北京・胡同窯変

北京。胡同歩きが楽しい。このブログは胡同のあんな事こんな事を拙文と写真で気ままに綴る胡同お散歩日記です。本日も歩きます。

第227回 北京・西裱褙胡同 明代ロマンチズムと地名の名残り“于謙祠”

2019-05-20 10:02:45 | 北京・胡同散策
明の時代、表背胡同(BiaobeiHutong/ビアオベイフートン)という、西は崇文門内
大街から東は現在も残る古観象台の北側まで走る一本の胡同がありました。

地図を見ると、現在の崇文門内大街が当時は「崇文門里街」と呼ばれていたことが
わかります。古観象台とは、現在の天文観測所に該当。


地図は、『北京胡同志』(主編段柄仁、北京出版社所収「明北京城街巷胡同図
万暦ー崇禎年間 公元1573ー1644年」)を使用。

表背(のち裱褙)業者(日本語では表具師)が多くいたというのが地名の由来。当時の官吏
登用試験「科挙」の試験場「貢院」が近く、書画を売買する人が多かったというのが、表
具師の多かった理由なのだそうです。

ところで、昆曲(昆劇)ファンにはおなじみの『牡丹亭』ですが、その作者、湯顕祖がこ
の胡同に一時仮住まいしていたそうで、ここはなんともロマンチズムの香気漂う場所なの
です。

湯顕祖《とうけんそ。1550年(嘉靖29年)ー1616年(万暦44年)》は、江西臨川の出身で、
万暦11年(1583年)の進士。明代劇作家の第一人者と目され、『牡丹亭』(『還魂記』と
も)はその代表作。

江蘇南京や浙江遂昌などで官途についたのち、江西臨川沙井巷(させいこう)の清遠楼玉
茗堂に隠棲し、演劇、詩文を執筆。『牡丹亭(ぼたんてい)』『紫钗記(しさいき)』『邯
鄲記(かんたんき)』『南柯記(なんかき)』を合わせて《玉茗堂四夢》または《臨川四夢》
と呼ばれているそうです。

ちなみに、彼は、26歳の時に第一詩集『紅泉郵草』、翌年第二詩集『雍藻(ようそう)』
(散逸)を刊行し、さらに詩賦集『問棘郵草(もんよくゆうそう)』を刊行。若い頃に陽明
学に親しみ、引退後は思想家李卓吾とも交際があったとか。

〇『牡丹亭』の内容

南安太守杜宝(とほう)の娘杜麗娘(とれいよう)が夢の中で書生の柳夢梅(りゅうぼうばい)
と密会し、彼を思うあまり病いの床に伏して、自画像を形見に残す。嶺南の秀才柳夢梅は
たまたまその杜麗娘の自画像を入手し、夢で彼女の魂と密会する。のち杜麗娘は蘇生し、
2人は結ばれて夫婦となり、さらに曲折を経て幸福な結末を迎える。
(以上、参照、引用は、『中国文学史・明清近代』主編張俊、北京師範大学出版社、『中
国歴史文化事典』主編孟慶遠、訳小島晋治、立間祥介、丸山松幸、新潮社など)


この表背胡同、次の清の時代になると表記が変わり「裱褙胡同」。


地図は、『北京胡同志』(主編段柄仁、北京出版社所収「清北京城街巷胡同図
乾隆十五年 公元1750年」)を使用。

裱褙胡同と表記されていた時代、具体的には1903年(光緒29年)、この胡同内に言語
学者王照によって「官話字母義塾」が設立され、「字母拼音官話書」が出版されまし
た。

王照さん《1859年(咸豊9年)-1933年(民国22年)》は、康有為らの変法運動失敗後日本
に渡り、帰国後日本語の仮名にならって官話字母を作るなど、近代漢語拼音(ピンイン)字
母研究に尽力した言語改革運動の先駆者。

続いて、清の最後の皇帝宣統帝の時代(1908年ー12年)になると、この胡同は東と西に
分かれ、その状態のまま次の民国期に。


『最新北京市街地図』(東京アトラス社編纂、昭和十三年四月五日発行、複製)を使用。

「西裱褙胡同」と改名されたこの胡同には、梅蘭芳の芸に手を加え、その芸を世界に
認めさせることになる劇作家、演劇理論家の斉如山《1875年ー1962年》さんが住んで
いたことがありました。住所は、西裱褙胡同31号。

日本関係のことを書きますと、日本占領下(1937年ー1945年)の「西裱褙胡同」には、
喫茶店と食堂を兼ねた日系のお店や組合がありました。

名称は、「大国」
住所は、西裱褙胡同三八

喫茶店と食堂を兼ねている状況について、『北京案内記』(昭和十六年一月発行、新民
印書館)の記者は次のように書いています。
「北京の喫茶店は東京のそれの様にお茶を呑ませて閑談とする様なところは
極く少ない。殆んど喫茶店であり食堂でもあるのは現地的特質と云つてよい。」

組合の名称は、「北京日本料理店組合」
住所は、西裱褙胡同四六

そうして、1990年頃から2000年代の初めにかけて、裱褙胡同は東西ともに北京の胡同
から姿を消えてしまい、その代わり現在は現代的なビルが立ち並んでいます。

ところで、それらビルの谷間に“于謙祠”があるのをご存知の方は意外と少ないのでは
ないでしょうか。





于謙《1398年(洪武31年)-1457年(天順元年)》は、銭塘(浙江杭州)の出身で、明の
時代、モンゴル軍の攻撃から北京城を守った人。




銭塘(杭州)の故居の紹介がありました。浙江省杭州にも于謙祠があるということなので、
杭州にお出かけの際には、ぜひお立ち寄りください。


于謙さんは、山西、河南地方で巡撫をしていたこともあり、黄河治水工事に
あたったこともあったそうです。上の写真は、鎮河鉄犀の写真。

鎮河鉄犀が展示されていました。


展示されているのは、レプリカだと思うのですが、仮にそうだとしても
気しない、気にしない。

可愛らしい顔なので、アップ。



火銃も展示されています。




説明書に「レプリカ」と明記されていますが、これも気にしない、気にしない。

敷地内に建物は4、5棟あるのですが、展示室は現在三室。門を入ってすぐの建物の一階、二階、
そして裏に一室。


写真は、裏側の展示室と二階に行く階段。

于謙さんや当時の時代状況を知ることができ、充実した時間を過ごすことが出来ました。
近くに出かけた際には、再訪したい建物です。

〇于謙について

1449年(正統14年)、モンゴルのオイラート(瓦刺)の首領エセン(也先)が侵攻。正統帝
英宗は当時権力をほしいままにしていたといわれる王振の勧めで親征するのですが、土
木堡(河北省懐柔県)で大敗を喫し、明軍は玉砕、肝心の皇帝英宗は捕虜になってしまう
という大失態を演じてしまいました。

この敗報が北京に伝わると明廷は騒然となり、危機感に包まれた朝廷には、南京遷都を唱
える者もいたものの、于謙は北京籠城を主張。于謙の意見によって北京籠城と決まり、皇
太后の令旨により、英宗の弟郕(せい)王を帝位につけ、于謙は残された軍隊によって北京
城を死守、北京城を包囲したエセンの兵を一歩も城内に入れなかったそうです。

1450年(景泰元年)、エセンは和を願い、英宗を返還。英宗は帰還後、上皇となるのですが、
紫禁城の東南にある南宮に幽閉され、不遇をかこつ身となってしまいます。

1457年(景泰8年)、クーデターが勃発。それは、将軍石亨(せきこう)、官僚徐有貞(じょゆ
うてい)、宦官曹吉祥(そうきっしょう)らが景泰帝の病いに乗じ、英宗を皇帝に復位させる
というもの。その時、景泰帝を擁立した于謙は北京城を敵から守った名臣であったにもかか
わらず、反逆罪のかどで逮捕され、死刑に処せられてしまいました。当時の重罪人の通例と
して、妻子は辺地に流され、財産は没収。清貧に甘んじていた于謙の財産は、景泰帝から賜っ
たもののほか、家財らしいものはなにもなかったそうです。

英宗没後、皇太子見深(けんしん、憲宗成化帝)が位をつぎ、この時代に于謙は復権をはたし
ています。


昔、西裱褙胡同のあったあたりは、現在、住所は建国門内大街。しかし、“于謙祠”の
住所名は、西裱褙胡同となっています。門牌号は23号。

今から570年ほど前に于謙が北京城を守ったように、やはり于謙さんが西裱褙胡同と
いう地名を守ってくれているのかもしれませんね。



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1 コメント

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どこのドイツ (ガーゴイル)
2022-01-24 13:57:26
胡同と風敦は別である。
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