前回ご紹介しました春雨胡同の南端角を東に曲がりますと、そこには東西に走る一本の小胡同が
ありました。春雨胡同と同じく、名前がやはり粋なのです。その名も春雨二巷。
その粋な名前の胡同南側は、北京市政協会議中心というモダンなホテルの裏側。
昔、ここには春雨二巷の南側の家並みが軒を並べていました。
ところで、この胡同はたんにその名が粋なだけではありません。
胡同関係の本を調べてみますと、清の乾隆年間(1735年ー1795年)には、その名も“象鼻子胡同”。つまり、
象の鼻胡同。時代が下って宣統年間(1908年ー1912年)に“象鼻子坑”、あるいは“象鼻子坑胡同”と改名。
これらの胡同名を初めて見た時、その形状が、象の鼻に似ていたのかな?あるいは、象の鼻の形をした池でも
あったのかな?と単純に思ったのですが、わたしの調べた胡同関係の本にはその由来も記されていて、それは、
ここには清朝皇家の象の飼育所があり、そこに象を洗ったり、水浴びさせるための池があったと伝えられてい
る、というもの。
この名前の由来については、出所も分からず、その真偽のほどは分からないものの、わたしには真偽などとい
ったこととは別に実に興味深く、面白く感じられるのです。もう少し書きますと、象という言葉が使われてい
る地域の地域性のようなものに注目すると誠に興味深いのです。
が、そのことについては後ほど再び触れることとし、さらに話しを進めますと、時代が下って民国期の1947年、
象鼻子坑(胡同)が三分割され、象鼻子前坑、中坑、后(後)坑となり、新中国成立後の1965年には前坑と中坑が
合併して春雨一巷に、后坑は春雨二巷と改名されました。なお、前坑と中坑とが合併してできた春雨一巷は現在
はもう残っておらず、その跡地には先にご紹介いたしましたように北京市政協会議中心などが建っております。
ご参考に地図を三枚載せておきましたので、ご興味をお持ちの方はご覧ください。
(青線部が象鼻子胡同。『清北京城街巷胡同図 乾隆十五年
(公元1750年)』。『北京胡同志』より)
(オレンジ色の線部。南から象鼻子前坑、中坑、后坑となってい
るのが分かります。『北平旧城街巷胡同図(1949)』。同上)
(現在の地図。オレンジ色の線部が現在の「春雨二巷」。なお、地図
に載っていないのですが、春雨胡同の左側(西側)には病院が建ってい
ることをお断りしておきます。)
次の写真の左側が現在残っている春雨二巷の北側の家並み。
次の写真のお宅はこの胡同の西端。
春雨二巷。47号。
上のお宅の前を東方向に行きますと・・・
ここは、春雨二巷、45号。
45号と47号のお宅の門牌(住所表示板)の字体が違いますが、ご覧のみなさんはどちらの字体がお好きですか?
ということはさておいて、ここで余談になりますが、時と場合によって便利なこともありますので、住所番号
の配列について少し触れさせていただくと、
たとえば、この春雨二巷のように胡同が東西方向に走っている場合、先の二例をご覧になってもお分かりのよ
うに、番号は東を起点としていて、北側が奇数、南側が偶数となっております。では、南北方向の場合はどう
かといいますと、北を起点として、西側に奇数番号、東側に偶数番号が並んでいます。
それならば、たとえば、東北方面から西南方向に走っていたり、西北方面から東南方向に走っている胡同の場
合は、どうなるの? 百聞は一見に如かず、ということで、ご自分の足で確認していただければこの上なく嬉し
いです。とはいうものの、ヒント:先に挙げましたように胡同が東西方向ならびに南北方向に走っている場合の
番号配列が基本になっております。ええっ?
門牌が見当たりませんが・・・
でも、没問題。ちゃんと写真を撮っておきました。こちらのお宅は、43号。
上の写真を撮った日は、たまたま門扉の修理や外壁の塗装をやっていて、幸いにも関係者の方たちの
お仕事ぶりを拝見することができました。
久しぶりのような気がいたします。
門墩(mendun)がありました。
久しぶりだな、と思っていたら、
こちらの門墩(mendun)、凄いことになっていました。
いったい、どうやったらこういう形にできるのでしょうか。
上の正面の模様について。
四角い穴の開いた古銅銭に帯が通されています。この場合、削られてしまっており、はっきりとはいえません
が、もとはその帯を蝙蝠がくわえていたのではないかと思われます。もし、そうだとするならば、このような
模様を“福在眼前”というそうです。
「古銭に開いた四角い穴を“銭眼” qianyanと言います。蝙蝠はbianfuと言います。fuは“福”、qian
yanは“前眼”です。 そこでこの図柄は「福は目前にある。」の吉祥図なのです。 また、蝙蝠が逆さまに
成っているのは“倒蝙蝠” で、倒=dao=到で、“到蝙蝠=到福”(福が来る)の吉祥図です。」(門墩研
究家岩本公夫さんのWEB版『中国の門墩』より。WEB版『中国の門墩』は、当ブログのブックマークにもあり
ますので、ご興味をお持ちの方は、ぜひご覧ください。)
かつて深い傷を負った門墩をあとにしてさらに進みます。
こちらのお店は、39号。
上の出入口は、お店の勝手口のようです。
下はなぜか山肌のような凹凸のある外壁。
まったく予想していなかったのですが、なかなか趣きのある細道がありました。
次回は、この細い路地内部の様子と胡同の東端まで、そして、先に少し触れました“象”という言葉が使わ
れている地域の地域性といったことについて、やはりかつて北京の宣武門内外に存在した象とかかわりの深
い施設などとからめなからご紹介させていただく予定です。もし、お時間がございましたら、次回もぜひお
付き合いください。
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ありました。春雨胡同と同じく、名前がやはり粋なのです。その名も春雨二巷。
その粋な名前の胡同南側は、北京市政協会議中心というモダンなホテルの裏側。
昔、ここには春雨二巷の南側の家並みが軒を並べていました。
ところで、この胡同はたんにその名が粋なだけではありません。
胡同関係の本を調べてみますと、清の乾隆年間(1735年ー1795年)には、その名も“象鼻子胡同”。つまり、
象の鼻胡同。時代が下って宣統年間(1908年ー1912年)に“象鼻子坑”、あるいは“象鼻子坑胡同”と改名。
これらの胡同名を初めて見た時、その形状が、象の鼻に似ていたのかな?あるいは、象の鼻の形をした池でも
あったのかな?と単純に思ったのですが、わたしの調べた胡同関係の本にはその由来も記されていて、それは、
ここには清朝皇家の象の飼育所があり、そこに象を洗ったり、水浴びさせるための池があったと伝えられてい
る、というもの。
この名前の由来については、出所も分からず、その真偽のほどは分からないものの、わたしには真偽などとい
ったこととは別に実に興味深く、面白く感じられるのです。もう少し書きますと、象という言葉が使われてい
る地域の地域性のようなものに注目すると誠に興味深いのです。
が、そのことについては後ほど再び触れることとし、さらに話しを進めますと、時代が下って民国期の1947年、
象鼻子坑(胡同)が三分割され、象鼻子前坑、中坑、后(後)坑となり、新中国成立後の1965年には前坑と中坑が
合併して春雨一巷に、后坑は春雨二巷と改名されました。なお、前坑と中坑とが合併してできた春雨一巷は現在
はもう残っておらず、その跡地には先にご紹介いたしましたように北京市政協会議中心などが建っております。
ご参考に地図を三枚載せておきましたので、ご興味をお持ちの方はご覧ください。
(青線部が象鼻子胡同。『清北京城街巷胡同図 乾隆十五年
(公元1750年)』。『北京胡同志』より)
(オレンジ色の線部。南から象鼻子前坑、中坑、后坑となってい
るのが分かります。『北平旧城街巷胡同図(1949)』。同上)
(現在の地図。オレンジ色の線部が現在の「春雨二巷」。なお、地図
に載っていないのですが、春雨胡同の左側(西側)には病院が建ってい
ることをお断りしておきます。)
次の写真の左側が現在残っている春雨二巷の北側の家並み。
次の写真のお宅はこの胡同の西端。
春雨二巷。47号。
上のお宅の前を東方向に行きますと・・・
ここは、春雨二巷、45号。
45号と47号のお宅の門牌(住所表示板)の字体が違いますが、ご覧のみなさんはどちらの字体がお好きですか?
ということはさておいて、ここで余談になりますが、時と場合によって便利なこともありますので、住所番号
の配列について少し触れさせていただくと、
たとえば、この春雨二巷のように胡同が東西方向に走っている場合、先の二例をご覧になってもお分かりのよ
うに、番号は東を起点としていて、北側が奇数、南側が偶数となっております。では、南北方向の場合はどう
かといいますと、北を起点として、西側に奇数番号、東側に偶数番号が並んでいます。
それならば、たとえば、東北方面から西南方向に走っていたり、西北方面から東南方向に走っている胡同の場
合は、どうなるの? 百聞は一見に如かず、ということで、ご自分の足で確認していただければこの上なく嬉し
いです。とはいうものの、ヒント:先に挙げましたように胡同が東西方向ならびに南北方向に走っている場合の
番号配列が基本になっております。ええっ?
門牌が見当たりませんが・・・
でも、没問題。ちゃんと写真を撮っておきました。こちらのお宅は、43号。
上の写真を撮った日は、たまたま門扉の修理や外壁の塗装をやっていて、幸いにも関係者の方たちの
お仕事ぶりを拝見することができました。
久しぶりのような気がいたします。
門墩(mendun)がありました。
久しぶりだな、と思っていたら、
こちらの門墩(mendun)、凄いことになっていました。
いったい、どうやったらこういう形にできるのでしょうか。
上の正面の模様について。
四角い穴の開いた古銅銭に帯が通されています。この場合、削られてしまっており、はっきりとはいえません
が、もとはその帯を蝙蝠がくわえていたのではないかと思われます。もし、そうだとするならば、このような
模様を“福在眼前”というそうです。
「古銭に開いた四角い穴を“銭眼” qianyanと言います。蝙蝠はbianfuと言います。fuは“福”、qian
yanは“前眼”です。 そこでこの図柄は「福は目前にある。」の吉祥図なのです。 また、蝙蝠が逆さまに
成っているのは“倒蝙蝠” で、倒=dao=到で、“到蝙蝠=到福”(福が来る)の吉祥図です。」(門墩研
究家岩本公夫さんのWEB版『中国の門墩』より。WEB版『中国の門墩』は、当ブログのブックマークにもあり
ますので、ご興味をお持ちの方は、ぜひご覧ください。)
かつて深い傷を負った門墩をあとにしてさらに進みます。
こちらのお店は、39号。
上の出入口は、お店の勝手口のようです。
下はなぜか山肌のような凹凸のある外壁。
まったく予想していなかったのですが、なかなか趣きのある細道がありました。
次回は、この細い路地内部の様子と胡同の東端まで、そして、先に少し触れました“象”という言葉が使わ
れている地域の地域性といったことについて、やはりかつて北京の宣武門内外に存在した象とかかわりの深
い施設などとからめなからご紹介させていただく予定です。もし、お時間がございましたら、次回もぜひお
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