北京・胡同窯変

北京。胡同歩きが楽しい。このブログは胡同のあんな事こんな事を拙文と写真で気ままに綴る胡同お散歩日記です。本日も歩きます。

第202回 北京・治国胡同(後)ここにも三元庵という名のお寺があった!?

2018-08-30 10:32:33 | 北京・胡同散策
次の写真奥を横切る道は、やはり治国胡同の一部。



右手方向に行くと、ガソリンスタンドの看板。



今回は、このガソリンスタンドの看板の見える方向とは反対方向を歩き、つづけて
ガソリンスタンドの見える方向に歩みをすすめてみたいと思います。



さて、うえの写真奥にバスが見えますが、
ここは自動車がひっきりなしに往来する北京駅西街。


北京駅西街沿いを少し行くと、



「好利興旺食品店」というお店がありました。



このお店の前を通り過ぎると、右手に青空の下で食事ができる食堂、左手に一般住宅が姿を
あらわしました。



一般住宅は、二軒の玄関が並んでいました。


手前が、治国胡同9号、奥が11号。(この二軒斜め前に写っているのは、
違法なため取り壊された家屋跡かもしれません。)


ここでは、奥の11号の玄関まわりをご紹介させていただきます。





住宅内部を外部から隠すとともに魔除けの機能をもつといわれる影壁。



(「影壁」の種類について少し触れています。ご興味をお持ちの方は、
『第115回 通州・頭条胡同(その五)影壁と“鳩の家”』をご覧ください。)

具体的にいつごろ貼られたものかは不明なのですが、玄関上部に「五好家庭大院」と
書かれたプレートがありました。



「五好家庭」って何かな?
調べてみました。

「五好家庭」は、1950年代から提唱された家庭のあり方。
「五好」の内容は時代によって違いがあるようです。

ここでは、ご参考までに次の五つの項目を挙げておきました。
これら五つの条件を満たしていると「五好家庭」と呼ばれる資格あり、ということになる
ようです。(詳しくは、中国のオンライン百科《360百科》「五好家庭」をご覧ください)

1、爱国守法,热(熱)心公益。

2、学习(習)进(進)步,爱岗(崗)敬业(業)。
   〇「愛崗」とは、職場、持ち場を愛する。

3、男女平等,尊老爱幼。

4、移风易俗,少生优(優)育。
   〇「移風易俗」とは、旧い風俗習慣を改める。

5、夫妻和睦,邻(隣)里团结。
   〇「邻里」とは、隣近所、町内。


「五好家庭大院」と書かれたプレートから下に目を移すと門墩(mendun)。

正面。



側面。



上部。



より新しきもの、「五好家庭」と書かれたプレートとより旧きもの、門墩(mendun)とが
二つながらに同じ玄関上にその姿を人目にさらしているのが、興味深い。

9号院と11号院から移動して、「平和餐館/家常菜」と書かれた看板のある屋外食堂
を拝見。



昼食の時間は過ぎていたのですが、飲食しているお客さんたちがいらっしゃった。
その様子から察すると、皆さん旅行者のようです。

上のお店の前の、こぢんまりとしたブドウ棚が印象的でした。



ブドウ棚には、可愛らしい虫篭がふたつ。



近寄ってみると、虫籠のなかには、キリギリスがいました。
中国語で蝈蝈児(guoguor/グオグオアル)。文字化けした場合を想定して書きますと、
「guo」は「虫偏」に「国」。この漢字を二回くりかえします。



近寄ってカメラを向けると、驚かせてしまったためかも知れないのですが、きれいな声を
きかせてくれました。

今でもそうかもしれませんが、昔の胡同っ子たちは、この蝈蝈児の声をことのほかいつく
しんだそうです。そのことを想い起こすと感慨深いものがありました。


虫籠を後に、ガソリンスタンドの看板の見えるところにひきかえします。





左手すぐの所は、北京駅西街という自動車の往来の激しい大通りなのですが、この道に
一歩足を踏み入れると、胡同独特の静かな世界がひろがっています。

道沿いに二軒の飲食店がありました。



手前のお店は、昼食時間も過ぎ、手の空いた時間に夕飯に訪れるお客のための準備中。

奥のもう一軒のお店は、お客さんがまだいらっしゃるので営業中でした。





メニューを拝見。



料理数、ビールと米飯をぬかして、三十一種類。
小さなお店なのに数が多い。

店内は狭いので、店の対面に置かれたテーブルで食します。
当日は、ご近所さんかな、と思われる五人ほどの酔客が陣取っておりました。

次回訪れた時に試してみたいのは、

肉炒韮菜(ニラ肉炒め) 16元(1元≒16.5円)。
ビール(6元)。

ちなみに、水餃子500gで30元。

上の飲食店を過ぎ、まっすぐに進みます。



いい雰囲気の曲り角。









上の写真、少し行くと左方向にウサギ小屋。
飼い主さんがエサをやっていました。





その対面の家の玄関脇では、椅子の上でネコがお昼寝中。





近づいても、まったく目を覚ましません。



ぐっすり寝込んでしまっているのか、はたまた、普段、ネコを虐待するような人がいないので
警戒心がまったくないネコなのか。


ウサギ小屋とお昼寝中のネコの前辺りから見た西方向。
直進方向と左手方向に、道が二手に分かれています。



正面、公共トイレの外壁に「治国招待所」と書かれた看板。



この看板を撮っていると、鳥籠を提げた男性が目の前に姿をあらわしました。
そこで、鳥籠と小鳥の写真を一枚。



鳥籠を提げて、颯爽と歩く愛鳥家。



この愛鳥家の歩みの方向に前にご覧いただいた「治国招待所」はあります。
具体的にはトイレのすぐ隣。



「治国招待所」の住所は、治国胡同10号。



この辺りまでが治国胡同で、この先は違う胡同名になります。

そこで、西方向に直進です。



上の写真に女性がお二人写っています。
このお二人は観光旅行者。

宿泊施設をお探しのようですが、どの施設も満室、あるいは料金などで旅館側と
折り合いがつかないからか、なかなか落ち着き場所が見つからないご様子でした。

どうやら、女性二人の前の施設に宿泊することに決まったようです。

次の写真がその宿泊施設。





「有房」と書かれた札がさがっているのですが、なぜかここには宿泊施設であることを示す看板が
いっさい出ていなかったのが印象的でした。

この「有房」の札の前を通り過ぎていきますと、







前回ご覧いただいた「烟酒超市」です。





やはり前回ご覧いただいたお粥屋さん。



こうして無事に治国胡同の歩き始めのスタート地点にもどってきたというわけなのです。




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第201回 北京・治国胡同(前) ここにも三元庵という名のお寺があった!?

2018-08-22 15:42:38 | 北京・胡同散策
今回は、前回ご紹介した三源胡同の南側にある治国胡同(ZhiguoHutong/ヂーグオフートン)
を散策してみました。



次の地図の緑色に塗った部分が治国胡同。


上の地図は本年2018年1月に印刷、中国地図出版社より発行された『2018年北京地図 大城区詳図』
の一部ですが、胡同の実際の形状とはやや違っていることをお断りしておきます。

この胡同が、「治国胡同」と呼ばれるようになったのは1965年からですが、ぐっと時代をさかのぼっ
て、明の時代には「姚鋳鍋胡同(ヤオヂューグオ フートン)」という名前でした(『北京地名典』王彬/
徐秀珊主編、中国文聯出版社、修訂版)。

時代が下って次の清の時代には、「三元庵胡同」。
この地に「三元庵」というお寺があったことに由来しているそうです(同上)。


緑色で塗ってあるのが当時の三元庵胡同。赤い矢印が指しています。この地図は『北京胡同志』
(主編段柄仁/北京出版社)所収の「清北京城街巷胡同図 乾隆十五年(公元1750年)」の一部。

なお、『古都北京デジタルマップ』所収の「乾隆京城全図」(vol.10/4ページ、カラー高解像度)
で「三元庵」というお寺のあった場所を探してみたのですが、わたしの不注意で残念ながら見つけ
ることができませんでした。

ちなみに、「乾隆京城全図」(vol.10/4ページ)の地名リストには「三元庵」という寺名が二つ記
されており、このうちの一つは前回ご紹介した「三源胡同」にあった「三元庵」を指していると思
われます。

また、この「三元庵胡同」という地名は、やはり『古都北京デジタルマップ』所収の「乾隆京城全図」
(vol.11/5ページ)の地図上ならびに同ページの地名リストにも記されています。


さて、この胡同は、次の民国期には「堯治国胡同(ヤオヂーグオ フートン)」と改名され、1965年
に現在名へ。


上にこの胡同の名称の移り変わりを書きました。

明の時代。
「姚鋳鍋胡同(ヤオヂューグオ フートン)」。
「姚」というのは人名に使われる漢字ですが、この時代に「姚」さんという鍋づくりの名人が
この胡同で暮らしていた。そんな風に考えると、楽しい。

清の時代。
「三元庵胡同」。「三元庵」という寺名に由来。

民国期。
「堯治国胡同(ヤオヂーグオ フートン)」。
「堯」(ヤオ。日本語でギョウ)。

この「堯」という漢字を中国古代の伝説上の優れた帝王の名前と捉えてみると、近代化の波が
どっとおしよせた民国期に、古代の、しかも伝説上の帝王が蘇ったのかと思われ、不思議とい
う気持ちとともに興味津々たるものがありました。

なお、「堯治国」(ヤオヂーグオ)の音が前の清の時代を飛び越えて、明の時代の「姚鋳鍋」
(ヤオヂューグオ)に似ている点にそこはかとない笑いがこみ上げてきて、可笑しい。


当日は、赤い矢印の所(西入口)から歩き出しました。
今回ご紹介するのは、緑色の部分です。




入口のお粥屋さん。


このお店は、食事時間にしか開店しておりません。



超市(スーパーマーケット)がありました。



烟酒超市と書いてありますが、ジュース、アイスクリーム、お菓子の類なども扱っています。


お店の名前が書かれていないのは、お客さんがほとんどご近所さんばかりなので、書く必要など
まったくないからなのです。

無人コンビニの姿を見かけるようになった昨今ですが、上のようなスーパーの行く末をこれからも
写真に撮っておくだけですが、記録しておきたい。



次の写真正面に洗濯物が写っていますが、この辺りで道が二手にわかれています。



当日は、左方向、北方向へ行ってみました。







雨風に傷んだ横批。
向かって左の字は不明。残りは「星高照」と書かれています。
一般的には「吉星高照」と書かれていることが多いのですが、「吉」の部分は「福」という字
にも見えます。



この横批の貼られた家の前を過ぎると突き当たりになり、そこを右折。



ここ数年、中国では“シェア自転車路上アート”が大流行り。
それは、胡同でも例外ではありません。


原則的に乗り捨て自由なシェア自転車。おりしも中国二大シェア自転車が山を築いていました。
イエローが「ofo」、オレンジとシルバーが「Mobike」。

“シェア自転車路上アート”は、利用者と企業家とが仲良く手を結んでつくり出した、時代の
尖端を行く笑えないモダンアートの傑作です。

吉星高照。
どうか、吉星が胡同をこの路上アートからお守りくださいますように!!











上の写真は、治国胡同41号院。
ここに写っていないものも含め、玄関上には20台ほどの電気メーターがありました。
このメーターの台数はこの敷地内の戸数を表しています。



鳥籠と小鳥。


小鳥の可憐な姿が目を楽しませてくれました。ありがとう。


41号院から少し行くと、



「賓館」とだけ書かれた看板。



「おおらかな看板だなぁ」
と思いながら、看板の裏側に回ってみると、
なんと、「慶興賓館」と書かれているではありませんか!!



この「慶興賓館」は、前回ご紹介した三源胡同でも見かけた旅館。


上の写真は前回ご紹介したものですが、三源胡同の「慶興賓館」とこの胡同のそれとは、
つながっていたというわけなのです。

慶興賓館の前を少し行くと、またまた賓館。





「天賜賓館」。

この賓館についてはさておき、写真奥で道が二手に分かれています。
そこで、向かって左手の細い路地を覗いてみると・・・


路地の奥に「京哈招待所」という看板があり、しかも道が左右に走っている
のが、お分かりになるでしょうか。

この道は前回ご紹介した「三源胡同」。

この細い路地は、「治国胡同」と「三源胡同」とを結ぶ路地、というわけなので、
ここは、「三源胡同」に通じる方向とは反対方向に歩いていかなくては。



さて前へ、と思っていると、可愛らしい電動三輪車がやってきました。



「京哈招待所」という看板の下を進むと、左手には、赤い提灯の列。



ここは「五豊福院」という四合院ホテルでした。






このホテル、正式名称は「北京五丰(豊)福院四合院酒店」。お値段は450元から900元。
けっこう評判の良いホテルのようです。

宿泊客の撮った写真が、楽しい。ご興味をお持ちの方はご覧ください。
(http://www.meituan.com/jiudian/110880231)

なお、上の写真右手に路地が見えますが、この路地を行くと、前回ご紹介した三源胡同2号院。


さて、お次の写真は、上のホテルの正面。



正面左手。



正面右手。



湿度も高く、気温30℃から35℃の間を上下する暑い日が日常化してしまった今年の北京の夏。
室内温度の上昇を少しでもおさえるためにあみだされた生活術。








上の写真奥を横切っているのは、やはり「治国胡同」の一部ですが、まずは左手方向へ、
つづけて右手方向を歩きます。



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第200回 北京・三源胡同(後) 地名の由来となった寺院のあった場所など

2018-08-12 10:32:42 | 北京・胡同散策
今回は前回の続きです。
まず、次の地図をご覧ください。



上の地図は本年2018年1月に印刷、中国地図出版社より発行された『2018年北京地図 大城区詳図』
の一部ですが、赤い矢印の部分が「三源胡同」で、緑色に塗った箇所が前回ご紹介した部分です。

さて、この胡同は一体いつごろ北京に出現したのかと思い、『北京胡同志』(主編段柄仁/北京出版社)
所収の地図を調べてみました。

まず、「明北京城街巷胡同図 万暦ー崇低禎年間(公元1573-1644)」を見ると、胡同自体は存在している
のですが、名前が記載されていないことが分かります。



次に、「清北京城街巷胡同図 乾隆十五年(公元1750年)」を見ると、現在の「三源胡同」が当時は
「八佛庵胡同」という名称であったことが分かりました。



そこで、続けて『古都北京デジタルマップ』所収の「乾隆京城全図」(vol.10/4ページ、カラー高
解像度)で当該箇所を見てみますと、現在の「三源胡同」すなわち当時の「八佛庵胡同」内には「八
佛庵」「三元庵」という寺院のあったことが判明しました。

ついで、といってはなんですが、わたしの錯覚でなければ、この今からおよそ270年ほど前に作成さ
れた古地図には、なんと、前回ご紹介した「窄巷福院」のある狭い路地と思しき路地までが地図上に
描かれていて驚嘆せざるをえませんでした。

「八佛庵」と「三元庵」の場所を冒頭に掲げた2018年の地図上に記してみると、大体次のようになる
のではないかと思われます。濃い目の赤色部分が「三元庵」、緑色部分が「八佛庵」。
ご笑覧いただければ、うれしいです。


ここに見られる「三元庵」という寺院がのちにこの胡同の地名になるのですが、それがいつ頃
から胡同名になるのかは不明(民国期の地図では「三元庵」という胡同名になっているのですが)。
なお、現在の「三源胡同」が「三元庵」という胡同名をその由来として胡同の名前となるのは、
1965年からのことでした。ちなみに、「三源」も「三元」も「sanyuan/サンユエン」と同音に
なっています。

ちなみに、「三元庵」「八佛庵」の「庵」とは、一般的に尼寺を指して使われる言葉です。また、
ご参考に書いておきますと、『北京城市歴史地理』(主編侯仁之、北京燕山出版社)によりますと、
「京城全図」には「三元庵」という寺が「11」あるそうです。

さて、地図による説明はこのくらいにして、さらに胡同散策を続けます。

前回は次の看板のある所までやってきたわけですが・・・



ここは、矢印とは反対の北方向へ。





突き当たりに「旅館」という謎の看板。
「旅館」という名前の旅館があるよ、ということでしょうか、それとも、矢印の方向に行くと宿泊施設が
あるよ、ということか。



行ってみようじゃありませんか。

そうそう、大切なことを確認することを忘れるところでした。
「乾隆京城全図」に描かれていた「三元庵」という寺院があったのは、この突き当たり辺りかと
思われます。







しばらく行くと、二階部分の外壁が夏の海辺の青空を思い起こさせるような色彩の施された、
ちょっと気になる建物がありました。



「この建物は、なに?」



結局分からなかったのですが、分かったこともありました。

それは、この建物内では、三菱電機の空調を使っているということ。



この建物の前辺りの風景。




少し前辺りから気になって気になって仕方なかったのですが、なにやら、いい香り、いや、
胃の腑を刺激するいい匂いが・・・

胡同は、生活感の溢れかえったお茶の間ですが、
ここ三源胡同は、夏のキャンプ場と化していました。



「いっしょに、どうですか? 」
「ビールもあるよ」

誘いの言葉に後ろ髪をひかれる思いで、夏のキャンプ場の余韻に浸りながら歩いて行くと、いよいよ
はっきりと見えてきました、旅館の看板が。



そして、おしゃれな胡同少年と胡同少女が、爽やかにわたしを追い越して行きます。






慶興賓館。


三源胡同4号。部屋数は六つほど。お値段は260元から570元ほど。簡易旅館ですが、ホテルライフを
楽しもうというのではなく、観光重視の旅行でしたら十分な旅館。

京哈招待所。


こちらは、看板だけがここに出ているだけで、肝心かなめの宿泊施設は別の胡同。

看板のすぐ近くの路地にも看板が。





と、いうことでこの旅館については回を改めてご紹介させていただくこととして、
ここは、三源胡同と書かれたプレートに沿って、東方向へまっすぐに進みます。





「便利なものは美しい」「便利なものは阿片である」。
そんなことをのたまはったお方がかつておはしましたかどうかは不明なのですが、その利便性ゆえに、
というより、利用する人々がその利便性に翻弄されてしまったがゆえに社会問題化してしまったという、
ありふれた結果をまねいたシェア自転車。



このすごぶる便利なシェア自転車の群れの辺りから、もう少し手前にもどった辺りまでの北側一帯に、
その昔「八佛庵」という先にご紹介したお寺はあったのでは? と思われます。

お次は、この胡同の東端。



窓にかけられた魔除けのニンニク。



洗面器、椅子、テーブル、テーブルの上には赤いバケツに赤い造花。



玄関。



襲い来る災厄から家族を守らんとする願いが込められた、魔除けの鏡。



涼しげに干された爽やかな洗濯物が美しいです。





この洗濯物の吊るされたお宅の前を通り過ぎると狭い路地。





三源胡同1号。





ここが三源胡同の終点かな?
そんな思いとともに、念のためにもう少し先へ行ってみることに。



突き当りを曲がると・・・



ありました、ありました、三源胡同2号院が。



ここまでが三源胡同です。

確認してよかった。もう少しのところで、この2号院を見逃してしまうところでした。
あぶない、あぶない。

これだから胡同散策は油断がならないのです。



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第199回 北京・三源胡同(前) 胡同沿いの狭い路地にあった客桟(宿屋)と春聯への1938年の感想など

2018-08-03 11:05:35 | 北京・胡同散策
今回は第193回でご紹介した「南八宝胡同」沿いにある三源胡同(SanyuanHutong/サンユエンフートン)
を散策してみました。








玄関前がよく整頓されたお宅。
ちょっとおじゃましてみました。









以前北京で暮らしていた日本の知人が、
「夏の胡同を歩いていると日本の夏の海辺の景色を思いだす」、
そんな意味のことを言っていました。

たしかに一理ある。
中庭に、あるいは道端に置かれたビーチパラソル、テーブル、数脚の椅子。
これらは夏の胡同の風物詩のひとつですが、それらを見かけると、
かき氷、スイカ、焼きトウモロコシ、そして、海の家の定番中の定番・・・醤油ラーメンなど、
夏の海辺の海の家につきものの食べ物が足の裏に残る砂浜の感触とともにつぎからつぎへと記憶
の奥から飛び出してきます。

もとに戻り、ほんの少し行くと、小さな路地の入口に看板がかかっていました。





「窄巷客桟」。



狭い路地の宿屋。

うーん、魅力的なネーミング。
のぞいてみたい。



提灯が、きれい。
夜は点灯されるのかもしれません。



ありました、ありました。



「窄巷福院」というのがこの宿屋の名前。



温馨小桟情意濃
庭院深深山水秀

対聯が、いい。



宿泊はしないものの、ぜひ部屋の様子を知りたいと思ったのですが、
係りの方が、暑いのでお疲れのご様子で、只今休憩中。



と、いうことで、今回はおじゃまするのは遠慮して、帰宅後、パソコンで調べてみました。


「窄巷客桟」で調べてみると、出てきました。

北京窄巷福院精品客桟
hotel.elong.com/92797080/

「客桟」というと、旅館は旅館でも、どちらかというと設備の粗末な宿屋といった
イメージがありますが、とんでもない、どうしてどうして、けっこうお洒落。

開業は2017年ということで、開業してまだ一年ほどしか経っていないので、各部屋とも
内装があたらしく、清潔感あり、といったところでしょうか。

お値段は、中国では一部屋いくら、と数え、
600元くらいから900元くらいまで。

住所は、三源胡同29号。



いい雰囲気の路地をあとに、もとに戻り、少し進むと、立派な門構えのお宅がありました。
ビーチパラソルのあった中庭や直前の宿屋とは違い、中庭が広そうです。





住所は、三源胡同25号。

門墩(mendun/メンドン)。



「四旧打倒」。文革の爪あとが痛々しい。







冒頭でご紹介した中庭とはまったく違い、生活の《匂い》《音》《色彩》を感じさせない“空間”が
ひろがっていました。



立派な門構えの向かい側。



赤い紙の春聯がありました。



今から八十年ほど前、日中戦争時の昭和十三年(1938年)五月、徐州作戦に従軍した、日本のある
小説家が次のように書いています。

「この付近のにはどの家にも、どんな粗末な部屋にも、必ず門口や入口には鮮やかな
字で嬉しくなるような美しい文句を書いた赤い紙が貼りつけてある。それは見窄(みすぼ)
らしい土の家には一寸不似合のように見えるが、それは悉く一家の幸福をひたすら希(ねが)
う言葉ばかりである。」

「嬉しくなるような美しい文句を書いた赤い紙」とは、ことわるまでもなく春聯のことですが、
この春聯について、作者は次のような評言を与えています。

「何か執拗に盛り上る生命の力に満ち溢れて居る」。

作者は『糞尿譚』で第六回芥川賞(昭和十二年)を受賞した火野葦平(1907-1960)、
作品名は『麦と兵隊』。

この作品自体の評価はさておいて、
「何か執拗に盛り上る生命の力に満ち溢れて居る」
という文言には作者がその“肉体”の奥底から発した、掛け値なしの作者の“肉声”が刻み込まれて
いるように感じられ、上に掲げた春聯の写真とは直接関係ないものの、あえてここに挙げてみました。

なお、これは深読みに過ぎると思われるかもしれませんが、引用文中に登場する「赤い紙」という言葉
には、《召集令状》という「赤い紙」が重ねあわされているのではないか、戦後生まれのわたしではあ
るのですが、そんな不気味な連想をしてしまってぎょっとしたこともここに記しておくことにしました。

追記:実はこの「赤い紙」(召集令状)によって戦地に赴いた日本兵と「生命の力に満ち溢れて居る」
「赤い紙」を門口などに貼っている農民との関係について、もう少し書いておきたいことがあった
のですが、ブログに載せる記事としては諸般の事情によって「ちょっとよろしくないかな」と考え、
ここではこれ以上書くことは控えておきました。

さて、さらに進むと、突き当たりになりますが、





宿泊施設探しではなく、三源胡同散策をその旨とする方は、「紅棉旅館」という看板の
矢印の方向に行ってはいけません。(絶対に行っては、ダメ、というわけではありませんが)



この看板の矢印通りに行くと、治国胡同や慶平胡同に迷い込んでしまいます。
迷い込みたいなぁ、とお思いの方はどんどんお進みください。

迷い込みたくない方は、ここは、どうしたって突き当りを左折。

そうして、ここから先は次回へ。




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