北京・胡同窯変

北京。胡同歩きが楽しい。このブログは胡同のあんな事こんな事を拙文と写真で気ままに綴る胡同お散歩日記です。本日も歩きます。

第176回 北京の胡同・(続)福昌里 改修は未完了です。付『乾隆京城全図』を楽しむ。

2017-12-30 11:32:33 | 北京・胡同散策
第172回でご紹介した時には改修工事真っ最中だった福昌里。その後、期待しながら再び訪れて
みました。撮影は本年12月下旬。



工事関係者の方たちの姿はどこにもなく、足を踏み入れると改修の途中で工事は一時休止といった
状態でした。







前回お邪魔した時には、それぞれの玄関に「門簪」はついていなかったのですが、今回お邪魔した
時には取り付けてありました。次の写真の玄関は上の写真右手に写っているもの。



しかし、その「門簪」に第171回の永勝巷でご覧いただいたような吉祥文字は書かれておりません。
断定はできませんが、今後、書かれることが予想されます。

また、ご覧になってお分かりのように外壁に永勝巷のようなタイルも貼られておりません。やはり、
今後貼られるといってよいかもしれません。

さらに注目したいのは上の写真に写っている路面。右手に写っている玄関手前辺りから地面が新しく
なっています。これはいったい何を意味しているのか。





屋根にも新しくなった永勝巷と同じ瓦が葺かれていました。



次の写真の玄関内は、第172回で工事関係者の方たちがパイプを埋設していたところです。
やはり「門簪」が取り付けられています。



パイプの埋設工事は無事に終了。





次の写真の右側。前回の時に工事関係者の方が外壁の状態を調べていた玄関と外壁。















この胡同の北端のお宅の玄関にも「門簪」。



北端から南方向を見たこの胡同の様子です。



改修工事が終了するのは、まだまだ先のようです。

【ご報告】
第172回の福昌里に関する記事で、この胡同には昔、娘娘廟のあったことを書きましたが、その後、
『乾隆京城全図』で福昌里辺りを見ますと、現在の福昌里の東側辺りにに“真武廟”のあったこと
が判明しました。また、清の朱一新『京師坊巷志稿』を見ますと「斗姥宮 康熙三十四年建,地以宮
名。東有真武廟,西有仁壽寺,舊為昭顯廟,俱詳寺觀。」とあり、第170回でご紹介しました「斗母
宮」と今回の「真武廟」の名が載っていましたことをご報告させていただきます。

ついでに真武について簡単に書きますと、北方の守護神。玄武、玄天上帝などの別名をもっていま
す。窪徳忠さんの『道教の神々』によりますと、二十八宿の星のうちの北方の玄武すなわち斗、牛、
女、虚、危、室、壁の七宿を合わせて神格化したものなのだそうです。
真武は清代に「北極佑聖真君」に封ぜられています。

さて、『乾隆京城全図』は、清の乾隆十五年(1750年)に作成された北京の内城外城の地図ですが、
当時の北京を知る上で貴重な資料のひとつとなっています。ご興味をお持ちの方は、下のURLにアク
セスするか、当ブログのブックマークの『古都北京デジタルマップ』で観ることができますので、ど
うぞご覧になって、当時の北京をお楽しみください。

『古都北京デジタルマップ』
dsr.nii.ac.jp/beijing-maps/

分かりづらい説明で申し訳ありませんが、下に地図の見方の一例を書いておきましたので、ご参考に
どうぞ。

〇地図の見方(その一例)
1、まずは、URLにアクセス。
2、右横の「乾隆京城全図」をクリック。
3、「コレクション情報」が現れますので、そのまま画面を下に移動。
4、すると「ボリューム情報」があります。
5、例えば今回ご紹介した「福昌里」の東側にあった「真武廟」を確認したい場合。
 画面右側に「vol、14」とあり、「解題」に「天橋」とあるところまで画面を下に移動し、移動し
 たら、その画面の左端をクリック。
6、画面が変わりましたら、「第十四排」とある本の表紙上をクリック。
7、再び「第十四排」とある本の表紙が現れましたら、矢印(→)を「0008」になるまでクリックして
 ください。
8、7で現れた画面をクリックすると拡大することができます。
9、「真武廟」は、左下の「先農壇」の一部(曲線部)の右横にある建物(?)の一番右の建物の東端上方
 あたりにあります。

ご報告をもうひとつ。
2017年12月下旬に福昌里を訪れた時、すぐ近くにある“霊佑胡同”は改修工事真っ最中。
賽金花さんが住んでいらっしゃった“居仁里”は改修の途中で工事一時休止といったような
状態でした。下の写真は当日の霊佑胡同。





次の写真は「大喇叭胡同」「小喇叭胡同」「何家胡同」「永勝巷」「福昌里」などの胡同がある
永安路沿いの様子。目隠し壁で覆われています。



最後になってしまいましたが、いつも当ブログをご覧くださっている皆様、本年中は
当ブログ「北京・胡同窯変」にお付き合いくださいまして、まことに有難うございました。
2018年が皆様にとりまして素敵な一年でありますよう、胡同窯変、心より念じております。

次回は新年一月に入ってからですが、場所はやはり天橋地区の続きとなります。
2018年もよろしくお願い致します。




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第175回 北京の胡同・何家胡同(後) 胡同徘徊から子供の絵と史家胡同博物館、白菜と腊八粥、灯籠と灯節などに及ぶ。

2017-12-26 11:23:40 | 北京・胡同散策
可愛らしい細い小道。
初めてこの胡同に迷い込んだ時、
「突き当りを左かな、それとも右かな」
などと考えながらも、ちょっと不安になり、これ以上進むのにちょっとためらいを覚えた
ものです。

この細道は左は行き止まりですので、右、方向としては南方面へ。



右折すると、再び短い路地が続いています。





この胡同に住んでいる子供がチョークで塗ったようですが、わたしには美しすぎる。



ちょっと横道にそれますが、北京の胡同には、幼稚園の生徒たちが壁に描いた絵が、ちゃんと
保存されている場所があります。

その保存されている絵。



場所は、北京の良心“史家胡同博物館”内。

下の写真は、かつてここにあった史家幼稚園と園児達が描いた絵についての解説です。



史家胡同博物館にお立ち寄りの折には、壁に遺された昔の子供たちの絵も見逃さずに、
ぜひご覧ください。




落ち着きのある門構えが美しい史家胡同博物館。


突き当りの物置を今度は左折。







細く短い小道を抜けて、左側。





だいぶ寒い季節になっていたのに蔦が緑色を保っていました。
ひょっとして日当たりの良さが原因か?



蔓棚の上の物干し台では、洗濯物たちが気持ち良さそうに陽光を浴びていました。







前にマンホールの蓋が見えます。この蓋のところでコースが二手に分かれています。
右手に曲がって小道沿いに歩いて行くと永安路にある、もう一つの出入口へ。
まっすぐ進んで左折すると、今後紹介予定の“儲子営胡同”。

今回は、まずはまっすぐ進みます。









出入口の上に長ネギが干してありました。

長ネギや白菜のでまわる季節になると、胡同などではそれらを陽に干している光景を必ずと
いって良いほど見かけます。それはもう、風物詩のひとつ。

清末の敦崇『燕京歳時記』に、白菜についての記述がありましたので、ご参考に次に抜い
ておきました。白菜が単なる「おかず」ではなかったことが伝わる文章です。
“大白菜とは乃ち鹽漬けの白菜である。凡そ臘八粥を贈答する家では必ずこれをば添物と
 する。白菜の良悪しで其家の盛衰を卜ふことが出来るのだ。”
 (小野勝年訳註『北京年中行事記』より)

なお、引用中に見える「臘八(ラアバア)」とは、旧暦12月8日のこと。中国ではお釈迦様の成
道の日とされています。「臘八粥(ラアバアヂョウ)」とは、その日に食べるお粥のことですが、
上掲書には、当時の人々のこの臘八粥(ラアバアヂョウ)を作り、食べることへの並々ならぬこ
だわりをうかがい知ることのできる記述がありました。ご興味をお持ちの方はお読みください。
引用に当たり、一部表記を改めたり、加筆しています。
“毎年臘月(じゅうにがつ)七日に至ると果皮を剥き、器物を洗浄し、終夜仕度する。天明(夜
 明け)の時に至ると粥が煮熟するのだ。これを祖先に祀り、仏に供する以外に、親戚友人にも
 分かち贈る。贈るのには午(ひる)を過ぎてはならない。〔贈る場合は〕同時に紅い棗や桃仁
 等を用いて獅子や小児の類を製して粥の上に置き趣向を凝らすのだ。”
“「燕都遊覧志」を見るに、十二月八日、朝廷では百官に粥を賜る。民間でも亦臘八粥を作る。
 果物・米穀其他雑多な品物の多く入った粥を勝れたものとする。と記して居る。今日では百官
 に粥を賜ることはないけれど、貴族等は粥を互いに贈答し、巧みを競い奇を争う。”

かつての中国の人々は「臘八粥(ラアバアヂョウ)」をつくり食べ、五穀豊穣を祝い、あるいは祈
願しました。今まで、お粥屋で何気に食べていたお粥ですが、次回行った時には、目の前に置か
れたお粥や添物の白菜とじっくり向き合ってみたいと思います。










灯籠を模した紙で作った小さな飾りがさがっていました。



胡同を歩くと軒先に吊るされた紅い灯籠(提灯)を見かけますが、灯籠で見逃すことが出来ないのは
なんといっても“灯節”(ドンジェ)。やはり敦崇『燕京歳時記』に「灯節」についての記録があり
ますので次にその一部を抜いておきました。灯節の時の清末の北京の街の様子の一端を垣間見るよ
すがともなれば嬉しいです。
“(旧正月)十三日から十七日に至るまで、一様にこれを燈節というが、ただ十五日のみは正燈と
いう。毎年燈節に至ると宮廷では饗宴を行い、花火を放ち、市肆では燈籠を吊るす。目抜きの
大通の燈火は東四牌楼及び地安門が最も盛である。工部のものがこれに次ぎ、兵部又これに次ぐ。
他処は皆それに及ばない。東安門、新街口、西四牌楼の如きも亦やや観るに足るものがある。”
“各種の燈籠は多くは紗絹(うすぎぬ)、硝子(ガラス)及び明膠(さらしにかわ)を以って作り、
〔其面には〕並びに古今の故事を画いて玩賞に供している。市民の器用な者は又結氷させて
 器を作り、麦苗を栽植して人や物の形を作る。華にして侈ならず、朴にして俗ならず、殊に
 観るに値いするものである。”

上の文章を読みますと、灯籠を吊るすのは「燈節」の期間であったことが分かります。しかし、現
在は季節にかかわりなく吊るされた灯籠を見ることができるようになりました。

文中に登場する「東四牌楼」「地安門」「東安門」「新街口」「西四牌楼」はそれぞれ有名な場所
ですので説明は省略させていただきますが、ここでは「工部」「兵部」について簡単に触れておき
ました。

「工部」「兵部」ともに当時の役所名。場所を確認するために次に地図を掲げておきました。

まずは、清の時代。
オレンジ色の棒線で囲んだところがそれですが、北から兵部、その南隣に工部があったことが
分かります。


場所はミドリ色棒線部の「天安門」の東南方向、現在の「東長安街」をまたいだあたり一帯、
中国国家博物館の東側北寄りに位置していたと言って良いかもしれません。
地図は『清北京城街巷胡同図 乾隆十五年(公元1750年)』(『北京胡同志』)を使用。

ついでに民国期の地図を見ますと、この辺りは、各国使館区であった「東交民巷」の一部で、
イギリスとロシアの「操場」などが置かれていたことがわかります。
地図は民国期に発行された『北京内外城詳図』(複製)を使用。



ちなみに、灯籠関係で書き落とすことのできない事項を二つほど。
北京の有名な場所のひとつとして「南池子大街」がありますが、その道沿いには清の時代に
内務府灯籠庫のあったことに由来する“灯籠庫胡同”という胡同がありますので、お近くに
行かれた折には、ぜひお立ち寄りください。

もうひとつ。
先に挙げました清末の敦崇『燕京歳時記』の訳註を手がけた小野勝年さんは、「灯籠」につ
いてその註で次のように記しているのは記憶するに値する内容を持っているかと思われます。
ご参考になれば幸いです。
 「D.Bodde氏は灯籠の意味を解して、これは太陽の光と暖さとを迎える古代の儀式に根源
 し、西洋の復活祭とも或る類似を持って居る。そして又此祭は春耕の為の降雨を招く儀式
 でもあると云って居る。」(小野勝年訳註『北京年中行事記』より)
 






レトロでモダンな幾何学模様を施したお宅がありました。



このような幾何学模様が北京の住居の模様として施されるようになったのはいつごろのことなのか。
ご存知の方がいらっしゃいましたら、当ブログのコメント欄にご一報していただけるとありがたい
です。よろしくお願い致します。





















この胡同の北側出入口。

写真奥を横切るのは“儲子営胡同”。



ここで再び前にご覧いただいたマンホールのところに戻り、今度は右手に曲がり、永安路にある、
もう一つの出入口へ。







地元通州の胡同の玄関上によく見かける「花瓦頂」がありました。



こちらの玄関の両脇に描かれた子供の絵。





子供の絵を過ぎると、もう少しで永安路沿いの東側出入口に到達します。




初めて訪れ、上の写真の門扉に対面した時の記憶が生々しく残っています。

門扉に対聯が刻まれた門聯。





門環、護門鉄。美しい青。





前を横切るのは永安路。



この出入口を出て左、東方向にほんの少し歩きますとかつて皇帝が渡った“天橋”です。


永安路側から見た何家胡同東側の胡同口。




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第174回 北京の胡同・何家胡同(前) 多くのホーさんが暮していたそうです。

2017-12-21 20:18:07 | 北京・胡同散策
何家胡同(ホージアフートン)。

胡同関係の本によって沿革と名前の由来を簡単に書きますと、清の雍正年間(1772年-1735年)
以前は“何家荘”、その後“何家大院”となり、1965年現在名に改められました。
名前の由来は「何」姓の方が多く住んでいたことに因んでいるそうです。

この胡同には永安路沿いに二ヶ所、後にご紹介する儲子営胡同沿いに一ヶ所の計三ヶ所の
出入口がありますが、当日は永安路沿い小喇叭胡同の一本東側から入りました。





胡同口周辺は改築中。
今後どのような姿になるのか気になるところです。







右手の玄関には「工事関係者以外立ち入り禁止」と書かれています。






右手の住宅跡地に入ってみました。



写真奥の家には、当日はまだ居住者がいらっしゃいました。




どんな方が住んでいらっしゃったのでしょうか。
現在廃墟にあるのは、数台の放置自転車。
しかし壁には、まだ時間がそれほど経っていない「福」と書かれたお目出度い紅い紙が、
確かにここには人が住んでいたことの証しのように貼られていました。


どんな方がお座りになるのか、こちらの住居跡には、一脚の腰掛がぽつんと置かれていました。
今後、どのような変貌をとげるのか、ご報告にはまだまだ時間がかかりそうです。












木目模様の微妙で繊細な美しさ。









「北京の造花はよくできている」
余談になりますが、以前北京で暮らしていらっしゃったいけばな師の大坪光泉さんから、そん
な意味の言葉を伺ったことがありました。北京にお住みになった方ならお分かりのように、お
そらく自然環境の厳しさが技術の向上に一役買っているのではないかと思われます。

なお、大坪光泉さんの作品にご興味をお持ちの方は当ブログのブックマークか次のURLでご覧
になれます。
『Ohtsubo Kosen`s Flower Planet』 https://e-flowerplanet.com/j/











この味わいのある郵便受けは、北京の至宝《北京老物件博物館》に収蔵してほしい一件。

ちなみに、次の写真の方は北京老物件博物館の館長、宋振忠さん。


「かつて北京の人たちは日々の暮らしの中でどんな道具を使っていたんだろう? 」、
そんな疑問や興味をお持ちの方は、ぜひ《 北京老物件博物館》へどうぞ。
場所は南羅鼓巷雨児胡同。

胡同にお住まいで胡同会代表の多田麻美さんのエッセイ(NHKラジオ講座『まいにち中国語』
2016年4月号・遊びの達人)によりますと、館長の宋振忠さんは「先祖代々300年、北京に住
み続けてきた」そうです。そんな宋振忠さんが集めに集めたお宝の数々が収蔵されている《
北京老物件博物館》。いったいどんな宝物が収蔵されているのか。ぜひお出かけになり、ご
自分の目で確かめてみてはいかがでしょうか。

宝物のほとんどは手にとって触れることができ、かつての北京の人々の暮らしぶりが一目瞭然、
文字通り「手に取るように」わかる博物館。






洗濯物が干してある。ただそれだけのことに過ぎないわけですが、青空の下、陽を浴びて
干された洗濯物を見ると、お日さまの温もり、生命の温もりを感じてしまいます。寒さの
厳しい北京の冬にはなおさらのことかもしれません。
そして、こういう洗濯物の写真を撮っていると、天気の良い日、胡同の道端に置かれた椅
子に腰をかけて心地よさそうにうつらうつらしている人たちの姿までが目に浮かびます。


ぐっと胸に迫る細い小道。







ここから先は、次回に。




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第173回 通州、わが愛しき街には馬車が走る。

2017-12-18 11:37:59 | 街角便り
2017年も残りわずか。
今回は胡同から寄り道して、
新たな年を迎えるにあたり、わたしの夢。


(通州の自宅付近で撮影)


この馬車に乗って京杭運河沿いを散歩すること。
この馬車に乗って北京や地元の胡同まで行くこと。

無理、だろうなぁ。




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第172回 北京の胡同・福昌里 娘娘廟と天橋の著名双簧芸人孫宝才ーやはり工事中ー

2017-12-15 11:23:03 | 北京・胡同散策
福昌里。
前回、前々回ご紹介した永勝巷とおなじく「不通行」と書かれています。
場所はやはり前回ご紹介した永勝巷の東側。



中に入る前に、この胡同に関する話題を二つ。
小さな路地ですが、胡同関係の本によりますと、ここには、昔“娘娘廟(ニアンニアンミャオ)”
があったそうです。

娘娘は、皇后や貴妃を指すこともありますが、ここでは、女神のこと。
その娘娘にはたくさんの種類があるそうで、その一部を挙げると、たとえば、出産を促進す
る崔生娘娘、子授けの送子娘娘、子孫を授けたり、生育を助ける子孫娘娘、眼病とくに子供
の一切の眼病を治してくれる眼光娘娘、子供の天然痘を治す痘疹娘娘など。(窪徳忠著『道
教の神々』より)

なお、前々回ご紹介した北斗七星の母親といわれる“斗母”は、上掲書によりますと同じ女
神でも道教では高位で“斗母元君”と呼ばれ、一説では、斗母娘娘と呼ばれることもあるそ
そうです。

また、“斗母”は同書によりますと「摩利支天から思いつかれた、もしくは摩利支天を道教
に引き入れた神」で、「戦前までの東北部や河北省方面では子授けの神として多くの人びと
から崇拝されていた」とのこと。

別の話題をひとつ。
胡同関係の本によりますと、この胡同には、著名な天橋の双簧芸人孫宝才さんが住んでいらっ
しゃったとのこと。残念ながらわたしはその芸を観たことはないのですが、「双簧(シュアン
フアン)」とは、二人でやる芸で前にいる人はただ口を動かしたり動作したりするだけで、実
際に発声する人はその後ろに隠れている、といった演芸の一種なのだそうです。孫宝才さんは、
義和団事件のあった1900年に生れ、1991年にお亡くなりになっていらっしゃいます。

さて、出入口の前に立って路地の中を見ると、たくさんの工事関係者の姿がありました。







初めはためらいがあったものの、福昌里の歴史の一コマの記録として出来る範囲で写真を
撮っておきたいと思い、中に入ってみました。





写真を撮っていると奥で工事関係者達がなにやら相談中。
さっそく行ってみました。



工事関係者の肩ごしに覗くと、なにやらパイプを埋設中でした。





次の写真奥に見える玄関がこの胡同の北端。
その手前の玄関脇では新たにタイルを貼るためか、外壁の状態を調査中。



出入口を入って歩くと、あっという間に北端で、胡同関係の本によりますと、長さ30
メートル。ちなみに、北京の胡同で最も短い胡同は1965年に楊梅竹斜街に編入された
“一尺大街”で、その長さ20メートルあまり。福昌里より短いわけですが、この福昌
里も短い胡同の中に入るのではないかと思われます。



北側のお宅にもパイプを埋設するそうです。

福昌里の変貌ぶりは、後日報告させていただきます。




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