄る
ようです。



お店の看板犬。



初めはぐっすりと眠っているのかな?と思ったのですが、カメラを向けると薄目を開けてこちらを
ジーッと見つめているではありませんか。
照れるなぁ、こちらがちょっと恥ずかしくなってしまいました。



お店に通じる宅門。



胡同らしさがキラリと光る。



この日は新たにお化粧中で職人さんたちの姿も撮ることが出来ました。














この春雨胡同、北京にお目見えしたのは今から50年ほど前の1965年でした。もっとも、お目見え
とはいっても、それは地名で、胡同自体はあり、その時の名前は火神廟または火神廟胡同。

もちろんこの地名が火災防止のために建てられた火神廟のあったことに由来していることはいうま
でもありません。しかし、残念ながら肝心の火神廟がいつごろ建てられたものなのか、また建てら
れていた場所の所在などはわたしの調べた範囲では分かりませんでした。しかし、胡同関係の本を
見ますと清の宣統帝の時代には火神廟胡同という地名はすでにあったことは分かります。







ところで、先にこの春雨胡同が1965年以前には火神廟あるいは火神廟胡同と呼ばれていて、その
名前が火神廟の存在に由来していたことを書きましたが、火災を畏れた北京の人々の信仰の対象
であった火神廟に、かつてその存続にかかわる危機が訪れたことがありました。

1928年(民国17年)に北京は北平と改名されますが、同年、国民政府はその政策の一環として神
祠存廃標準を発表しています。これは旧時代の迷信除去を目的としたもので、残す神と廃止する
それとを指示したものでした。ご参考までに道教関係の本によって、道教に関わる神で残すもの
と廃止するものを挙げると次の通りです。

【存続させるもの】
伏羲、神農、黄帝、倉頡、禹、孔子、孟子、岳飛、関帝、土地神、竈神 太上老君、元始天尊、
三官、天師、呂祖、風神雷神など
【廃止すべきもの】
日、月、火、五嶽、四瀆、竜王、城隍、文昌、送子娘娘、財神、瘟神、趙玄壇、狐仙など
(『道教史』窪徳忠著、山川出版社より)

上の【廃止すべきもの】の中に「火」とありますように、火神は除去すべき対象の一つになって
いました。もし、当時の政府の態度が強硬なものであれば、神祠存廃標準が発表された1928年の
数年後には火神廟はもちろん火神廟という言葉が使用された地名は全廃という憂き目にあってい
たわけです。

しかし、実情を見ますと1965年まで火神廟という言葉が使われた地名が残っていること一つだけ
を見ても明らかなように、当時の政府の態度はなぜか徹底したものではありませんでした。窪徳
忠さんによれば、「存廃の標準はいかにも中途半端なうえに、矛盾さえ認められる」ありさまで
した。

断るまでもなく、上の迷信の除去がより徹底されることになるのは新中国成立後のこと。
張清常さんの『胡同及其他 増訂本』(北京語言大学出版社)には新中国成立前まで「火神廟」と
いう言葉が地名として使われていたが、成立後に改名されたものが六ヶ所あったことが書かれて
いました。ご参考までに次にその六ヶ所を挙げ、簡単な説明を付けておきましたので、ご興味を
お持ちの方はご覧ください。

〇前芳嘉園胡同
清の宣統の時、火神廟。民国時もそのままを使用。1965年に現在名となる。
〇煥新胡同
清の光緒の時、火神廟。民国時もそのまま。1949年火神廟胡同。1965年に現在名となる。
〇春雨胡同
清の宣統の時、火神廟(胡同)。1965年に現在名となる。
〇安平巷
明の天啓年間、朝天宮に火災が発生。以後ここに火神廟を建て、火神廟胡同と呼ぶ。1949年
に現在名となる。
〇幸福大街
清の乾隆年間『京城全図』に火神廟街とあり、その後、火神廟大街。1965年に現在名となる。
〇青風夹道
清の光緒時には、火神廟夹道。1965年に現在名となる。

なお、これは余談ですが、民国初期発行の『北京内外城詳図』という地図(複製版)には、火神廟
(現在の春雨胡同)のすぐ西側には大土地廟、小土地廟、南西側には娘娘廟胡同という記載があり、
しかも寺廟の存在を示す「卍」マークが書かれています。今の言葉でいえば、この界隈はパワー
スポットが集まっていた場所であったわけです。







バネ仕掛けで自動的に閉まるドア。


手近に今ある物を使う。胡同流の一例だ。手作り感がいい。

突然、塀の上に現れたネコ。







この胡同の南端まで残りわずかとなりました。

さて、地名にはその地域の歴史や文化が息づいており、地域住民たちの生活の一部になっている
ことは言うまでもありません。ですから、改名にあたっては慎重な態度で臨まなければならない
のは当然ですが、ここで、この胡同の地名改名にあたって、なぜ「春雨」という言葉が選ばれた
のかという点について触れておきたいと思います。

結論を先に書きますと、今回わたしの調べた限りでは残念ながらその理由は分かりませんでした。
もちろん、火神廟という、いかにも旧い時代のイメージをたっぷり身におびた地名を一新するこ
とがその目的であったことはまちがいないものの、他の言葉ではなく、なぜ「春雨」という言葉
なのかという段になると分からない、行き詰ってしまうのです。

しかし、そんなわたしにも分かっていることが一つあります。北京の冬は耳が千切れてしまうん
じゃないかと思うほど寒く、そのうえ降水量が実に少ない。北京には「冬枯れ」「冬枯れた大地」
という言葉のなんと似合うことか。そんな冬枯れた大地をよみがえらせ、植物たちの成長をうなが
し、やがて稔りをもたらす春雨。中国には「春雨貴如油」という言葉があります。日本語では「春
雨は油のように貴い」ということですが、まさしく春雨は貴重な雨なのです。ひょっとして春雨胡
同の「春雨」にはそんな意味が込められているのではないか。そうわたしには思えて仕方がないの
です。

住民の方がご自宅に入って行かれました。



閉められたドアには福の字。









迷いネコのために住民の方が設えたエサ箱。そのエサ箱でネコがエサを食べていました。
単にその名前だけではなく、住民の方たちの心持ちも粋(いき)なのです。





春雨胡同。お気に入りの一本です。


 
 
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第154回 北京の胡同・后椅子胡同(後) その名前がおもしろいので歩いてみました。

2017-08-14 10:26:17 | 北京・胡同散策
前回は胡同の西入口から国家旅游局の塀沿いにある運動器具や塀の上に見かけた、七夕の夜、
牽牛、織姫の逢瀬のために、その翼で橋をつくるといわれる鵲(かささぎ)などをご紹介いた
しました。





今回は、物理学者厳済慈さんが住んでいたのではないかと思われるご自宅沿いの
家並みから東端までと、ほんの少し“頂銀胡同”をご紹介させていただきます。

垂花門沿いに並ぶクルマ。



その奥には、わたし好みの曰くいいがたい味のあるタイル張りの公共トイレ。



そうして、トイレの前には、なんと木製の電信柱。
「胡同は、こうでなくっちゃ!!」



木製電信柱の堪能後には、「福」の字の貼られた玄関のお宅。





お宅の前には、ささやかな植え込みが。



そしてその脇には、現代的なビルをすぐ間近にひかえていながら、
「やはりここは胡同なのだ」
と実感させてくださったお宅がありました。





春聯の貼られた宅門、





その脇にしつらえられた胡同植物園(いやいや、胡同菜園と呼ぶべきか)が小憎らしい。



菜園越しには、ニョキニョキっと生えた二本の煙突。





菜園の前辺りから胡同東方向。





春聯が「これでもか」と言わんばかりに貼られた玄関。



よくよく見ると金文字に混じって可愛らしい子供の絵が描かれています。



少し先には二層で、屋上に物干し場のあるお宅。







その隣の玄関脇には一対の獅子が鎮座しておりました。



小さいながらも迫力満点なお顔。





またまた胡同菜園。



渇き癒えぬ都会の中の菜園、それは、たとえどんなにささやかであっても大きなオアシスと
なっているのかもしれません。



愛嬌のあるヘチマが飄然とぶらさがっておりました。



菜園と言えば、このお宅の前にも金網で囲まれた菜園が。





この菜園が東端の曲り角まで続いておりました。





ちなみに、唐三彩の馬の置き物までありました。もちろん、レプリカでしょうが。



どうやらこの辺りまでが現在の「后椅子胡同」のようです。

東端の菜園のすぐ前の街灯。



ただし、東端角のお宅を見ますと幸いにもちゃんと住所表示がなされており、そこには
しっかり「頂銀胡同」と書かれていました。この角のお宅が后椅子胡同と頂銀胡同との
境と考えてよろしいようです。





西側には天潤財富中心、南側には国家旅游局などの現代的ビルが建ち、人家もいたって少なくなって
しまった現在の后椅子胡同。しかし、まだまだ胡同らしさが息づいていて、今回歩いてみて、その名
前とともにわたしにとって忘れることのできない貴重な胡同の一本になりました。
1947年にこの胡同名が北京に出現したことは前回書きましたが、后椅子胡同はその後70年間、この
界隈の人々と街の変化を見続けてきたのです。

さて、上のお宅の写真を撮っていると、目の前を自転車が通り過ぎていきました。



わたしも自転車に誘われるように北の方角に歩いていくと、



前方に掃き掃除にいそしむ一人の男性。



頂銀胡同に居住する方で、お名前はLさん。
そのLさんの口から、胡同を歩く者としてまったく予想していなかったというわけではなかった
のですが、日本人のわたしにとってはちょっと衝撃的でたいへん貴重なお話を伺うことができま
した。その辺のことにつきましては回を改めてご報告させていただきます。


 
 
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第153回 北京の胡同・后椅子胡同 (前) その名前がおもしろいので歩いてみました。

2017-08-07 10:25:26 | 北京・胡同散策
北京の地図や胡同関係の本で“后(後)椅子胡同”という名の胡同を見つけました。
場所は建国門内大街沿いの北京国際飯店や国家旅游局の北側です。
前にご紹介した「小椅子圏胡同」もそうでしたが、今回もその名前に興味をそそられ
歩いてみました。歩いたのは本年5月の初め。


この胡同にはその入口に琺瑯びきの表示板がありません。しかも胡同西側入口の両側には現代的な
建物が建っていて、思わずここが本当に后(後)椅子胡同なのかとちょっと不安になったりしました。

ご参考までに地図をご覧ください。オレンジ色の矢印の部分が后(後)椅子胡同です。



次の写真は朝陽門南小街にある西側入口から東方向を撮ったもの。



右側の木立ちの向こう側には中国国家旅游局、その東側には旅游局招待所。



左側には天潤財富中心というビルが建っています。



歩いた時期が時期なので、まだ春の花が咲いていました。





少し進むと、



右手に国家旅游局、旅游局招待所という看板。先ほども書きましたように、ここが后椅子胡同かどうか
ちょっと不安もあったので、あえて確認の意味で旅游局の方に訊ねてみました。



ニコニコしながら「そうですよ」という言葉を聞いたときにはホッとしました。しかし、後述するように
后椅子胡同というのは通称で、現在ここは公式には建国門内大街という住所なのではないかと思われます。

旅游局の駐車場。
写真では分からないかもしれませんが、入口には建国門内大街甲9号という住所表示がありました。
やはり、今はもう后椅子胡同という名称は通称でしかないのかもしれません。



写真奥に見える白い建物は北京国際飯店。



ところで、国家旅游局や天潤富財中心、そして北京国際飯店などの現代的な建物を見ていると
想像することもできないのですが、胡同関係の本によりますと明や清の時代にはこの辺り一帯は
草場(草廠)、日本語で牧草地であったそうです。画像が不鮮明ですが、たとえば『北京胡同志』
所収の明の時代の復元地図を見ますと次の通りです。




左手に「垂花門」のお宅があり、胡同らしくなってきました。









玄関脇に木枠がありますが、ここにはおそらく住所の書かれたプレートが取り付けられていたのでは
ないかと思われます。『北京胡同志』の「后椅子胡同」の項にはこの胡同には物理学者の厳済慈さん
(1901年1月ー1996年11月)が住んでいたこと、その住所が「10号」であることが書かれていました。
住所表示板がないので明言はできませんが、ひょっとしてこの垂花門のお宅がかつて厳済慈さんが住
んでいらっしゃったことのあるご自宅ではないかと思われます。









この垂花門の前の風景。聳える北京国際飯店。


北京国際飯店は1980年代十大建築の一つとして1987年に開業したホテルですが、このホテル開業の
およそ30年ほど前の1958年頃まで、后椅子胡同の南側には「前椅子胡同」「中椅子胡同」という二本
の胡同がありました。胡同関係の本によりますと、1958年、現在朝陽区の北辰東路にあります「中国
科学技術館」の前身となる科学技術館、略して科技館の建設計画のため上の二本の胡同は壊されてしま
ったそうです。かつてこの一帯には南から「前椅子胡同」「中椅子胡同」「后椅子胡同」という、椅子
という言葉を使った味わい深い三本の胡同があったわけですが、その三本のうち家並みやその形を変え
ながらも「后椅子胡同」だけが現在に残ったわけです。なお、「后椅子胡同」とい名称が北京に出現す
るのは1947年(民国36年)のことでした。

ご参考に「前椅子胡同」「中椅子胡同」「后椅子胡同」が記録されている地図を次に載せておきました。
興味をお持ちの方はご覧ください。地図は、やはり『北京胡同志』に付されている復元地図を拝借しま
した。

〇「北京旧城街巷胡同図」(1949年)より


この地図は「前椅子胡同」「中椅子胡同」「后椅子胡同」が出来てからほぼ2年後のもの。
かつてこの辺り一帯が「草場(草廠)」であったことの名残りを示す「草廠胡同」「草廠小門」
「草廠大坑」という地名を見ることができます。ちなみに左に見える「方巾巷」という通りは
現在の「朝陽門南小街」。現在の「后椅子胡同」は朝陽門南小街につながっていますが、この
当時はつながっていないことが分かります。

〇「北京旧城街巷胡同図」(1990年)より


「北京国際飯店」の開業が1987年ですから、この時にはすでに「前椅子胡同」や「中椅子胡同」
は取り壊されており、この地図には当然記されておりません。

〇「北京旧城街巷胡同図」(2003年)より


この地図でも「后椅子胡同」は「朝陽門南小街」とはつながっておりません。それならば、
つながったのは何時ごろなのか? 直前の地図でもお分かりのように、それが2003年以降で
あることは間違いないのですが、確かな資料を手に入れることが出来ず残念なのですが、
わたしの憶測で恐縮ですが、2003年から2007年にかけての間ではなかったかと考えていま
す。この点については今後さらに調べてみたいと思っています。


さて、国家旅游局沿いには、市民の健康増進のための運動器具が十数台、ほどよい間隔で置かれていました。







ここで少しばかり運動器具ショウをご覧くださいませ。













と、いうわけなのですが、
直前の器具を見ていて、「ちょっと昼寝でも」という思いが頭をよぎったので、大人げなくさっそく
鉄柵をまたぎ越えようとしていると、タイミング悪くわたしの後ろを数人の男女が通り過ぎていきま
した。



撮影後、体勢をもとに戻すと、きっとこの辺りに巣があるのでしょう、旅游局沿いの塀の上
には一羽の綺麗な鵲(かささぎ)がとまっていました。今しがた通り過ぎていった男女の制服が
この鳥に似ているのが、ちょっと可笑しかった。





 
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