北京・胡同窯変

北京。胡同歩きが楽しい。このブログは胡同のあんな事こんな事を拙文と写真で気ままに綴る胡同お散歩日記です。本日も歩きます。

第162回 北京の胡同・趙錐子胡同(後) 八大胡同ノートー大柵欄地区における妓院の等級別胡同名ー

2017-10-31 11:31:14 | 北京・胡同散策
参ったなぁ、前回ご紹介しました“合順居飯館”に負けず劣らず底光りのするオーラを放つ、いい
雰囲気の物件がありました。




「もとはいったい何だろう?」。
胡同関係の本などには取り上げられておりませんが、注目に値する物件なのではと愚考しており
ます。


すぐ近くには改築中のお宅。

中を覗くと、どうやら改築がこれから始まるといった状況で、関係者の方たちが歓談中といった
ところでした。

現在、天橋地区では、旧時代の外観を残しつつ、内部をモダンな住居に改築推進中なのです。






上の写真のお宅の東側には、わたしを誘惑してやまない、いい雰囲気の細い路地がありましたが、
今回は省略して先に進みます。


日除けのようなものが道に架け渡してあります。


日除けの真下に入って上を見上げると、電灯設備の部品のようなものが取り付けられている
ではありませんか。


「電灯設備か?」
そんなことを考えながら体勢をもとに戻して、左手のお宅の玄関脇をふと見ると、


参ったなぁ、今度は円い鏡が目の中に飛び込んできたではありませんか。


「鏡よ、鏡よ、鏡さん。どうしてあなたは魔除けなの?」
どうして鏡が魔除けになるのか、中国の人々に、鏡が魔除けの道具として使われだしたのは
いつごろのことなのか分かりませんが、鏡が魔物、化け物の正体を暴き、退散させる神秘的
な力を持つことを示す例を次に挙げておきます。引用は、仙人になるための必読書、葛洪(
284-364)の『抱朴子』より。

 “林慮山の麓にひとつの亭があり、そこには鬼が棲んでいて、泊まる者は死んだり
  病気になったりした。毎夜数十人の人がおり、男であったり女であったり、着て
  いる物の色は、黄あるいは白、あるいは黒であった。後に伯夷という者がここに
  泊まった。彼が燈燭を明らかにして坐して経を誦みしに、夜半、十餘人の人が来
  て、伯夷と対座し、自らともにばくちを打った。伯夷密かに鏡でこれらの人たち
  を照らすと、すなわち犬であった。伯夷は燭を取って立ち上がり、間違ったふり
  をして彼らの着ているものを焼くと、毛の焦げるにおいがした。伯夷は、小刀を
  懐にし、一人を捉えて刺すと、初めは人間の叫び声をあげたが、死ぬと犬になっ
  た。ほかの犬もことごとく逃げ去り、遂に怪事の絶ったことは、鏡の力である。”




魔除けの鏡を後にすると、ありました。



「華清館妓院」の経営者、黄樹卿が住んでいたという27号院。
もちろん、写真をご覧になってもお分かりのように、現在の27号院が当時のままということ
はありません。

写真ではよく分からないかもしれませんが、27号院の前面の部分が建て増しされていて、上
の写真でいいますと、建て増しされた部分の背後、屋根の背後に注目していただけると、旧
時の建物の面影を見つけることができるのでは。


なお、この27号院の東側には「四勝胡同」という一本の路地があり、そこは昔“四聖廟”と
いう名。黄樹卿が「華清館妓院」の数軒を開いていた場所でもありました。








上の写真右手のお宅は28号院。黄樹卿の経営する妓院は28号にもありました。
もちろん、現在の28号院は27号院の場合と同じく、旧時のままということはありません。
やはり、こちらのお宅もその前面の部分が建て増しされているようです。

28号院の斜め前には、年代物の宅門。






やはり年代物の宅門がありました。

ちょっと見ただけでは見逃してしまうかもしれません。しかし、この胡同を注意して探して
みると旧時の面影を今に伝える素敵な細部にたくさん出会えるんじゃないか、そんな気がい
たします。










さて、前回は北京における妓院ならびに妓女について触れました。そこで、今回は胡同関係の本
によって、大柵欄地区の胡同の中から、妓院が多くあったといわれる胡同を等級別に書き抜いて
みました。ご興味をお持ちの方はご覧ください。なお、大柵欄地区とは、珠子口西大街の北側に
位置し、前門大街以西、前門西大街以南、南新華街以東の地域を指しています。

〇一等妓院(清吟小班)が多くあった胡同名(以下同じ) 4本
韓家潭(現名、韓家胡同)、百順胡同、陕西巷、胭脂胡同。

〇二等妓院(茶室) 5本
小李紗帽胡同(現在、小力胡同)、朱家胡同、朱茅胡同、燕家胡同、石頭胡同。

〇三等以下(下処、小下処) 7本
王広福斜街(現名、棕樹斜街)、皮条營(現名、東壁営胡同)、王皮胡同、蔡家胡同、
博興胡同、火神廟夹道(現名、青風夹道)、留守衛(下の※を参照)。
 ※「留守衛」について:現在この地名はなく、場所としては「朱家胡同」南端から東側にかけての
一部分であったと思われます。
 ※胡同関係の本によっては、“万福巷”にも多くの妓女が集住していた旨が記されていましたが、
  これらの妓女がどの等級の妓院に属していたのか不明であったため、ここでは省略といたしまし
  た。

ご参考に北京の妓院についての民国18年に行なわれた調査結果の一部を書きますと次の通りです。
一等妓院(清吟小班)の合計45軒、妓女328人。最多は「韓家胡同」で、次は「百順胡同」と「陕西巷」。
二等妓院(茶室)の合計60軒、妓女528人。最多は「石頭胡同」で、次は「朱茅胡同」。


朱家胡同45号院。「臨春楼」二等妓院(茶室)。現在は保護の対象になっています。

一等妓院や二等妓院は、門の上に名前が記され、規模も大きく、二層のものがほとんど。
しかし、三等、四等になりますと普通の民居と同じく平屋で敷地面積も狭く、名前も書かれていない
ことが多く、そのため、現在、胡同を歩いていても見逃してしまい、探すのが難しくなっています。


ところで、大柵欄の妓院といえば、“八大胡同”という言葉が頭をよぎります。そこで、ついでといっ
ては何ですが、のちほどこの“八大胡同”についても簡単に触れておきました。





“八大胡同”、そこは北京において妓院、妓女で賑わった場所の代名詞。
それならば、かつて妓女たちの脂粉でむせびかえった八大胡同とは、具体的にどの胡同を指すのか。
わたしの目に触れた範囲内での胡同関係の本の中から、以下に五種類の“八大胡同”を挙げておきました。
不備な点が多いとは思いますが、ご興味をお持ちの方はご覧ください。
なお、★印一つは、一等妓院の多かった胡同を示し、以下二等、三等以下となっています。

例1
1、韓家潭(現名、韓家胡同)★ 2、百順胡同★ 3、陕西巷★ 4、小李紗帽胡同(現名、小力胡同)★★
5、朱茅胡同★★ 6、石頭胡同★★ 7、王広福斜街(現名、棕樹斜街)★★★ 
8、留守衛(上述の※を参照)★★★

例2
1、韓家潭(現名、韓家胡同)★ 2、百順胡同★ 3、陕西巷★ 4、小李紗帽胡同(現名、小力胡同)★★
5、胭脂胡同★ 6、石頭胡同★★ 7、王広福斜街(現名、棕樹斜街)★★★ 
8、皮条營(現名、東壁営胡同)★★★

例3
1、韓家潭(現名、韓家胡同)★ 2、百順胡同★ 3、陕西巷★ 4、小李紗帽胡同(現名、小力胡同)★★
5、胭脂胡同★ 6、石頭胡同★★ 7、朱家胡同★★ 8、王広福斜街(現名、棕樹斜街)★★★ 

例4
医者として1938年(民国27年)から数年間北京在住体験をお持ちで、その時に老舎『駱駝祥子』の翻訳を
手がけた中山高志さんの「訳者補注」には、次の八本の胡同名が挙げられています。
1、石頭胡同★★ 2、陕西巷★ 3、韓家潭(現名、韓家胡同)★ 4、朱家胡同★★ 
5、柳樹衛(下の※を参照)★★★ 6、朱茅胡同★★ 7、王広福斜街(現名、棕樹斜街)★★★ 
8、燕家胡同★★
※「柳樹衛(liushuwei」について:現在この地名はなく、断定はできませんが、音の似ている
「留守衛(liushouwei」のことかと思われます。

例5
清末から民国初め、こんな歌があったそうです。

“八大胡同自古名、陕西巷百順石骰城、韓家潭畔弦歌雑、王広斜街灯火明。
万佛寺前車輻輳、二条營外路縦横、貂裘豪客知多少、簇簇胭脂坡上行。”

ここで挙げられている胡同は、次の八本だといわれています。
1、陕西巷★ 2、百順胡同★ 3、石頭胡同(下の※を参照)★★ 4、韓家胡同★
5、棕樹斜街★★★ 6、万福巷(★の数、不明) 7、大外廊營胡同と小外廊營胡同(★の数、不明)
8、胭脂胡同★
  ※「石骰」は「石頭(shitou)」と同音。
以上、五種類の“八大胡同”をご紹介いたしました。

昔日の面影を慕いつつ“八大胡同”を徘徊なさる時の伴侶(とも)としていただければ光栄です。




留学路沿い、西の出入口から東方向に歩いていきますと徐々にその道幅が狭くなっていましたが、
東の出入口にたどりつくと、道幅がだいぶ広くなったように感じます。しかし、外来のクルマが駐車
されてしまうと、廃品回収や宅急便の三輪車や歩行者はそのたびに立ち往生せざるをえない状態。




双喜文字がありました。



趙錐子胡同をふくめ、この界隈の胡同は新しい時代を迎えようとしています。写真左手の通りは
“鋪陳市胡同”。わたしが通りかかった時には改装真っ最中でした。

クルマが去り、もとの静かな胡同に。




今は昔、この胡同ならびにこの界隈の胡同には、黄樹卿の営んでいた「華清館妓院」をふくめ、三等以下の
妓院が多くあったそうです。次回はそのひとつ、趙錐子胡同沿いの現名“四勝胡同”にお付き合いいただき
ます。


 
 
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第161回 北京の胡同・趙錐子胡同(前) 民国7年北京の妓院数406軒、妓女3880人なり。

2017-10-24 10:29:08 | 北京・胡同散策
今回は前回ご紹介いたしました鷂児胡同の一本南側にあります“趙錐子胡同”を歩きます。



かつて天橋は妓女集住区の一つでした。
そんな天橋にあるこの趙錐子胡同内27号には黄樹卿という「華清館妓院」経営者が住んでいました。
彼は、民国33年(1942年)、「四聖廟」(現在この胡同沿いにある「四勝胡同」のこと)に「華清館
妓院」を開き、その後、趙錐子胡同27号、28号、61号西院、前回ご紹介した鹞児胡同29号、回を
改めてご紹介予定の四聖廟7号、8号などを手に入れ、店を拡大。やり手であった黄樹卿は、同時に
非情、非道な人物でもあったようで、解放後、もと妓女で妻の黄宛とともに死刑判決を受けました。

なお、胡同の名称について簡単に記しておきますと、明代からこの名称は続いているようで、「趙」
という名のキリ(錐)を作る名人が住んでいたことに因んでいるようです。1965年、近くの「花枝胡
同」が編入されました。


上の写真は、かつて小「大柵欄」と呼ばれ、現在も人出で賑わう商店街“留学路”沿いの西入り口
から撮ったもの。



改築中のお宅がありました。



何かのお店でしょうか。完成してみないとそれは分からないのですが、内装がモダンなものに改装
されているようです。古い外観とモダンな内部の取り合わせが印象的。胡同には旧と新との取り合
わせがよく似合う。
天橋地区の胡同も、あたかも眠れる獅子が目覚めて動き出すかのように動き出しました。新しい出
来事が天橋の歴史のひとコマに今刻まれようとしています。今後、この界隈の胡同から目が離せな
くなるかもしれません。

それはそうと、なんと可愛らしい目隠し壁であることか。



そして、その南側斜め前。


古きものと新しきものとが並列、混在する北京の縮図、それが胡同。

そうして、さらに歩きますと、



今度は、おばあちゃんとお孫さんのお二人。
年齢の差はさておいて、サンダルの色といい、目鼻立ちといい、なんと似ていらっしゃることか。


女の子の顔より大きな風船は、商店街でもらったのだそうです。



お二人と別れ、ほんの少し行ったところで見かけた、味わいのある煉瓦作りの建物。








このまま朽ちていくのを手をこまぬいて、ただただ待っているのか、それとも、やがて訪れるかも
知れぬ復活の日を静かにじっと待っているのかは分からないのですが、外壁に“合順居飯館”と刻
まれた古い建物が底光りのするオーラを放っていました。













ところで、旧時、その呼び方によってレストランには格付けがなされていたそうです。
店舗の規模から、料理の内容、食材の質、テーブルや椅子、飾られている書画など、各設備が違っ
ていました。高級で大きなものになると、戯台などもあって、食事をしながら劇や歌を楽しむこと
も出来たそうです。もちろん料理の値段も違い、訪れる客層も違っていました。

大雑把に言うと、上から「飯庄」「飯館」、そして「飯鋪」と続きます。その他、露天の屋台。
今回見かけた“合順居飯館”は真ん中の「飯館」。“食”に目のない方には興味尽きない古物件で
はないでしょうか。



さて、ここで話しはがらりと変わって、北京の花柳界のお話。
黄樹卿なる人物が経営していた「華清館」妓院の一軒が、この胡同の「61号西院」にもあったことは
当記事のはじめに記したとおり。ということは、「華清館」妓院の一軒は上に見た63号院の番地を持
つ合順居飯館の近辺にあったということになりはしないか。

次の写真は、合順居飯館の前の通り。


妓院にも旧時のレストランと同じく等級がありました。一等、二等、三等、四等。
一等の妓院の門の上には“清吟小班”と書かれた額が掛けてあったそうで、属している妓女はといえ
ば、客と酒食しながら歓談したり、マージャンしたりするのはもちろんのこと、教養も身につけてい
て客に楽器や歌舞を披露したり、即興詩を作ったりすることもでき、芸妓と呼ぶのがふさわしいかも
しれません。清遊する場所であって、客が泊まることができるようになるのは、なじみになってから
のことで、肉体を売るのは次の二等妓院以下のこと。

簡単に記しますと、二等妓院は門の上に“茶室”とあり、妓女には一等の妓女のような芸はない。
その下の三等妓院は“下処”、四等は“小下処”といわれ、これら下等妓院は洞穴の住居を意味する
「土窰」と呼ばれていたそうです。なお、妓女には異称があり、窰姐、嫖子とも呼称されています。


直前と次の二枚の写真は大柵欄地区にある「聚宝茶室」の旧跡。「茶室」とはっきり書かれていない
場合もあり。




以上は公許の妓院ならびに妓女、すなわち公娼たちですが、それに対する私娼たちは、もっぱら普通
の民居を利用。彼女たちは街を歩いて客を捉まえたり、客の口こみで次の客を獲得したり、私娼専門
の斡旋業者から紹介されたり、まさに同病相哀れむといったところでしょうか、貧苦のどん底で生存
していた人力車夫から紹介されるということもあったとか。彼女たちは、暗娼、暗門子、野鶏などと
呼ばれていました。

北京で妓院ならびに妓女の数が最も多かったといわれる民国6、7年の調査によりますと、
民国6年(1917年)、妓院391軒、妓女3500人、
民国7年(1918年)、妓院406軒、妓女3880人。

ついでに時代が下って民国18年(1929年)の調査結果を挙げておきますと、
妓院329軒、妓女3052人。

ちなみに、民国6年、私娼の数は7000人をくだらなかったそうです。

「華清館妓院」の痕跡はないものかと合順居飯館の辺りをうろうろしていると、背後で鳥の羽ばたき。
振り返りますと、男性が木の枝に鳥をとまらせて散歩しているではありませんか。

大急ぎでシャッターを切ったので、分かりづらいかもしれません。男性が右手に持つ枝の上に注目
です。いかにも胡同らしい光景のひとつ。






右手に3人立っていらっしゃる背後にはモダンなモデルルーム。
このモデルルームから少し行くとその屋根の崩れ方が印象的な門楼がありました。



モデルルームは撮り忘れてしまったのですが、この門楼はちゃんと撮っておきました。










しばらく進むと、「専業防水」と書かれた、なんとも言葉では形容しがたい魅力的な設備がありました。



そうそう、大切なことを書き漏らしてしまうところでした。
新中国成立後の1949年11月21日から翌日の22日にかけて、北京の妓院は封鎖されました。
その時の調査では、妓院は224軒、妓女1288人となっています。

なお、今回の記事の初めにあげました「華清館妓院」の経営者、黄樹卿とその妻、黄宛の二人は、
1950年12月11日に死刑判決を下され、その日の内に刑に処せられました。

次回も今回に引き続き、もう少し趙錐子胡同にお付き合いいただきます。


 
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第160回 北京の胡同・鷂児胡同(後) 清末「外城巡警庁」があった場所

2017-10-18 10:25:13 | 北京・胡同散策
まずは前回ご紹介するのを忘れてしまった37号院から。



拝見した時、門扉の上に「福」と刻まれた玄関が実に印象深いお宅だったのですが、後日知ったところでは、
京劇の童芷苓(Tong zhi ling、1922ー1995)さんが住んでいらっしゃったそうです。
せっかく北京で暮らしているのですから、もっと京劇に関して勉強しなくては。








以下、27号院あたりから東端までを一挙にご覧いただきます。
少し長くなってしまいますが、お付き合いいただければ幸いです。


















次の写真は26号院。



今回、住民の方のご厚意で、幸いにも邸内を拝見することが出来ました。









突き当りを右。



奥が深く、かつては大きな邸宅であったことが分かります。





正面に自転車が置いてありますが、ここで通路が左右に分かれていました。



まずは右側に。



今度は左。







再び自転車のところにひきかえし、



今度は、左折。





今回は、上の写真下に見えますマンホールの蓋のところで右折してみました。


正面に見えますお宅で行き止まりのようです。


もちろん、その内部まではわかりませんが、年季の入った建物が往年の姿を今にとどめているか
のような26号院。お蔭さまで偶然にもしばし楽しい時間旅行ができたことは幸いでした。


再び歩きます。













結婚につきものの双喜文字。






こちらは15号院。墀頭(chitou)の彫り飾りが可愛らしい。





鹿と梅、鶴と菊。それぞれ吉祥模様。






門洞内の壁に貼紙がびっしり貼られた20号院。
中庭にヘチマの棚。門外からグリーンを見ていたら、やはり住民の方のご厚意で庭内を拝見することが
出来たのは幸いでした。
















左手。外壁に子供の絵が描かれています。
ちょっと見づらいのですが、「上学楼」という文字も。
子供たちが集まって勉強する場所のようです。











お次は9号院。東方向から撮影。









向かって右は前回ご紹介した16号院。








お次は、やはり前回ご紹介した14号院。




後わずかで東端です。



少し進んで左手。東側から撮ったもの。



花壇がありました。



後日通りかかると。










玄関に瓢箪がぶらさがる12号院。
瓢箪、中国語で葫蘆(hulu)。
蔓物は子孫繁栄、長寿などをもたらす縁起物。瓢箪が邪気を吸い込んでくれるという説もあり。



「壺中天」の話を想い出しました。
後漢の費長房なる人物が市場役人をしていた時のこと。薬売りの老人が商売を終えるとかならず店先
の小さな壺の中に姿を消してしまうのだそうです。長房はその老人に頼んで壺の中に入れてもらった
のですが、そこは、なんと立派な建物の並ぶ別天地だったではありませんか。二人は酒を酌み交わし
て大いに楽しんだそうです。

これは「大」が「小」になり、「小」が「大」になってしまうという、いたって楽しい逆転劇。

『西遊記』にも瓢箪を介しての逆転劇がありました。
いったんは瓢箪の中に妖怪、銀角に封じ込められてしまった孫悟空ですが、結局は金角、銀角という
二妖怪を、悟空が相手の武器であった瓢箪の中に封じこめてしまうという結末。
この瓢箪、瓢箪を持っている人の呼びかけに返事をすると、返事をした人は瓢箪の中に吸い込まれて
しまうという優れもので、まるで瓢箪から駒のようなお話です。

そういえば、日本の作家、志賀直哉さんの『清兵衛と瓢箪』のお話も、ある意味で瓢箪を介しての逆
転劇だったと、言えなくもありません。






他日通りかかると、春聯が取り外されていました。
その代わりといっては何ですが、玄関脇の甕に注目です。
玄関のちょっとした変化でその表情がまったく違って見えてしまうから不思議。



お次は8号院なのですが、



門牌はなく、玄関脇に書かれていました。


どうやら玄関周りを改修したばかりのようです。


さてさて、お次はいよいよ清末に犯罪者の捜査逮捕にあたった官署「外城巡警庁」(前身は清代の
「都察院中城正指揮衙門」)のあった5号院。



ここには、民国期(1912年ー1949年)の初め「偵緝総隊」、その後「公安局偵緝総隊」が、新中国
成立後には「北京市刑警大隊」が置かれ、いずれにしましても、違法行為者を捜査逮捕する役所が
置かれていたことに変りはありません。

玄関脇には「保護院落」と書かれたプレートが貼られていました。



中にお邪魔したいと思います。


奥行きのある門洞で、かなりの敷地面積を有していたと想像されます。

次の写真は上の写真の突き当り右側の状況です。



行き止まりのようなので、今度は反対の左側へ。


少し前進して、右折。



次は突き当りを左へ。
この辺りに来ますと方向感覚がおかしくなってしまいます。



突き当りをほんの少し右へ。



石段を上がって前進です。



ところで、この警察署には民国期に一人の盗賊が収監されていたことがあるそうです。
名前は李景華(Li jinghua/りけいか)。

狙った相手が興味深い。
中華民国臨時執政、つまり国家元首の段祺瑞(Duan qirui/だんきずい)、
張作霖政権下の内閣総理兼交通部総長の藩復(Pan fu/はんふく)、
大軍閥の張宗昌(Zhang zongchang/ちょうそうしょう)、
やはり軍閥の一人、褚玉璞(Chu yupu/ちょぎょくぼく)などなど。

李景華は、義賊(侠盗)と称えられ、その綽名は“燕子李三”。

思えば、民国期には、大小さまざまな軍閥や政治家たちが、困窮にあえぐ民衆を尻目に、同時に
その民衆を巻き込んで“国盗り合戦”にあけくれていた時代という一面のあったことは否めず、
官も匪(ひ)であり、盗(とう)であった時代。

それは、李景華のようなアウトロー並びにそのシンパサイザーを培養するのに十分すぎる土壌が
たっぷりと敷きつめられていた時代でもありました。

李景華さんが亡くなったのは、ほぼ十一ヵ月後の12月に西安事件を、そして一年半後には蘆溝橋
事変(中国では、七・七事変)勃発をひかえた1936年1月のこと。時代はさらに混迷、混乱した暗
い時代へと突入して行きます。

なお、義賊と称えられた李景華さんが亡くなった1936年は、奇しくもその晩年を世捨て人のよう
に暮らしていた名妓、賽金花さんが、鷂児胡同にほど近い居仁里(胡同)の自宅でひっそりと息をひ
きとった年でもありました。


まだまだ奥があるようです。



正面突き当りを左へ曲がって前へ。





突き当りの右側。行き止まりのようです。



仕方がないので、お次は左へ。



やはり行き止まり。

「見落としてしまったところが、まだまだあるに違いない」。
そんな思いを抱きながら、今回はここで玄関のところに引き返しました。














次の写真は、東端から西方向を撮ったもの。


上の写真の左手前。
ちょっと分かりづらいかも知れませんが、後日通りかかりますとその外観が変わっていました。
この辺りの胡同も改修工事が始まっています。



右側の男性は、「便利超市(スーパー)」のご主人。


東端まで歩いて、こちらのスーパーで冷えたコーヒーを購入。
ほっとひと息コーヒータイム。


渇いたノドをうるおし、一休み、一休み。

次回も天橋地区の胡同をご紹介させていただきます。
長い記事にお付き合いくださいまして、ありがとうございました。



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